四章 2/4 〈積み木のモザイク〉

 夏祭りの準備一日目から三日経つ。

 二日目の作業日だ。

 前回と同様に、藤棚内の北側の端、二階建ての小さな建物の前で他の参加者と合流する。昼は猛暑になる予報もされているが、参加者のみんなは怪我防止のために長袖長ズボンの作業服やジャージ姿だ。涼しそうな恰好をしている人はいなかった。

 今日は集合場所の建物の一階シャッターがすでに開けられていた。祭りなどのイベント時、アーティストに演奏をしてもらうためのステージになるのだ。

 ところが。アーティストに期待するような浮ついた空気はなかった。

 嫌なざわつきがあった。

 先に集まっていた職員や作業の参加者が何かの話をしている。誰しもが訝しんでいて、陰鬱な表情でいた。

 僕は彼ら集まりに、白髪交じりの静夫さんの姿を見つけて彼に尋ねた。


「おはようございます。何かあったんですか」


 静夫さんは僕におはようと返してまず、いや、と何かを否定したいらしい言葉を挟んでから説明してくれた。


「役場の方で、殺人があったらしい。もしかしたら祭りが中止になるかもしれんだと。橋本さんていう人で、夏祭りの担当していた職員だったそうだ。メガネかけて細い人だ。覚えているか」

「いいえ。あの、殺されたって、殺人、本当ですか」


 確認は必要だ。認識を見誤るな。


「警察関係者がそう言っている。橋本さんが行方不明になっていて、彼の持ち物と思われるものや身体の一部が役場の裏から発見されたらしい。捜査中だがほぼ確定だと」

「身体の一部……」


 持ち物もあったのか。


「容疑者もあがっていないらしいから、子どもたちが集まるような行事は控えたほうがいいかもしれんということだ。こればっかりは中止になっても文句はいえん」

「今日はどうするんですか。片付けですか」

「ああ、いや。今日のところは作業を予定通りするつもりらしいぞ。本当に中止にするかはまだ決まっていないそうだ」


 僕がまだ情報を得ようとしたところで、大きな声の挨拶が注目を集めた。


「おはようございます」


 ぴたりと雑談が止む。参加者の視線が彼ひとりに向けられた。

 ステージ前に職員が並んでいた。有子の姿もある。彼等の顔にはクマなどの疲弊がすでにあった。静夫さんの話が本当なら、警察の捜査の協力や、業務としての事件の対応に追われているのだろう。

 最初に挨拶で注目を集めた男性職員が張りのある声を出して、朝礼をはじめた。

 簡単な挨拶から、まず夏祭り担当責任者の橋本大紀はしもとたいきの行方不明と、役場の方で障害事件の捜査が行われていることの説明がされる。橋本大紀行方不明の捜査と、役場裏で発見された人体の一部の捜査はそれぞれで行われているのを強調していた。関係性の断定がされていないのを敢えて言葉にするあたり、こちらで好き勝手憶測を立てて雑談していたことの注意の意味もあるのだろう。いたずらに騒ぐなと釘を刺したいのだ。

 祭り担当の橋本大紀が行方不明であるため、責任者が引き継ぎで替わったことも、その場で報告された。確かに一人減ったようなのは僕でもわかるが、その人物をはっきりと覚えていないため、事態の把握に実感が着いてきていない。責任者とはいえ現場にも顔を出す程度だったかもしれない。

 たぶん、あれが、その人だったのだろうけど。

 ともかく、祭りが中止される可能性が高いのを示唆しながらも、まだ決まっていない状態にあるらしい。今日のところは予定通りの作業と、イベント出演者のリハーサルまで行われる。

 職員がまだ説明中でも、作業参加者からの不満げに唸る声やため息がちらほらあった。職員は淡々と業務内容の説明を続けていた。

 そのためか職員の話はさほど長くかからず終わった。

 僕と静夫さんは、他の参加者と一緒にステージの準備に入った。掃除と簡単なコードの配置を完了させる。しばらくして出演者がそれぞれ車で到着した。

 出演者との挨拶は簡単に済まされ、静夫さんと他数人で彼らの荷物移動やや楽器のセッティングを手伝った。

 職員の呼びかけで、全体の作業が一旦止められる。これからリハーサルが行われるのだ。

 出演グループは三組だ。一組目の中年男性五人組がステージでチューナップをはじめている。僕たちはステージ前の地べたに並べたパイプ椅子に座った。

 生ライブというのは実のところ僕は初体験だった。アーティストなんて子どもの頃の記憶で止まっていて、曲を滅多に聴かないが、空気の震えを肌で実感する音楽というものに感動を覚えた。なんとも単純なのだ。

