三章 3/5 〈人の陰〉
麦わら帽子の男性が、インターホンを押していた。
僕はたまたま外に出て庭の様子を眺めていたので、玄関前に立つ彼を背中から見ることになる。男性が振り向かなくても、その人が誰かわかった。
丸めた背中と汚れた作業着。土のついた軍手をしている。やぶけているズボンと、年季の入った長靴を履いていた。
櫟静夫。叔父だ。白髪頭で仏頂面がありありと浮かぶ。また癪に障るようなことを言われるのも嫌なので、彼が立ち去るまで隠れていようかとも迷う。
と、叔父さんがため息混じりで振り返って、僕に気づいた。
「居たなら声をかけないか」
「こんにちわ。今日はどうしたのですか」
叔父さん相手だと僕もつい不機嫌になってしまう。なんとか自制心で突っぱねて帰したい感情を抑え込んだ。
「もうすぐ夏祭りがある。来週会場の準備をするからお前も手伝え。金はやる」
「それ、強制ですか」
金さえ払うならこっちが働いてくれると思っている、わけではないのはわかっている。どんな理由や形にせよ、僕に働く機会をつくろうとしているのだ。
だから、僕に苛立ちを持たせる。つい生意気な口を利いてしまった。
「嫌ならそうしろ。ひとり二人いなくても準備は終わる。話を持ってきたのはお前が時間を余しているからだ」
「参加しますよ。時間と日時を教えてください」
「……」
「なんですか」
叔父が目をぱちくりしている。彼には意外だったようだ。
たまには散歩以外で身体を動かそうと思っただけだ。先日の丹波亜美さんを助けた一件で、心境に変化があったのかもしれない。何かをしてみたかった。
「明後日の朝七時半に、藤棚の
「あ、こんにちわー」
わかりました、と返答をしようとしたところで、僕の後ろから元気なよく通る声がした。有子が敷地の坂を登ってきていた。
彼女の白い日傘の下は、夏には蒸し暑そうなスーツ姿だ。有子は町の役場で働いている。公務員をやっている。昼休憩か他所への用事のついで、あるいはその両方の時間を利用してここに来たのを窺える。
「静夫さん、今日はどうしたんです。あ、夏祭りの件ですね。大丈夫です。私が言って聞かせて連れてきますから。トモ、私今回祭りの役員になっているのよ。だからお願い。参加して。これ、日時と準備するものの書類ね」
「もうその話は終わってる。来週の、八時からか」
「え。参加してくれるの。なんで」
誘っておいてなぜ問い詰める。
不服に思うのをため息で流す。僕の立場とこれまでの行いからすれば、有子の反応が当然なのだ。ニートが急に働くと言い出したら誰だって驚く。とはいっても素直に話したくはない。
僕は有子から受け取った書類を下ろして素っ気なく答えた。書類は読み終えていた。
「いいだろ。別に」
「いいけども……」
しつこく追求はしてこなかったが、有子は拗ねた顔をした。
「そういうことだから、他にわからないことがあったら有子ちゃんから直接聞いておけ」
「叔父さん」
静夫さんが用事は済んだとばかりにさっさと去ろうとしているのを、僕は呼び止める。静夫さんが、なんだ、と振り返った。
「今日も山に行くつもりなんですか」
「草刈りなら終わっている。今日はうちの田んぼの世話だ。有子ちゃんも。またな」
敷地の坂を下りていった。
いつも何かしらの仕事をしている忙しい人だ。静夫さんが一日何もしないのを想像できない。
僕は静夫さんが離れてから改めて有子に視線を向けた。
「で。有子の用も祭りの準備の話だけか」
「そうよ。他所に寄った帰りのついでにね。あと昼休憩も兼ねてます。祭りの準備の案内を今日中に渡しておきたかったの。今日は仕事終わるの遅くなりそうだから終わっていけなさそうだし。トモがいなかったらポストにでも入れて、あとで連絡を入れようかとも思っていたのよ。ところで、お昼を中で食べていいかしら?」
有子が手提げ袋をあげて見せた。中身は推測するまでもない。
申し入れを断る理由もないので、どうぞ、と承諾した。
有子はついでといっているが、他所への用事も休憩時間も、僕を説得するために利用したのだろう。つくづく世話を焼かせている。
