三章 2/5 〈病院〉
病院というところは、あまり好きではない。居たくない。
どちらかというと嫌い。いや、怖い感情を抱いている。
なおさら、この病院で僕は大切な人を三人看取っている。死んだ人との記憶は思い出になって美しくなると何かで知ったけれど、僕にそれはむしろシャツのシミのようで、胸の内が痛くなるばかりだ。
待合フロアの窓からは灰色の空が見える。天気予報では、夕方近くの時間帯でゲリラ豪雨も起きやすくなっていると出ていたはずだ。どうにも当たりそうだ。少し早いが、もうじきに雨が降るのは子どもでも予想がつく。八女市内の大きな病院への救急搬送中で、空は色を変えていた。
女性は日射病の可能性が高いと、医師から簡単な説明は受けている。詳しい検査が終わるまでは病院にいて欲しいと言われたので、僕たちは受付前の待合フロアで時間を過ごすことになったのだ。
窓際のソファーに座ってぼんやり外の様子を窺う。
雷雲が一際うなる。
ぼつんと、水滴がひとつ窓の外側でぶつかって弾けたと思えば、あっという間に外は水に汚れた。遠くの景色が霞んで見えなくなる。雨水が排水溝の処理を上回って、道路が川になっていた。降り出して数分の変わり様だった。
ざー、という幾重にも重なる水音が病院内のどこまでも浸食していく。
僕の両親が死んだのも、こんなに雨が激しく降る日だった。病院という場所と、天気のせいもあってか、僕の気分は鬱に沈むばかりだ。もともと物事をネガティブに考える方だったけども、こんなところではちょっとした気分に切り替えも簡単ではなくなる。
それでも、感情の沈みをどうにかしたくて、深呼吸をしてみる。ほんの少し身体が軽くなったように感じる。
と、僕はいまさらに病院の静けさが気になった。
室内に振り返ると、なんだか待合フロアだけでなく、病院内からの人の気配が少ないようだった。
実際は通院する人も、医師も看護師の数も大して平常時と変わっていないのかもしれない。受付には変わらず二人の女性が奥の部屋とを行き来している。廊下にも医師や看護師の姿が見えていた。でも、僕の感覚は、この病院がまるで息を潜めているかのような雰囲気を捉えていた。
外からの豪雨の雑音が、病院の人間の音と気配をかき消しているのもあり得る。だが、要因がそれだけにしては、静けさに纏わり付いた違和感の説明がつかなかった。
待合フロアで、会計を済ませた患者が退院する。暫しして、会計の二人も奥の部屋へ引っ込んだ。僕以外誰もいなくなる。
雨音を強く感じた。
ひとりでいるからか、五感の何もかもがいつもより鋭敏になる。待合フロアから一時ひとが見えなくなっただけで堪らない不安を感じた。
神経が研ぎ澄まされる。僕の耳や肌は人のいなさに異論を投じてない。背筋を冷たい予感めいたものが走った気がした。僕の不安から恐怖が顔を覗かせた。
耳を澄ますと、普段は無意識下で聞き流す音すらも拾うようになる。雨の降る音と道路を流れる水の音のひとつひとつを、僕の耳は拾っている。その雨と水流の音に潜んで、ひそひそとした話し声に似た音を聞き取った。
しかし、人の話し声にしては妙に掠れていて、乾いている。紙をこすり合わせる音のようだった。
人の声じゃない。
僕は気になって、顔を音の方へ向けた。
外の分厚い雨雲のため薄暗い待合フロアで、廊下のほうからその音は聞こえていた。しかも近づいてきている。音は大きくなる。それにつれて、かちかちと硬質な音も混じる。
鼓膜の奥から不快感を覚えて、耳の穴をかきむしりたくなる。
待合フロアからでは見えない廊下の向こう側。
角の先の壁で、何かの影がゆらりと這い上がってきて。
つなぎを着た男性が、女性の看護師と一緒に現れた。僕に気づいて、こちらへまっすぐ歩いてくる。
もう異音は消えていた。耳は正常に雨音を拾っている。
病院内の人気も戻っていて、さっきまでの嫌な静寂が嘘のようにない。受付の人もいつの間にか定位置にいた。
「櫟さん。女性の方、診察を終えたそうですよ。もう歩けるまで回復しているそうです」
つなぎの彼とは自己紹介を簡単に済ませてある。梶雄馬というらしい。病院に着いた際、看護師に付き添いの名前を確認されたからでもあった。ふと時間を確認すれば、午後四時を過ぎていた。
二時間近く、僕は窓辺のソファーに座ったままぼうっとしていたようだ。
「どうしました?」
「いえ。何も」
つい先ほどまで異様な静寂と、音の接近に警戒していたのを、おくびにも出さないことに努めた。気のせいかもしれないのだ。
僕は立ち上がって、梶さんに聞いた。