 知っている曲も知らない曲も楽しめた。音楽を聴く楽しさを教えてくれる。離れたところで他の役所職員と一緒にいる有子も笑顔だった。

 アーティストの演奏が終わると拍手が自然と生まれていた。

 さしあたって滞りなくリハーサルは終わった。十一時以降に子どもたちの人形浄瑠璃のリハーサルもあるらしい。

 それまで境内での作業を再開となった。

 作業のほとんどが一日目で終わっていて、半ば手持ち無沙汰でのんびりする。草取りをするふりで、日陰で涼んだ。

 平和だ。ずっとこう有りたい。

 ただただ怠惰に身を任せたくなる。

 ささやか程度の風に乗って、老人たちの雑談が聞こえた。


「今回、人形劇は〝神えらび〟をやるんだってね」

「楽しみだよ。まさか子どもたちがやってくれるなんてね」

「きっと八女津姫やめつひめ様もお喜びになられる」


 僕は耳を疑った。草取りのふりすら忘れていた。

 そっとそちらを視線で窺えば、五人の老人がいた。彼らの誰かが確かに〝神えらび〟といっていた。しかし、異様といえる様子はない。藤の葉が作る影の下で、朗らかに世間話をしているようだった。

 あの、白い集団の行進はない。神楽鈴の音も、咽せるような苔の臭いすらもない。

 僕が、息を殺して内心の恐怖を抑え込んで耐えているのとは裏腹に、彼らからは笑いもおきていた。

 おそらく、彼らと僕とでは、〝神えらび〟の認識が違う。

 それが感情だけか、内容そのものかはわからない。彼らにとっては脅威ではない事実だけがある。

 そして、〝神えらび〟があるのも事実だった。

 〝神えらび〟の行進にはあいつもいた。

 あの日も。有子を探した夜。津江神社に立ち尽くす前の十時間以上の記憶喪失より前で、僕は化け物に膝をついて頭を下げたのだ。直面せず屈したから今が有る。狂っていたふりを見透かされて、壊されたのだ。思い出しただけで、また笑い出しそうだった。

 もし、逃げず、立ち向かっていたのなら、どうなっていただろう。

 〝神えらび〟も、逃げずにいられたら、何かが起きていた。そんな気がする。

 幼い頃の記憶。父の言葉がよぎる。――お前には必要ない。

 父は正しい。

 僕では、到底立ち向かえそうにない。

 老人たちがまた作業を再開していた。ちりぢりになっていくのを遠くから見やるのが精一杯だ。彼らに〝神えらび〟とは何なのか問いただす勇気がなかった。草取りのふりで蹲ったままでいるしかなかった。

 またしばらくして、参加者代表の清原さんが休憩を呼びかける。クーラーボックスから飲み物を配っていた。清原さんからジュースを受け取って、携帯電話で時間を確認する。十一時半を過ぎていた。そろそろ子どもたちが藤棚に到着する時間らしく、僕たちはステージ前に招集を受けた。パイプ椅子に座って、子どもたちの到着を待ちながら喉を潤す。

 有子の姿は他の役場職員と一緒にあった。今日は軽く挨拶したのみでまともに会話していない。


「そういや朝一は〝神えらび〟を知っているか」


 僕が有子を見やる方向とは反対側で僕の隣の席に静夫さんが座った。急に声をかけられたのもあって肩をびくつかせてしまう。まさか静夫さんの口からのその言葉を聞かされるとも予想していなかった。

