二章 2/2 〈陰の声〉
歪な自然の底に人は居住を構えている。
町の南部には一級水系の矢部川があり、その川に寄り添うようにして、傾斜のなだらかな土地で密集していた。
田舎町とはいっても田んぼや畑ばかりではない。中心部へ行くに連れて、文明の
まるで寿命を悟った老人だ。穏やかでただ朽ちることに委ねている。
坂道を商店街の方へ下りながら感傷に浸ってしまうのは、日差しのあまりの明るさに心の陰が浮かび上がったせいだろう。人も車も少なくて見通しがよすぎるからだ。
蝉だけが今年も変わらず騒いでいる。やつら夏であれば祭りがあろうともなかろうともお構いなしだ。鳥の羽ばたきや鳴き声もある。現代、この町で一番繁昌しているのが作り主の人間たちではなく、無関係の生き物たちなのはどういった皮肉なのか。
目的の喫茶店までの道順は有子に任せている。僕は、数歩先行している有子の、風に浮く後ろ髪を追っていた。
ふたりの無言と足音が続く。地元だから、どう行こうか歩こうかなどの会話は今さらない。
楽しめる話題でも振れればいいのだけれど、そんな器用なスキルは無い。もちろん、有子なら僕のどんな話にも喜んで相づちを打ってくれるはずだ。過去の思い出を語ってもいいのだ。
だけど、僕は二の足を踏んでしまう。彼女を振り返らせたくなかった。
無言でも気を悪くしないでくれている彼女に甘えるしかない。
日陰の多い細道に入る。暑さを避ける為でもあり、商店街まではこちらのほうが近道にもなる。家などの建物の間に道を通しただけのようなところだ。道幅も狭い。緩やかな流れの用水路が脇を流れている。砂のたまった用水路の水は澄んでいて、水草も生えている。よく探せば、魚の姿を確認できたかもしれない。
それにしても。
僕の嗅覚は、この狭い路地の有り様を捉えていた。
住居が狭く密集したところは、人の生活の空気が淀んで感じられてるはずなのだが、それらの気配そのものが薄らいでいた。過疎化が進む田舎だからだろう。
そもそも家主がいないところもあった。玄関に表札がない。あまりに静かすぎて、用水路や僕たちの歩く音のほうが大きく聞こえるくらいだ。蝉の声も負けていない。
子どものころは探検気分で楽しんだ通路だが、今のありさまは、その記憶すら気分を寂しくさせる。
例えば、いま僕が曲がった角の石垣の上では、天気のいい日は老人がラジオを流しながら草むしりをしていたものだ。地味な作業なのに老人は土に触れるのを楽しんでいた。数年も経てば、老人の姿が見られないのも当然ではあった。ただ、記憶の陽炎だけが現代に迷って消えていく。
特別入り組んでもない細道から、ほどなくして国道に出る。眩しくて目を細めた。
歩道整備された広めの道路には、町の観光名物の、藤の花が描かれた街灯が均等に並んでいた。この町での商店街とも呼べる場所なのだが、人の姿がほとんどない。遠くに帽子をかぶった老婆らしき人影が一つ見えるくらいで、車も時折一台走り抜けていくだけだった。店の七割がシャッターを下ろしている。最近は観光業に力を入れているらしく、昔風情に改装された店をぽつりぽつりと見かけるのだが、祭りなどの行事の時以外店を開けているほうが珍しい。どこもかしこも、今日も例外なく閉まっていた。
営業中の店も中に人がいるかも怪しい静けさだ。集団で熱中症になっているのかという冗談が通じそうだ。寝静まったかのような静けさが昼間から漂う。
平日に仕事で町を出ている人間が多いのだから、この町で商売をやれる店も年々少なくなっているのも当然と言えた。十数年で衰退はさらに加速したように思われる。
どちらかというと活気があるのは、人間たちに関係のない虫や鳥たちだった。
「静かだねー」
「だな」
ようやく出てきた会話も簡素なものだ。
町の衰退を憂いて寂しく思いはしているものの、今さらだ。生まれ故郷をどうにしか盛り上げようという情熱もない。
これから行く喫茶店も、どのくらい持つかはわからない。今は話題性でなんとかなっているが、半年後には閉めてしまっているかもしれない。今までざらにあったのだから。
中の物は衰退し嘆きはするが、外からの物は定着がし辛くて周囲はほとんど無関心なのが、この田舎町の現状なのだ。栄える原理を忘れて、ただ朽ちる果てを見据えながら、過去を酔いしれの酒にしている。
