三章 1/5 〈つなぎの男〉

 真夏はまだ長い。

 僕は散歩に出ていた。汗で背中にシャツが張り付いている。

 帽子に白のTシャツとジーンズの軽装。片手に握りしめた水のペットボトルが生命線だ。

 今日は特にきつい。ニュースで気温は三十度を超えて八月相当の真夏日になるとか言っていた。遠くの空には見事な入道雲が見える。

 真夏の日差しの下を散歩する僕だが、実のところ暑いのも寒いのも好きではなかった。どうせなら空調の整った室内でのんびり過ごしたい。季節でいうと、僕は春や秋の方が比較的過ごしやすくて好きだ。

 しかし、散歩はまた別だった。人と接しなければならない買い物などに出かけるのは億劫に思う僕だけど、汗の止まらない日でさえ散歩するのは好きなのだ。

 わざわざ汗だくで散歩するのは、目的が行為そのものだから、僕には特別でもなかった。たぶん、外を歩く後悔や不快よりも、どこか先で何かを見つけたい思いのほうが強いだけなのだ。

 道中、時々木陰や道の隅で足を休めては水分補給をこまめに取る。

 今日は朝から草刈りの嫌な音を聞かされずにすんで、気分も少し明るい。

 夏の雑草の伸びも早くて定期的にしていなければ、あっという間に土地は草に占領されてしまう。だから叔父の静夫さんは僕の土地の草刈りもしているのだが、煩わしい感情が先に立つ。

 畑周りや田んぼのあぜ道だけとはいえ、結構な広さを夏の太陽に晒されながらするのは重労働に等しい。それを、もう七十手前にもなる叔父さんはひとりでやっている。自分の土地も当然しているだろう。自分の土地の手入れだけで手一杯のはずだ。さっさとやめてしまえばいいのに。

 僕の土地なのだから放っておけばいい。叔父さんは一度たりとも聞き入れてくれない。

 この感情を持て余す。汗と一緒に流れて蒸発してくれれば、僕は夏の暑さも少しだけ好きになれる。

 夏の平日は、人の出歩きが特に少ないところが利点の一つだ。未だニートの身は、人の目があるかないかでも気分の浮き沈みが違う。気分を害そうとも散歩を辞めるつもりはないのだけれど。

 どうせするのなら、気分よくありたい。

 散歩をしたいから外に出ているだけで、人に出会うのも副作用のようなものだ。そうでなければ自室から出たくない。僕は引き籠もりだ。人嫌いでもあるだろう。

 今日は特に人気が無い。

 皆さん涼しい室内に籠もってくれていて嬉しい限りだ。

 空になったペットボトルを捨てるためと、新しいのを手に入れるために体育センターに立ち寄った。体育センターの玄関口前には自販機がある。

 体育センターの駐車場は地元ではそれなりに広い方で、祭りやイベントなどにも使われる。駐車場には屋台が並び、用意された舞台でコンサートも開かれる。少し奥にある相撲の土俵には子どもが腰掛けて、屋台で買ったかき氷や焼きトウモロコシを食べていた。神聖な場所も祭りのときくらいは憩いの場にもなっている。

 今は車が一二台駐められているだけの駐車場の傍には、観光名物の一つらしい展示物の蒸気機関車があった。昔は実際に木材や茶葉、人の運搬をしていた。線路が廃止されてから不要になった機関車を町が所有し、保管しているのだ。

 小さな観光名所だが、話題で盛り上がったところを見たことがない。僕が子どもの頃は面白がってよく見上げていた気がする。

 せっかくの懐かしさを手放すのも惜しくなって、あの頃のように前よりは高いところから見上げてみた。


「この機関車は、金山まで走る予定だったらしいですね」

「らしいですね。話に聞いたことはあります」


 これも昔の話だ。

 榊木町より最奥の、大分県との境の山に金脈があった。かなり良質なものだったらしい。まだ町に合併する前の矢部村も殷賑いんしんの波及を受けていたが、金脈が尽きて、今ではその面影も難しい。戦争や経済難などを乗り切っていれば、あるいは金脈が枯れなければ、あるいはもっと当時の人々が抗っていれば、今でもこの町を外界と繋ぐ線路がもしかしたら通っていたのかもしれない。

 ただのif。この町はもう少しは発展していただろうかと思えば、寂しくなる。

 人の往来が車に依存しているのも過疎化の要因になっているのは確かなはずだ。ところで、隣の人は誰だろうか。いきなり話しかけてきたものだから答えはしたけれど。

 つなぎを着た男性だ。首にタオルをかけている。ちょっと石っぽい臭いがした。土方関係の方だろう。五十代の男性は僕の視線に気づくと、帽子のつばをいじって微笑んだ。


「炭鉱周辺は集落となって、国際化も進んでいたと聞きます。うまくいっていれば、もっと豊かになっていたかもしれませんね。あそこはもう誰も掘り進めていないと聞きますが、本当に金脈は取り尽くされたのでしょうか」