 焦りを悟らせまいと平常を装う。


「いえ。あの、〝神えらび〟って、なんなんですか」

「やはり。昌義あきよし兄さんから何も聞かされていないのか」


 僕の父の名前だ。あの人は家族の実感を、僕から遠のかせた。彼の言葉は今でも僕の心に突き刺さっている。

 静夫さんは言外に、僕が父から聞かされるべきことを知らないのも、その理由も知っていると言った。


「どういうことなんですか。父さんは僕に何か隠していたのですか」


 僕と彼らとは、家族ではやはり違ったのか。


「たいそうな話ではない。〝神えらび〟とは、日向神村ひゅうがみむらで信仰されていた八女津姫の祭事とその伝説だ。村がダムの底に沈んでからは、祭事も自然と廃れて今では伝説だけが、古い人間の間だけで語り継がれている。櫟家は、元は八女津姫神の祭事〝神えらび〟を携わってきたというだけの話だ」

「初めて聞きました」


 八女津姫神は知っている。榊木町より東の山奥、矢部村に小さな社が残されている。日向神村は、日向神峡に構えていた村で現在はダムの底に沈んでいた。

 しかし、〝神えらび〟は知らない。祭事に携わってきた家だったというのも初耳だ。


「とはいってもだ。取り仕切る名家ではなかった。助力する側で、そんなに力も持っていなかったと聞いている。たいそうな立場でもない。だから、すっかり廃れてしまった信仰を今でも形だけで繋げようとするのを、まるでかつての栄光にすがりつく無様のようで、昌義兄さんは嫌っていた。お前に話すことはないと言っていたのを覚えている」


 おかしな話だ。

 僕は父親から、この町の古い風習を教えられている。それと一緒に、櫟家独特の仕来りも教えられていた。僕がいくつかの古い風習を実家だけだと知ったのは、高校生になってからだった。

 父さんが櫟家の仕来りや歴史を嫌っていたのなら、どうして僕に教えたのだろう。

 肝心の〝神えらび〟や信仰柱を教えてくれなかった。

 それこそ父の嫌う、形だけ、じゃないか。


「昌義兄さんが嫌っていた理由はもう一つある。〝神えらび〟の原型は人柱の儀礼だ。そういう歴史もあるから、子どもに伝えづらかったのかもしれない」


 静夫さんが親身に父さんをフォローしてくれる。

 腑に落ちていなかったのが顔に出ていたようだ。

 気になるのは〝神えらび〟もだけど、僕は父の行動の矛盾が指先のささくれのようで不快だった。

 あの不可思議な緑の実を取り上げられた瞬間から、僕と父親たちとの家族の実感は切れてしまっている。それをなんとか仮初めでも感じていたくて、父親からの教えを理不尽に思いながらも教えられる機会を拒絶しなかった。

 ところが、父親にとって、その教えは忌避すべきものだった。

 僕は、彼にとことん嫌われていたってことなのか。父親の、緑の実を取り上げたときの冷たい顔が忘れられない。


「父さんは、なんで僕に神棚での拝み方とか、古い仕来りを教えたりしたんでしょうか」

「……子どもには元気でいてほしいからだよ」


 そんな言葉は誰からも聞きたくない。

 あの人は僕を家族から切り離した人だ。


「よくわかりません」

「俺も、実のところ、あいつの考えはわかっていないかもしれない。結局俺は分家で、昌義兄さんは本家の人間だから。何か他に思うところもあったのだろう」

「かもしれません」


 自分でもよく言えたものだなんて思う。僕は今更父親がどんな人だったかなんて、期待を抱けない。

 叔父との話をそろそろ切り上げたくなってきたところで、遠くから賑やかな子どもたちの声が聞こえた。ようやく到着のようだ。

 僕と静夫さんとの会話を気にしている人たちはいなかった。ここでは〝神えらび〟の話題も、血縁の関係者も、奇異の意識を向けられるものではないのかもしれない。

 昨日今日のニュースなどの雑談が続いていた会場前が、子どもたちの到着を知って、落ち着きを見せる。彼らの興味はまもなく到着する子どもたちに向けられていた。

 役場の職員もそれぞれで姿勢を正している。有子の姿もあった。そういえば、彼女とは挨拶すらも交わしていない。避けられているわけでも僕が避けているわけでもなく、単にタイミングが合わなかっただけだ。今日はアーティストや、これから来る子どもたちの対応準備で彼女は忙しそうだった。

 僕と彼女との関係に変わりはない。

 教師を先頭に子どもたちが藤棚に到着した。六年生で構成された十数人と教師のふたりが、ステージの建物前に並ぶ。子どもたちの表情に固さがある。それ以上に顔を強ばらせているのが教師のふたりだった。緊張がこちらにも伝わってくる。

