三章 4/5 〈産土〉

 夏祭り準備一日目。午前八時ちょうど。すでに蝉は五月蠅く、気温もそろそろ暑くなろうとしていた。

 僕は藤棚に来ていた。麦わら帽子と長袖長ズボンの作業時の格好だ。軍手も持ってきている。草取りやゴミ拾いもするらしく、ねじり鎌や火ばさみなどの道具も準備している。

 渓流矢部川沿いにある、素戔嗚尊を崇め奉る素盞嗚神社の境内には、樹齢六百年を超える藤の木が蔓を伸ばして、葉を広げている。この町のいく末を見守ってきた大昔の大樹のひとつだ。

 夏祭りのときには、境内は会場になる。屋台が並び、人々が集う。夜には花火も打ち上がって、藤棚と矢部川沿いは人でいっぱいになって、みんな夜空を見上げるのだ。

 そのための清掃と準備をしなければならなかった。

 藤棚には作業着の格好でいるのは僕を含めて、二十人くらい人が集まっていた。

 役場の職員が僕たちの前に並んで立って、朝の挨拶からはじまる。今日の業務内容と内訳の説明があった。職員の中には有子の姿もあった。彼女も動きやすい作業着の格好をしていた。

 仕事中の有子を見るのはこれがはじめてだ。いつものだらけた姿や優しい表情と違い、全体の印象が凜としていた。目を逸らされた。仕事中は友人の顔をしないのだろう。僕も変に親しくしない方がいいかもしれない。

 まず現場に慣れている人と、屋台などの準備のために配線を用意するらしい。僕など今回初参加の人や女性は境内の草むしりとゴミ拾いの担当を任された。男子トイレ清掃も頼まれた。

 作業が開始されたものの、僕はぐるりと境内を一周しただけで手持ち無沙汰になる。そもそも神社なのだから、ゴミらしいゴミがあまり落ちていない。雑草も境内の隅にしか生えていない。開始三十分も経たず、ゴミ拾いと草むしりは終わりが見えていた。

 やることがなくてぶらりと境内を歩く。

 素盞嗚神社の境内の隅には、小さな社がいくつかある。きっと産土神で、時代の流れと共に、素盞嗚神社に統合されたのだろう。

 それらの一つに、小さくはあるが精巧な石造りの社があった。苔がびっしり生えていて、経年が窺える。とはいえ、同じ境内の他の摂社などはきちんと手入れがされている。一つだけ苔むしているは違和感があった。

 他とは別のところが管理しているのだろうか。その古びた石の社の前には、ひとりの老婆が手を合わせていた。

 あの人も祭り準備の参加者だろうかと思い返すけど、顔ぶれを覚えていないのではっきりとわからない。単にお参りにきただけかもしれなかった。

 やけにうるさかったはずの蝉の声がぴたりと遠くなる。老婆の声が聞こえる。



 神えらび。

 僕の身体は反射で固まってしまった。

 まさかまた聞くことになるなんて思っていなかった。あれからお気に入りだった神社には近づいていない。先日あのとき出会った少女と再会した後も、神えらびなんて聞いていない。

 周囲に白の集団の影はない。神楽鈴の音も聞こえない。あんな体験、二度はごめんだった。

 もうないだろうと安堵したくて、記憶の隅に忘却されるのを待った。それなのに――――。老婆の言葉は続く。


「神えらびは、せねばならん。産土神との約束を今もこの地で柱にするために。これまで続いた豊穣と、この先の安寧を重ねるために柱を連ならせねばならん。譬え我が子でも柱を成す。産土神様を留めねば我らは再びあの声に還ってしまう。あの声に、あの、叫びに。なればこそ、我らは、今一度、幾たびも、神えらびをせねばならん」


 怯えている。そんな声だった。

 老婆は最後にぎゅっと数珠を握りしめてから、石の社をとぼとぼと離れた。去り際の老婆の顔がまるで魂が抜け落ちたかのようだった。生気が抜け落ちていて、死体が歩いているようで、ぞっとする。

 老婆はすれ違っても、僕の方をちらりとも見なかった。そのまま境内を出て行った。

 僕は、ついっと老婆が拝んでいた社を見やる。いったいどんな神様を奉っているのだろうと気になってしまう。近寄ることはしない。またあの白の集団に出くわす真似はさけたかった。

 石の社を避けて通ろうとしたとき、しゃん、と神楽鈴の音を聞いた。

 僕の目は苔むした社を捉えていた。

 さっきと何かが変わっている。ここからではせいぜい社の扉が少し開いていることしかわからない。嫌な予感がする。

 逃げなければ。

 その瞬間、石の社が弾けた。破片を飛び散らして出てきたのは、黒く緑色の太い蔓だ。僕の視界は瞬きの暇も無く、蔓で埋め尽くされた。声も上げられない。

 身動きができない。身体が締め付けられている。痛い。苦しい。喉の奥から臓器を吐き出してしまいそうだ。呼吸ができない。腕も足も動かない。折れたかもしれない。もうだめだ。