「そう聞いています。調査もされているはずですし。たぶん本当にもう取り尽くしたのかと」

「私には、可能性を尽くしたとは思えないのですが。いえ。ここは重要なところではありませんね」


 物腰が柔らかく、礼儀正しい人だ。不思議と距離感にも嫌みが無い。こんな短時間で親しみを覚えたのははじめてだ。勝手な想像だがつなぎ姿よりスーツのほうが似合いそうだ。

 だけど、なんだろう。

 その親しみ易さが少しだけ怖くもあった。それはまるで、荒い画像の人相をこちらが勝手に想像で埋めている感覚に似ている。これまでの経験則から乱れた輪郭を予測変換するというものだ。知らずに都合のいい妄想を見つめているのと変わらない。

 人付き合いのうまい人が印象を誘導する技術のようなものだろうか。しかし、それにしては、


「もしかして、■■■■、■■■■■■■。■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■」

「え?」


 なんだ。今、この人の言葉が聞き取れなかった。隣にいるのに。

 ラジオからのノイズの酷い音声がさらに割れたスピーカーで再生されたようだった。複雑に音が重なっていて、一言の音階が多すぎて正しい音がわからない。音を言葉として認識できなかった。


「■■■■■■■■■■■■■■■■。これは聞き取れますね」


 すみません、と男性は謝った。

 その人当たりの良さそうな態度が僕に怖さを覚えさせる。僕の中でこの人の恐怖がたちまち薄らいでいくのがわかる。彼はなんらかの方法で僕の感情を侵している。ただ危害を加える気がないだけだ。


「気にしないでください。話に付き合ってくれてありがとう。……おや?」


 立ち去ろうとしていた男性が漏らした声音は、明らかな異変を指していた。僕もつられて見やる。目線の先でひとりの女性が大きくふらついたところだった。

 危ない!

 僕は反射的に走り出していた。女性の身体がアスファルトに倒れる。膝からほぼ前のめりに全身を打ち付けた。放っておけるわけがない。倒れた原因もわからないが、どのみちこんな暑いところでは命も危ない。


「大丈夫ですか!」


 地面にうつ伏せで動かない女性に駆け寄って、肩を叩く。返事がない。

 三十代くらいの女性だった。ジーンズと黒のTシャツの簡易な服装だ。化粧もほとんどしていない。彼女の傍らのバッグから作業服が見えていた。仕事帰りかもしれないのは推察できた。

 女性は全身に玉のような凄い汗をかいていた。呼吸は苦しそうだ。浅く短いのを繰り返している。この直射日光の下を歩いていたのだから、日射病かもしれない。

 ともかくまずは日差しから遠ざけなければならなかった。


「まずは日陰まで移動させましょう。頭を打ったかもしれませんが、日差しをさけましょう。救急車の連絡はそれからにしましょう」


 一緒に駆けてきた男性の指さした先に、日陰がある。町共有体育館の玄関口だ。内部には入れないが、玄関の陰だけでも女性を休めるには十分だ。近くには自販機もある。あそこで水を買えば水分補給も、体温調節も可能だ。


「二人で運びますよ。多少引き摺ってもこの場合は大丈夫でしょう」


 男性が倒れている女性を仰向けにする。彼女の上体を起こして、脇に腕を差し入れた。僕は慌てて足の方に回る。女性の足を身体と腕との間に挟んでずっしりと重さを両手に感じた。人の重さだ。


「いきますよ」


 動きを合わせて二人で女性の身体を持ち上げる。

 意識のない女性は力なくだらりとしているため どうしても背中を地面に擦ってしまう。それでも僕たちは運ぶのを優先させた。百メートルくらいの距離だったが、僕も男性も汗をかいた。

 僕がなんとか呼吸を整えている間に、男性は自動販売機で飲料水を買っている。


「救急車の手配をします。これで彼女を冷ましてあげてください」


 男性にタオルと飲料水を渡される。僕がどこかで見たのかもわからない知識をフル動員させて、見よう見まねの応急処置をする。その傍らで、男性が救急車を呼んでいた。

 救急車は十数分で到着する。隊員が素早く女性を運送する準備を整える。念のための同伴を求められた。僕は同意する。汚い懺悔からの行為だ。僕はまだあの頃の自分を許されたいと願っている。

 男性も当然と同意するのだが、そのとき僕は奇妙なことをこの人に訊かれた。


「町を出ても大丈夫ですか」

「はい。特に用事もありませんから」


 そうですか、と男性は笑った。不快を思わせる類いのものではなかった。

 でも、そんな訊かれ方をされたら、まるで僕がこの町から出られないようではないか。そんなことはあり得ない。

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