三章 5/5 〈黒き仔山羊〉

 寝落ちしていた。

 藤棚での祭りの準備から帰って、五時間寝ていた。

 おかげで風呂に入ったのは午後の九時をすぎていた。目が冴えていて眠れず、じっとしておくのも苦痛に感じた。

 夜風に当たって火照り冷まそう。

 外は、B級ホラーのお馴染みじみた薄気味悪いくらいの人気の無さだった。道を照らす街灯の光もどことなく冷たくて、暗闇の影からゾンビでも出てきそうだ。

 近くをぶらりと歩こうか。

 幽霊の存在などまったく怖くないわけでもないが、震え上がるほど苦手ともしていない。夏らしい虫や蛙のやかましさが恐怖心を少しだけ消してくれてもいた。

 念のために携帯電話と財布を持ち歩いて、夜の散歩に出かけた。そんなに遠くへ行かなければ危ないこともない。

 眠れなかったのは寝落ちが一番の原因だが、少年の言葉も要因している。ふとすると頭の中で繰り返される。彼は、みんな言っているといった。


「みんな、か」


 どこの誰かだなんて愚問だ。

 胃が痛む。

 静夫さんは当然知っているだろう。有子も。

 だから僕に何かをさせようとしていたのだ。

 ため息が漏れる。気分が鬱になりそうだ。せっかくの散歩も気晴らしにはなりそうになかった。夜中を長く歩き回るのは、不審者扱いで通報されかねない。

 僕は家路に着いた。あとは自室で横になって眠るのを待つことにする。

 家の前まで戻ったところで、見知った人が必死の形相で街灯の下を走ってくるのが見えた。


「朝一くん!」


 夜闇を全力で走ってきたのは、有子の母親だった。息を荒げていて、髪も乱れてしまっている。嫌な予感がした。この人が取り乱す原因は一つしか思い浮かばない。


「有子が……、有子がまだ帰ってきていないの!」


 ちくしょう!

 戦慄を覚えた。

 神山家は母の恵子さんが成人の娘に厳しい門限を強いている。有子はこれを守れないとき、事前に連絡しなければならない決まりだ。


「有子からの連絡は」

「ないの。ぜんぜん。ケータイにかけても出てくれないの。何が起きてるの。私どうしたらいいの。私、わたし、わたしまた有子を」

「落ち着いてください。恵子さんはなるべく家にいてください。心当たりのありそうなところに連絡していてください。僕も探しますから」


 僕は自分の家に急いだ。

今の時間は九時半を過ぎたばかりだ。いくら残業でも仕事は終わっているはずだ。それでなくても一報を入れないのはおかしかった。

 最悪が頭に浮かぶ。恐怖で蹲りたくなる。僕は家の土間で靴を脱ぎ捨てると、助かりたい一心で仏間に駆け込んだ。

 部屋の明かりをつけて仏壇の前棚を見た。三つのキーホルダーがある。消えてない。なら、どこかへいっただけのはず。クソ。どこに。

 まずはあいつの行動範囲を潰すしかない。有子は今日残業すると言っていた。なら最初に向かう場所は決まっている。僕は踵を返す。榊木町の役場へ向かった。手当たり次第だ。

 ああ、でも、嫌な予感だけが止まらない。

 街灯が暗闇の道しるべをしている。

 役場は建物自体が新しい。まだ新築されて十年と経っていなかった。しかし、それも夜の闇に包まれて、訪問者を待ち構える冷淡に迎えていた。人の気配がなさすぎるのが今は怖い。顔に張り付く虫を払って、僕は役場の駐車場を突っ切った。

 やっぱりもう閉まってるか。自動ドアも反応しない。硝子の向こうを覗き込んでも非常灯しか見えない。すると。

 人の、気配?

 感といえるもの。すぐ否定に変わる。、と音が鳴った。確かに聞こえた。

 あの音だ。

 神楽鈴の。

 今度は、明瞭に聞こえる。

 ほら。また聞こえる。こっちだ。

 昼間の僕ならこの音を聞いただけで近寄ろうともしなくなる。だが、今は有子を探しているのだ。彼女がいるかもしれないのなら、僕は行かなければならない。

 僕は役場裏に回る。役場の柵に沿ってツツジが植えてあった。ここでは街灯の光が遠くて、視界が暗くなる。ただ、月明かりが届いていて、目は次第に闇の世界を捉えていった。

 赤?