祭り準備の書類は作成日が六月二日だった。一ヶ月と数日前だ。話を持ちかけるタイミングには気を遣ったのだ。一週間前になるまで言わなかったのは、こちらが断ってもいいようにするための配慮だ。いきなりで予定が合わないと突っぱねていいようにしている。静夫さんも、たぶんそうだ。
居間のテーブルについてさっそく弁当を広げ始めている有子に、水出しの緑茶を出してあげる。ついでに自分の分もコップに注いだ。
有子はジャケットを脱いでいた。シャツからインナーが透けている。ちょっとだけ目のやり場に困る。そんな僕の動揺を気にも留めず、彼女は昼食を頬張る。
「あ。まだどうふぉうかいのどぅちてなったったのね」
「食いながらしゃべんな。汚い」
口の中を緑茶で流し込んで僕にいった。
「早く出しなさいよ。出席に丸してるじゃないの。あと出すだけでしょ」
「わかってるよ。有子が仕事にいったらちゃんと出しておくから」
出席で出すつもりだったのは本当だ。
気持ちがついてこなかったから、招待状を投函できなかった。同窓会に行ったところで、いまさら誰と顔を合わせて話せばいいのか、わからない。
彼らがどんな大人になっているのか考えたくない。想像は僕を暗闇にどこまでも落としていく。彼らの当たり前は、僕の懸命でさえ届かない遙か彼方ではじまっているのだから。
隠し忘れていたのを有子に見つけられたから、もう出すしかない。
彼女の前でうまく嘘をつける自信がない。例え誤魔化し通せたとしても、バレたときの哀しい顔を見たくなかった。
「絶対だからね」
弁当を、有子は勢いをあげて食べた。ご飯をかき込んでいる。
もう少しお淑やかに食べられないものかと呆れる片隅で、僕はそんな彼女もいつまでも見つめていたいと思っている。今の平和を噛みしめた。
役場に再び働きに出る有子を見送って、夕方近くまでだらりと家の中が過ごした。ニートの僕は一日を無為に過ごす。静夫さんとも有子さんとも違い、僕に時間の貴重さはないのだ。
夕方。招待状をポストに投函した帰りで、ぼんやり散歩の寄り道で、生活必需品の予備を思い出した。僕はスーパーで買い物をすることにした。
地元の知り合いも使っているので、長居はあまりしたくない。後ろめたさでニートには居づらいところでもあった。
特売のたまごの一パックを買い物かごに入れて、野菜、肉の順番に見て回る。惣菜もいくつかかごに入れた。数日ぶんだ。お菓子も買っておきたくなったので、調味料の棚を横切ると、丹波亜美さんを見かけた。
彼女は僕が行こうとしていた通路を、洗剤の棚へ曲がったところだった。ここで買い物をしているのかと特に興味もなかった。僕は予定通り菓子の棚を見てみる。
と、棚を挟んだ反対側から、なんとも不愉快な会話を聞いてしまった。
「今の人、団地の丹波さんじゃない」
「またインスタントばかりだったわね。子どもさんいるんでしょ。作ってあげようと思わないのかしら。かわいそうよね」
「どこで働いているのかしら。母子家庭でも食べさせるくらいには稼げるはずでしょう」
「ねー。もしかしてあんまりいいところで働いていないとか」
「まだ若いしいろんなところで働けるのにね。離婚、していたはずよね。だったら相手でも探せばいいのよ。子どものためなんだから。子どもがかわいそう」
勝手すぎる言葉ばかりだった。
そんなに気に病むくらいなら、提案だけでも話してみればいいのだ。あーしたほうがいい、こーしたほうがいいと口ばかり。彼女たちにすれば、丹波さんの家計事情なんて話題の一つ程度なのだろう。
自分たちは関わらず、遠くから好き勝手に妄想の話をさも事実のように話す。しかも最初から相手を見くだす前提で、批難の目色でしか見ていない。会話だけでも、彼女たちの顔が醜悪に笑っているのが見えてきそうだ。
聞いていて不快しかない会話だった。僕は手短にお菓子をかごに入れてから、会計へ急いだ。嫌な気持ちが収まらない。吐き気もしてきた。
昔の、まだ働き始めの記憶が頭に過る。いじめで辞めてきた会社の記憶だ。ありもしないはずのあいつらの声が聞こえた気がしたのだ。
スーパーから出たときには、僕は呼吸を深く繰り返していた。喉が乾いた。スーパーに買いに戻る気もなれず、家に帰ることだけを考えた。早く部屋に戻ってじっとしたかった。
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