四章 1/4 〈愚人は夏の虫〉
……暑い。
夏の匂いが僕の鼻にこびりついた苔臭さを清めていく。蝉の鳴き声が五月蠅い。全身汗で濡れていてシャツが背中にはりついていた。地面の砂利を踏んで僕は、僕が立っているのを認識する。
目の前には大きな
これが何の木かわかる時点で、僕は今の場所をどこか把握している。
僕は大木の根元近くの柵の前に立っていた。木の頂点を視線で追うには仰いでも足りず、背筋をややのけ反らせる。この樟の樹高は四十メートルあり、幹周は十五メートルあるらしい。
榊木町の
樹齢八百年を超えた神木の枝葉の広がりは、まるで空をも掴もうとするような根のようだ。ともすれば、根ざしているのは果たして本当に大地なのかと――。
榊木町の津江神社は、この島国を作ったとされる二柱の
どうやら僕は、神木の前でぼんやりしていたようだ。ここまではわかっている。
今の時間はいつになるのだろうかと、神木の枝葉の向こうを見やる。明るい青空に雲が流れている。昼間なのは間違いない。空の様子だけでは詳細の時刻に判断がつかず、結局携帯電話で確認する。
無機質の数字が午前十一時五十二分を表示していた。
記憶している日付が一日進んでいた。時間にすると十二時間以上だ。その長時間の記憶がなかった。僕は、どうにもおかしくなっているようだ。
自嘲が溢れる。
――しゃん。
蝉たちの合唱の向こう側で神楽鈴の音が聞こえる。
腑に落ちた気がした。
身体が重い。疲れが溜まっている。
有子の、また明日ねの言葉を思い出しながら、津江神社を去った。
自宅の自室でしばらく横になる。先にシャワーと着替えを済ませてしまいたいが、ここまでたどり着くだけで限界だった。休みたくてしたかない。あっさり眠れた。
目が覚めたときは夕方になっていた。
有子は結局一度も尋ねてきていない。携帯電話にも居間にも、メールや書き置きがなかった。たまたま都合がつかなかったことも考えられる。こちらから確かめてもよかったが、さして用事があるわけでもない。何かあれば有子から連絡するはずだから、僕は手に取っていた携帯電話をベッドに放り投げて、汗を流しに向かった。
どうせまた会えるのだ。
信仰に近い確信が僕をさらに愚かにする。心地よい汚泥に浸かっていたい。
――あの月夜。黒い怪物の前で、僕は膝をついて地面に額をつけた。
懇願したのだ。
こんなのは無理だ、と。耐えられない、と。
「ヒひっ――……」
引きつった笑いが漏れてしまう。
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