 何やら赤く照るアスファルトの上に、神山有子の姿があった。仕事のスーツを着ている。

 彼女は夜闇と月明かりの狭間で、遠い眼差しを東の山に向けていた。

 声をかけようとしたけど、吸い込んだ空気の異臭で咄嗟に口と鼻を覆った。


「っ」


 血なまぐさい。鼻から味覚をも刺激する臭いだ。あの赤は、血だ。有子の頬や服にもついている。

 有子とその周りが真っ赤に染まっていた。彼女に怪我はない。あいつ以外の何かのだ。もう見るからに明らかだ。ちくしょう。血の色なんて、こんなに赤かったのか。

 ツツジの茂みの傍には人の腕らしきものがあった。


「!」


 吐き気がする。逃げ出したい。あいつがこっちに気づく前に帰ってしまえば、きっと明日には何もかもなかったことになるはずなんだ。

 でも。


「有子」

「トモ。どうしたの。こんなところに」

「お前がな。何してんだよ。門限はどうした」

「え」


 彼女は腕時計で時間を確認している。ようやく気づいたらしい。それでも空を仰いで、夜かどうかも確認してやがる。ぼんやりしてる。

 もっと気の利いた言葉をかけてやりたい。でも僕にそんな器用さはない。

 昼間の一件のギクシャクは尾を引いていない。

 僕はもとから話が得意なほうではない。こんなときだからこそ、口籠もってしまう。

 でも、何か話しかけないといけない。唾を飲んでも、喉は渇いたままだった。それでも僕はつなぎ止めたい一心で踏みとどまった。


「ほんとだー。帰らないと」

「おい。その前に、それをどうにかしろ。もっと問題になるぞ。柘榴でも食べたのか」

「柘榴は秋だよ。なんだろうねこれ。血? うわー、すげえ」


 自分でも声が震えているのがわかる。

 逃げるな。もう逃げられない。逃げるなよ。


「一応聞くぞ。何があったんだよ」

「なんだろう。わかんないや」


 いつもの有子の笑顔だった。やめてくれ。そんな顔をしないでくれ。頼むから、今だけはその顔で笑わないでくれ。

 有子はスーツまで染みこんだ血を見ている。顔も、頬の目元近くまで血で真っ赤なんだよ。僕の思考は直感で、食べたんだと理解していた。


「まってろ。今何か」

「大丈夫。こんなのは、ほら」


 彼女が自分の全身を見せるように、両の腕を軽く広げた。

 じゅる、と音がした。有子から。

 真っ赤な血が吸われていく。服についたものは皮膚が。地面のものは有子の足下へ、まるで映像の逆再生のように集まった。

 視界にノイズが走る。

 有子の姿がぼやけて割れていく。胸や腰などそれなりに出るところは出ている、女性的な肉体が消える。あの白装束の集団が僕の脳裏に浮かんだ。

 

 彼女だったものは、黒に近い緑の触手が幾重にも絡まることで人型を形成していた。ノイズの向こうから現れたおぞましい化け物が、割れた声で鳴く。人の顔を真似ようとして醜悪に歪んだ顔だ。縦に裂けた大きな口と、いくつもの目が、笑顔のそれとわかるように、ぐにゃりと曲がった。

 やめてくれ。あんまりだ。

 僕は知っている。

 あいつだ。

 神社で、白装束の集団でひとり、僕に素顔を見せたあいつだ。

 なんだこれ。なんでだよ。なんであいつがお前なんだ。お前は有子だろ。違う。有子はもう――――。じゃあこれは誰だ! お前はなんだ! 誰だ! おかしいじゃねえか!

 そいつが、ツツジの傍に落ちている誰か腕を拾って、縦に裂けた口で食べた。ごりごりと骨ごとかみ砕いた。そのまま、そいつは血肉がついた口で、僕を呼んだ。


「■■」


 壊れた声だ。聞き取れない。

 でも僕の名を呼んだんだ。

 僕にはわかる。

 聞き取れない言葉がわかる。

 わかるわけがないのにわかる。

 知っている。聞こえている。

 僕は耐えきれなかった。


「お前は、なんなんだよ!」


 叫んでしまった。言ってしまった。

 怪物の醜悪に蠢いていた触手がピタリと止まる。あのいっぱいある目が僕を完全に捉えている。蹄の足が、かつんと僕の方に踏み出した。

 逃げろ!


「あ」


 咄嗟に走り出そうとした足が躓いて転んでしまう。

 急いで身体を起こし、後方を確認したときには、彼女の接近を許してしまっていた。

 足を引きずりようにして腕の力で下がる僕の、一メートルそこらまで近づいていた。

 かつん、かつん、と蹄の足を鳴らす化け物。

 だめだ。身体が動かない。動かし方がわからなくなっている。腕も震えてばかりで力が入らない。少しでも目を逸らせば殺されそうで、恐怖が僕を縛り付けた。

 そいつはぐちゃと身体を曲げて、黒緑の触手で僕の頬を撫でる。僕の手が届く距離まで、彼女は来ていた。縦に裂けた口が、耳を塞ぎたくなる不快な音を鳴らす。その悍ましい顔が鼻先まで近づく。たくさんの目が僕の顔の一点に焦点を合わせていた。咽せそうなくらいの苔に似た臭いが僕を包み込んだ。

 縦に裂けた口からの血なまぐささが、僕に顛末を囁く。歯の隙間に見える皮膚らしきものや、髪の毛が、どうか気のせいであって欲しい。


「あああ、ああああああ、あああ、あああああああああ!」


 逃げ切れない僕の身体を黒緑の触手が巻き付いてきた。

 化け物の顔がさらに近づいた。


「あはははははははははははははははははははははははははははははははは!」

「■■」

「あはははははははははははははははははははははははははははははははは!」

「■■」


 笑っている。

 僕は笑っている。

 たぶん、怖くてどうしようもないから、笑うしかなくなったんだ。

 不快でおぞましい声を何度も聞かされた頭がおかしくなりそうだった。

 どうせならひと思いに頭を大きな口でかみ砕いてくれればよかったんだ。

 じいっと見つめられ、焦らされて、割れた声で囁かれて、僕は限界だった。

 怖い。怖い。怖い。助けて。助けて。

 助けて誰か。助けて。誰か。誰か、誰か、誰か。


「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは、ひゃは、ひゃひゃは、ひゃひゃははは、ひゃひゃひゃひゃ!

 あ――――――――――――ッ!」


 ――――――――――――――――――。

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