「女性の人はもう気づいたんですか」
「ええ。そうみたいですよ」
「患者は診察中に目を覚ました。重症ではありませんので、今日中に退院はできます。診察が終わるまでお二人には待っていて欲しいとのことでした。もし今帰らなければならない御用がありましたら、こちらで伝えておきます」
梶さんに着いてきていた看護師が教えてくれた。
最初に医師が残って欲しいといったのは、何かの異常が見つかった場合の現場説明のためだろう。女性の場合は、たぶんお礼といったところだ。
僕としては何か物を催促するつもりもなく、感謝の言葉はなくてもいいと思っていた。このまま女性に顔を合わせずとも帰ってよかった。
「私は残ろうと思いますよ。せっかくですので。帰るならばタクシーになりましょうし、女性の方が拒まなければ相乗りで帰った方がお得と思いまして」
「じゃあ、僕も残ります」
帰りの足には便乗したかったし、梶さんだけ残すのは気が引けた。
でも、梶さんの言い出しがなければ、何もせずただ帰っただろう。お金の疎さからではなく、人との接触の苦手意識からだ。
女性の看護師は僕たち二人が残るのを女性に伝えにいった。暫し、といっても二十数分くらいの時間を待合フロアで梶さんと過ごした。
助けた女性が待合フロアに来た。まだ日射病の疲弊が残っているのか、表情はどこか弱々しく全体の印象が幸薄そうだった。彼女は開口一番で頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました。突然のことだったので何も覚えていませんが、処置も丁寧だったと聞いています。ありがとうございました」
「いえいえ。応急処置をしてくれたのはこちらの青年です。私たちはただ通りがかっただけですから、そのように頭を下げられるような大それたことはしてませんよ。もう退院されていいと聞きましたが、大丈夫なんですか」
「はい。医師にはしばらく安静を言われました。また異常があれば来て欲しいとも。あの、また改めてお礼をしたいと思います。お二人の連絡先を、できれば住所と名前を教えていただきませんか」
大仰すぎる態度の女性を宥める。梶さんのこういう対応に感銘する。僕はしどろもどろで何も言えていない。自分の未熟さを痛感していた。梶さんの傍に立つことしかできなかった。
「その必要はありませんよ。あなたのお気持ちだけで十分です」
「ですが」
「では、お礼の代わりですが。帰りは榊木町になりますか。よろしければタクシーを相乗りしませんか。帰りの代金が安くなりますから」
「でしたら、私がお二人の料金も払います」
「いえいえ。相乗りの件だけで十分ですよ」
「そういうわけにもいきません。時間を取らせてしまったこともありますから、お礼の必要がないというのなら、タクシー料金くらい払わせてください」
「うーん。わかりました。それでいいかな? 櫟さん」
「あ。は、はい。お願いします」
引き際を見極めたのだろう。タクシー代は女性に任せることになった。僕は始終彼らの話を聞いているだけだった。最後の同意なんて添えただけの意味しか無い。
女性の会計の際に、病院側でタクシーに連絡してもらう。程なくしてタクシーが玄関口前に停車する。女性を助手席、僕と梶さんは後部座席に座った。
目的地は榊木町の団地前だ。僕と梶さんとも住んでいる地区が近くなので、どちらともそこで降りてしまったほうがいいだろうという結論だ。発進したタクシーの中で降車場所を話し合うとき、呼ぶのに不便なので女性の名前を教えてもらった。丹波亜美というらしい。
もちろん、簡単な自己紹介も場所の話し合いも、ぜんぶ梶さんと丹波さんで話してばかりだった。僕はもう諦めてなるべく黙って成り行きに任せることにしていた。時々振られる話に同意するかどうかでも、言葉に詰まってしまう程度なのだから、楽しく話す身分はない。
榊木町に着くころには、夜の帳が空に見える頃合いだろう。
†
榊木町の境には高さ十メートルほどの大岩が道を横たわっていて、トンネルが通っている。
二十メートルくらいの短いものだ。ようこそ榊木町へ、と看板も掲げてあった。暗くなると明かりが点り、闇夜でも町との境界を知らせていた。道ばたの両側の石灯籠もぼんやりと照らされていて、この町の出入りを見守っているようにもみえた。
このトンネルの夜は今でも少し苦手だ。トンネルの向こうは本当に僕の知る榊木町なのか、と時々おかしなことを考えてしまうのだ。
タクシーがトンネルに入る。僕は窓からその瞬間を見送った。
榊木町の中心街から北部。