僕には痛いほど理解できてしまう。抗うのも諦める。過去や思い出は何度飲んでも不味くても、決して手放せずに止められないのだから。
夏の日差しに晒されながら行く。商店街の交差点にさしかかった。
銀行と、道を挟んだ向かい側のテナントらしき建物がある。一階が婦人服で、二階が文房具などの雑貨屋だ。女の子に受けのいいおしゃれなデザインの文房具を扱っているらしい。
車がほとんど止まっていない銀行の駐車場を横目に、愚痴をこぼす。
「なあ、このあたりなんだろ。まだ着かないのか」
「だから、あの交差点から入って右手側だって」
唯一人の目につきやすい国道から離れているのは本当らしい。それでやっていけるのか。こんな田舎町はおしゃれの基準すら希薄になりかけている。所詮言うほどのものでもない可能性もあり得た。
日差しの下を歩けば当然汗をかいて喉が渇きを覚えていた。そういえば朝起きての顔洗い時の一度しか水を飲んでいない。なんでもいいから、涼しいところで冷たい飲み物が飲みたかった。
「ここにね、おいしいカステラ屋さんがあるって知ってた?」
「知ってる。親父が親戚に送るときとか買いに来てたから」
喉の渇きのせいか、無愛想に返してしまう。
生まれ故郷で育ってきたんだ。微細なところはともかく大まかな事柄で知らないことはない。この手の話が好かないのはお前が知っているだろ。
彼女は目的の建物を指さした。
「ほら。ここよ。ね、雰囲気いいでしょ。古い家を改装したんだって」
なるほど。
たぶん僕の口からも感想は漏れていた。
一見して良さそうな雰囲気なのはわかる。
外観は古き良き昭和の民家のデザインだ。高度成長期のコンクリートの無骨さと、月日の風化で古びたところがいい味わいを出している。二階のベランダからは蔓の植物が青々と葉を広げていた。
表通りから離れていて、ちょっとした隠れ家のような空気を造りだしている。民家でないのは、表に出してある看板と、大きな窓からわかった。内装の照明を落としていて、少し暗いところがいかにも涼しそうだ。窓から見える店内の雰囲気も悪くない。
「あんまり期待してなかったでしょ」
「まあ、ごめん」
正直に謝るしかない。
有子は楽しそうに笑った。
「いいの。私も実際見るまで半信半疑だったもん」
有子を先頭に入ると、まず冷房の利いた空気が歓迎してくれた。
店内に入ってドアを閉めると夏の喧騒が遠ざかる。代わりに、この喫茶店の雰囲気が外からよりもぐっと強まった。
外からの期待にそぐう内装は、高度成長期当時のモダンさと、それ以前の明治時代を思わせる古さもあった。コンクリートの内壁とそれに飾られた昭和画風のポスター、洋風の木製家具が気持ちのいいコントラストになっている。椅子やテーブルは洋風だが、それに添えられている敷物はイグサの座布団が使われている。カウンター向こうには日本風の棚が置いてあり、硝子戸を加える改装がされていた。
時代の移り変わりの一瞬を捉えたかのような空間だ。
店主の趣味によるものだろう。この店の世界観を丁寧に表現していた。
時の色彩が綺麗な店内には、すでに数名客がいた。繁盛ほどもないが、まったく売れていないわけでもないようだった。さっそく店員らしき男性が婦人たちのテーブルにケーキを運んでいた。
百八十センチはある長身の老人だ。黒いYシャツとモカカラーのサロンエプロンが似合いすぎている。ここが自分の故郷の一角なのを忘れてしまいそうだ。過疎化している町に似つかわしくなくて、目を疑いそうだった。オープンしたばかりとはいえ、もっとチープな造りを予想していた。良い意味で裏切られたのだが。
榊木町は確か、過疎化対策に移住などで古民家の提供などをやっていたはずだ。たぶんそんなところで、ここに店を構えたのだろう。
でも、こんなにも雰囲気の良い店内を作れるのならば、何もこの町にしなくてもよかったのではと余計な心配が出てくる。もしもこの町の歴史や景観から選んでくれたのならば、申し訳なかった。ポジティブには受け取れない。
「いらっしゃいませ」
古ぼけたラジカセからゆったりとしたクラシック音楽が流れる店内で、ケーキを届け終えた店員が笑顔で迎えた。スピーカーからの掠れた音質が耳に心地いい。