 意識の暗転が僕に死を予感させた。


「朝一。そろそろトイレ掃除をしておけ」

「!」


 はっとする。

 全身は汗でびっしょりだ。蝉の声が聞こえる。身体は動く。呼吸もできた。

 静夫さんが驚いた顔をしていた。


「おい。どうした。凄い汗だぞ」

「……なんでもありません。久々に身体を動かしているからだと思います」

「休んでおくか」

「大丈夫です。トイレ掃除のついでに、頭を水で濡らしますから。冷やせば落ち着きます」

「そうか。気分が悪かったら言うんだぞ」

「はい。掃除道具はトイレの中にありますか」

「そのはずだ。足りないものがあるなら、有子ちゃんに聞いてみろ」


 わかりました、と僕は歩き出す。

 さっきは遠回りしようとしていた摂社の前を行く。

 苔むした石の社なんてない。たぶん、一つ減っている。痕跡も土台らしき物も何も無い。もう何も起きないのを確信していた。

 夏の暑さにやられて見た夢なのかもしれない。そうでなくては、僕は気を保てない。あんなものはないほうがいい。

 静夫さんだって僕以外に何も見えていないようだった。あちらが正常で、僕が狂っているのだ。僕の見たものが異常なのだから。

 トイレは、数年前に新しく改築されていて、デザインは小綺麗としている。しかし、境内のはずだが、他と違い手入れが行き届いていなかった。和式の大便器はうんこの狙いがはずれて床に一部取り残されたのが、黒く変色していた。洋式のほうは飛び散った排泄物が点々と、水で流せないところに模様を作っている。

 小便器の一つは誰が捨てたかわからないペットボトル一本あった。

 流し台に至っては黒カビが目立つ。蛇口も水垢で白くなっていた。

 外の喫煙者用の灰皿はすでに一杯まで吸い殻が詰めてあって、捨てる場所ですらなかった。

 まだ午前中だ。利用者がいたとしても、半日も経たずにここまで汚くなるケースは滅多にない。定期的な掃除がされていないのだ。

 そのために今日の僕のような役目があるのだと思えば納得するしかなかった。

 排泄物は人間の生きていくうえでなくせないものだ。僕も当然出す。汚いと思う心は綺麗にしようとする準備体操と胸中で言い聞かせて、淡々と掃除の作業に取りかかった。用具入れにあった洗剤は、幸いまだ容量に余裕があったので、今日は潤沢に使わせてもらった。

 途中、静夫さんが応援に来て、二人で仕上げた。

 九時半あたりになって、ちょうどトイレ掃除も終えたころ。静夫さんから休憩だと言われ、最初の集合場所に戻る。今日の参加者で代表の男性が持参したクーラーボックスからお茶やジュースなどのペットボトルを配っていた。

 代表はメンバーの中で僕の次に若い。三十代後半とくらいの人だ。積極的に人と接して、作業自体も誰よりも働いていた。

 僕と静夫さんも、彼が渡して回るジュースをあやかる。

 集まった人がおのおので誰かと話すか、どこかに腰掛けるかで休みだした。

 今回初参加でもある僕は居心地の悪さから、少し距離をおいてベンチにちょこんと座る。ちゃんと皆の姿が見えるところだ。年寄りの多い一般参加者と、役場の若い職員たちが作業内容や近況の話で盛り上がっているのを眺めた。

 そのうちのひとり、有子が暫くしてこちらに歩いてきた。どことなく嬉しそうだ。


「今日はありがと。参加してくれて」

「礼を言うほどでもないだろ。有子は仕事でだし。俺は、成り行きだ」

「嬉しいの。私は、嬉しいの」


 有子は優しい表情で微笑んだ。

 返す言葉に困る。頬が熱いのを夏のせいにしたかった。親しげに話しかけてきたという事は、もしかしたら僕との関係が他の人たちにも知れたのかもしれない。僕も少しは友人の顔をしていいのだろう。

 ねえ覚えてる? と有子は話を切り出した。


「ここ、夏も涼しくて川も近いから、三人で中学の帰りによく寄ったよね」

「まだあそこの駄菓子屋もやってたし、帰り道だったしな」


 駄菓子屋はお店の人が代替わりしてからは主に椎茸を売っている。昔のように駄菓子屋として開けるのは、祭りの時くらいになってしまった。これも時代なのだろう。

 藤棚は僕の家からだと歩いて十分とかからないから、子どもの頃は駄菓子屋にお小遣いをもらっては走って買い物に来ていた。そんな思い出も、今では幻と変わらない。


「ここもいろいろ整備されたし」


 国の天然記念物である大藤は、このままでは将来枯れてしまうと一時期話題になったことがある。原因は長年の成長で境内に広く張った根を、観光客や参拝者が藤の根をそれと気づかず踏みつけていたことにあったらしい。その根の浸食は境内の外の道路にまで及んでいて、

 つい二、三年くらい前に対策の工事が行われ、訪れた人が藤の根を踏んでしまわないように木の板で保護されるようになった。人が休めるベンチなども増設されて、新しい憩いの場にもなっている。