 観客席の、準備参加者の顔はほころんでいた。当事者の心知らずというよりは、頑張っている姿を微笑ましく見守っている感じだ。


「それでは。これより、夏祭り昼の部で行われる人形浄瑠璃のリハーサルがはじまります。演者の榊木小学校の六年生、人形浄瑠璃クラブの子どもたちと、顧問の中津先生、副顧問の佐藤先生です」

「はい。ご紹介与りました、榊木小学校人形浄瑠璃クラブ顧問の中津弘幸といいます。演目は〝神えらび〟です。すでにご存じかと思いますが、今回の〝神えらび〟は元の伝説や逸話を題材にこちらで話を作ったオリジナルになります」


 人形浄瑠璃に使われる人形や小道具以外の台座のセッティングは済ませてある。準備段階で今日の段取りは聞かされている。リハーサルだが最後まで通すらしい。

 ともあれ。人形浄瑠璃の〝神えらび〟がオリジナルとなるなら、僕の見た〝神えらび〟とは別物だろう。あの白い集団とは二度と出会いたくないから、ほっとする。

 もし……。あのとき〝神えらび〟の行進を目撃したのは、僕がその一族だからなのか。ここで何もなくとも、無関係でいられないかもしれない不安があった。

 なぜ父が古い風習を教える一方で、その知識や歴史まで話してくれなかったのか、一層わからなくなる。

 僕の見つめる先で、舞台に人形や小道具を準備する子どもたちと、その間を埋めるべく、人形浄瑠璃の演目が〝神えらび〟になるまでの経緯などを話す教師の姿があった。


「今は日向神ダムの底に沈みました日向神村には、五年に一度の夏の祭事〝神えらび〟がありました。これと矢部村に残っています四年に一度の秋の祭事〝浮立ふりゅう〟との年が重なる、二十年に一度を、祭り年と呼んで特別なものとして行事もおこなわれていたそうです。人形浄瑠璃の演目を何にしようかという話の時、ひとりの子が〝神えらび〟の伝説や祭り年の話をしてくれました。クラブ全員の賛成で、〝神えらび〟を演じることになりました」


 教師の固さがなくなっていった。話していくにつれて緊張が取れてきているのが声にも現れている。


「まず。それには日向神村や〝神えらび〟を知る人たちに直接話を聞く方がいいだろうと、子どもたちと取材することになり。はい。竹中さん、その節はありがとうございます」


 教師が観客席に会釈をする。七十超えている老人がいた。〝神えらび〟を知る人だろう。もしくは僕と同じ日向神村の血縁者かもしれない。見るからに普通の、やや痩せ細った老人だ。


「ええと。非常に協力的で暖かく迎え入れたものですから、これは何としてでも素晴らしいものにしようと盛り上がってしまいまして。あまり熱が入りすぎて、私だけで空回りすることもありましたが」


 観客席で笑いが起きる。なるほど、ここ数人と教師はすでに顔なじみまで交流していたようだ。

 〝神えらび〟は静夫さんの話とおり、年寄りには知られている伝説のようだった。


「監督と脚本は私と副顧問の佐藤先生でがんばりました。やはり昔ながらの伝説なので、どうして哀しいお話になりましたが、素晴らしいものになった自負しています。監修は、さきほどの竹中さんと、ほか日向神村の出身血縁者人たちにもやってもらいました」


 それでは、と教師が後ろを振り返る。舞台では子どもたちが黒子の姿を着て、人形や小道具を持って並んで立っていた。副顧問の佐藤先生がうなずきで応えている。


「準備もそろそろいいみたいですね。私たち六年生で演じさせてもらいます。演目は、〝神えらび〟です」


 いよいよはじまるのだ。

 僕は膝の上で拳を握りしめて身体の震えを止めていた。あるときの早朝の神社で対峙した異形の行列。彼らが唱える言葉を忘れられない。ああ、――神えらびをせねばならん。

 果たして。僕の知る〝神えらび〟かどうか。立ち去ってでも逃げなかったのは、僕が〝神えらび〟と関係する血縁でありながら、父がその事実を伏せていた真意を、どこかで確かめたい子どもの心がすがりついたからかもしれない。

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