丹波さんが住む団地。夜の帳はもうそこまで下りていた。
築四十年は過ぎている建築物が横に四棟並んでいる。淋しく見えるのは夜のせいだけではない。月日の風化を薄暗さでも隠せていないのだ。
僕が小学生の頃は一学年上の人もまだ住んでいた。友達もいた。今では、三分の一は空室だとどこかで聞いた。入居者もほとんどが高齢で、夜中まで活気が続かない。テレビの音と明かりがぽつりぽつりと団地の窓から漏れているが、生気は乏しかった。本当に人が住んでいるのかさえ、もしかしたら。
うるさいのは虫や蛙ばかり。夜の生命が活発化していた。こいつらはいつでもどこかにいる。
「ここです。ありがとうございました。今日は本当に助かりました」
団地前の歩道で丹波さんがタクシーから降りるのに、僕たちも続いた。
タクシーを見送って、丹波さんが団地の入り口で深々と頭を下げた。何度もされると恐縮を通り越して、申し訳ないと思えてくる。
「はい。体調には重々気をつけてください」
梶さんが念を押した。はい、と頷いたけど、たぶん丹波さんは体調が戻らなくても、明日も仕事に行くだろう。車内での梶さんとの会話で、仕事を休むことに抵抗があるようだった。母子家庭らしい。
挨拶も短く済ませて、帰ろうという流れになっていた。そのとき。
「おかあさん!」
女の子の声を聞いた。
暗闇から少女が、歩道の街灯で照らし出される。団地からこちらに走ってきていた。
僕は目を見張る。あの女の子だ。先日の早朝、お気に入りの寂れた神社で赤い着物を羽織って踊っていた女の子。僕の心臓が鼓動を強く打った。
少女も僕に気づく。驚いたみたいだったけど、丹波さんのところへ急いだ。僕、というか僕たちふたりに視線こそ向けないものの、警戒心はむき出しだった。
丹波さんが女の子に事情を説明している。優しい声音。母親の顔をしている。
「すみません。今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ。そう何度もいいですよ。私たちは失礼しますので、早く一緒に帰ってあげてください。お嬢さんもお腹すいているでしょう」
「………はい」
「百合。ちゃんと話したでしょ。この人たちは今日お母さんを助けてくれたの」
百合という少女は僕たちを睨んでいた。母親に注意されても警戒心を隠そうともしない。
しかし、梶さんはまったく気を悪くしていなかった。
「はは。お母さんが大好きな証拠です。安心してください。すぐに退散しますよ。さあ、櫟君も行きますよ」
「はい」
梶さんに連れられる形で、僕たちは団地を後にする。
しゃん、と背筋をぞうっとさせる音を聞いた気がした。あの神楽鈴に似た音だ。振り向けば、丹波さんと女の子の背中が街灯で見えているだけだ。
街灯の光がやけに冷たく感じるのは、人の気配が少ないせいだ。淋しい夜景だ。街灯と家の明かり、道路の信号以外、何も見えない。夜も浅い時間だが、出歩く人の姿がなかった。車の走る音が時々聞こえて、それだけでしか人の活動を知覚できない。
夏の虫やカエルなどの生き物たちで、夜の世界は支配されている。人間の作りだした世界が滑稽なくらい無機質だった。
神楽鈴の音も、五月蠅い夜がかき消したためか、僕に残る感覚すらもあやふやになる。
僕たちはバイパスの道路に出た。ここから梶さんとは別方向になる。
「お姫様の謁見はまた今度できますよ」
「え? あ、違いますよ。ただ、母子家庭と聞いたので、ちょっと心配というかそういうので」
振り返ってまで親子を見た行動を、何か勘違いされたようだ。
強い否定は他の誤解を生みかねず、どう対応していいか混乱する。咄嗟の言葉は、口から出任せに近いが嘘ではなかった。
何かツボったのか、梶さんは今日一番笑う。どうしてかはじめて人間らしかった。
「いえいえ。ええ、わかっています。そういうつもりはなかったのですよ。ふふ。では、失礼します。またどこかでお目にかかったら話に付き合ってください」
「はい。ぜひ。失礼します」
僕は梶さんと反対の方向へ歩道を歩いた。
ここから家まで歩いて十五分くらい。僕はのんびり帰る。人はいなくとも、虫やカエルと生き物が多くて、静寂とは無縁だ。もしくは、人が静かだからこそなのかもしれない。
少しだけ寄り道でもしようか。夜景の散歩を考えてみたくなった。
たぶん、誰かを助けられた事実が僕の気持ちを大きくしたんだ。その日、家に着いたのは夜が深くなってからだった。
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