「ちょっと歩いてみようよ」

「さっきゴミ拾いで見て回ったばっかりなんだけど」


 ぼそりと言ってしまった。ものすごい悲しい目で抗議された。はいはい、と僕は腰を上げる。こういうときは素直に従うほうがいい。

 有子はあっさり機嫌を直してくれた。二人で新しく整備されたところへ向かった。もちろん二人とも、整備されたのをみるのは初めてではない。有子はただ二人で歩きたいのだ。僕は彼女の意思を汲み取って付き合うことにした。

 神社の正面の参道から石の鳥居を潜って、正門にあたるほうへ歩く。解説版などに目を通しながら、夏の日差しに元気よく枝葉を広げる藤を眺めた。遠くに聞こえる川の関の音が気持ちいい。蝉の鳴き声もあって夏らしい音色になっている。

 と、ちょうど道路側の鳥居を潜って、男女二人の子どもが境内に踏み入った。

 僕は見知った顔に少し驚く。これで三度目だ。

 少年に連れ添って歩いていた女の子は丹波百合だった。いつかの早朝で山の神社で出会った少女だ。隣の少年は誰かわからないが、女の子が僕を見て足を止めたことで、険しい目つきを僕に向けていた。

 少年は、まるで女の子を守るように僕との間に立つ。

 ともすれば今すぐにでも騒ぎ出しかねない剣幕だ。僕はどうすればいいかもわからず、子ども相手に怖じ気づいて一歩下がる。

 すれ違いに、手水舎を見ていた有子が僕の隣に立った。


「おはよう。宏太くん」

「ゆうこ、さん。あれ? え!」

「おはようございます。宏太くん」


 有子は同じ表情のままで挨拶が繰り返す。圧があった。ちょっと怖いぞ。

 小さな声で、少年は「おはようございます」と返した。

 有子は満足な笑みを浮かべる。


「よろしい。で。どうしたの。怖い顔してたけど」

「それは……有子さんは、そいつのなんなんだよ。知り合いなのか」

「うん。私の大切な友達」

「っ」


 どうしてさも嬉しそうな顔で紹介するのかと苦言を呈したくなる。友達といっても、それでは誤解されかねない。

 少年はショックを受けた顔になっていた。間違いなく勘違いされている。年上で可愛い顔立ちのお姉さんとくれば、少年の心境はわからないわけがなかった。


「知り合い?」

「そうなの。ほら、今回の集まりで代表やってもらってる清原さんて人いるでしょ。あの人の息子さん」

「なるほど。言われてみれば」


 どことなく面影があるようで。

 人間の遺伝子が為す現象を目の当たりにして、ついじろじろと見てしまう。少年が不快そうに顔を歪める。

 その彼の袖を、少女が引っ張った。前回に続いてまたも僕を怖がると思いきや、彼女の注意は有子に向けられているようだった。この二人はそういう仲なのだろうか。まさか、それとも。


「コータ、もう行こう。おじさんにジュースもらいに来たんでしょ」

「そうだった」


 少女の催促で、少年は本来の目的を思い出したようだった。

 あっさりと敵対姿勢を解いて、僕たちの脇を通り過ぎる。神社の向こう、まだ他の作業員がいるほうへ歩いて行く。

 僕としても安堵で肩の力を抜いた。背中で少年の声を聞いた。


「有子さん。そいつとあんまり仲良くしない方がいいぞ! みんな言ってるぞ。そいつは何もできない奴だって!」


 少女に引っ張られていった。

 僕は小さな声で、咄嗟に怒ってくれそうだった有子を止めていた。

 だからだと思い上がりたい。有子が少年を叱ろうとしたときよりも感情のある、哀しい目で僕を見ていた。心の中で感謝する。


「いいんだよ。事実だから。僕に何かをできるなんて、思ってないから」


 僕は何もできない。会社でずっと言われてきたことだ。社会に出て、真っ先に学ばされた現実との擦り合わせの結果だ。


「そんなことないから」


 情けない僕を、彼女は眉を立てて叱ってくれる。ありがとう。決して言葉にできない感謝を、何度もつぶやく。

 神社を挟んだ向こうから、賑やかな声が聞こえる。少年と作業員たちで盛り上がっていた。あの少年は本来人を明るくさせることができるようだ。少年の笑い声から彼の表情も浮かびそうで、心底羨ましかった。

 やがて休憩は終わる。有子が腕時計で知らせてくれた。

 僕たちが戻るときには、少年とあの少女の姿はなかった。

 後半の作業は屋台の骨組みの設置を手伝った。

 祭りの準備自体は二日に分けて行われる。今日は午後の三時を過ぎて終了となった。

 有子は昼食の配給された弁当のゴミが入った袋を抱えて、一度役場に戻って残りの事務作業をするらしい。行事のときは残業もするとのこと。他の職員と仲よさそうに話しながら帰っているところを見る限り、彼女の職場の環境は悪くないようだった。

「また、明日ね」

「ああ。明日」

 あれから交わした言葉はこれだけだった。

 午前中の少年との一件で有子とは少しギクシャクしていた。明日になればまたいつも通りになれるだろうと、彼女との仲を修正しなかった。

 僕は家に着くと、自室のベッドで力尽きた。どうにも少年の言葉が利いているようだ。


「何もできない、か。知ってるよ」


 虚しい。

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