老人の彼ひとりしか店の人はいないようだ。彼が店長、いやこの場合、マスターか。
「二人様ですね。そちらの奥の席を使ってください」
良くも悪くも広くない店内の奥へ行く。
婦人の二人以外にも客が見えた。部屋の角、最も窓から遠い最奥のテーブルでは、ノートPCを睨みつけている男がひとり。対角線上の反対で、店の出入り口に近いところには読書をしている男がひとりいた。
店の規格からしても、四人もいれば十分賑わっているといえるのかもしれない。
店内奥の窓際。案内されたテーブルにつく。
テーブルと椅子は、どれも古いものが使われているようだ。遠目からはデザインなのかとも思っていた。でも、細かい傷や汚れはとても細工に見えない。もしこれが造られたものなら、よほど精密に造られてる。
よく見ればテーブルも椅子も、色合いや形が揃うように似たものを集めただけのものだった。テーブル単位で違いがある。
イグサの敷物は弾力がほどよくあった。硬い違和感はない。
「メニューはこちらから。お決まりになりましたら呼んでください」
有子とセットで渡されたメニューも拘りがわかる。ボードに挟まれていたのは和紙だ。ご丁寧に宣伝か提携も兼ねてか八女手漉き和紙とラベルが貼ってあった。いろいろやっているんだな我が地元。そうした取り組みの成果で、今のような小さな―――失礼、小規模とはいえお洒落な店舗を構えることができているのは凄いと思う。
しかし、やはりポジティブに捉えきれないのが僕という生き物なわけで。いよいよ半年持つかどうか。正直、店の景観が整いすぎて、この店の行く末が気になっていた。有子には悪いが、有子との会話中でも僕の頭の半分はそちらで占められていて、あるかもわからないこの店の衰退の未来を思い浮かべてもいた。
「いいところだね」
「そうだね。拘っているのはわかる」
「コーヒー以外のメニューもわりとあるのね」
「そうだな」
もっといろいろなカフェなどに足を運んでいれば、気の利いた言葉を返せたのかもしれない。引き籠もるようになる前から僕はあまり外を出歩く人間ではなかった。
だから、この店とあの店などの違いを明確にできない。せいぜいテレビで流し見た程度の薄い知識しかない。僕にはコーヒーの種類が多いことしかわからない。これで普通のカフェよりも少なめというのだから、僕には未知の世界だ。
「すみませーん」
互いにメニューを決めてから、マスターを呼ぶ。
有子の声は、本当によく通る。あくまで個人の感想だけど。
「ランチセットを二つお願いします」
「申し訳ございません。ただいまランチセットは売り切れでして。ケーキセットのほうはいかがでしょうか」
「え。おいしいって聞いてたのに」
「申し訳ございません」
有子の少し残念な声に、マスターは眉尻をさげる。
「また今度の楽しみにします。それでは、ケーキセットをお願いします」
「ありがとうございます。コーヒーの種類と、ケーキをそちらのセットメニューの欄から選んでください」
「ホットのオリジナルブレンドと、ケーキはイチゴのショートケーキでお願いします。トモは?」
冷房利いているからってホットとか正気かよ、とぼやきたい胸中は置いておく。
改めてメニューに視線を落とす。
コーヒーの種類なんてさっぱりだ。有子に聞けば、少しは教えてくれるだろう。有子は何かと出かけたり挑戦したりしていたので、いろいろ手広く知っているはずだ。しかし、この場で披露されてもマスターの時間を使ってしまうので、ここは自分のわかる範囲で好みを選ぶのみにする。
「同じケーキセットで、コーヒーはアイスの深入りを。それとチーズケーキをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ごりごりと音が聞こえて振り向けば、マスターが年季のあるコーヒーミルを回している姿に目を丸くする。え。ここ、コーヒー豆を挽くところからかよ。本格的だ。素人丸出しだけど感動してしまう。店内のクラシック音楽に混ざる硬いノイズは、不思議な心地だ。
しかし、となれば、どうしても時間がかかってしまう。
無意識に携帯電話のあるポケットに手がいく。現代病のひとつかもしれない。とはいえ、有子が暇そうでないと取り出すのは気が引けた。どんな形であれ、誘ってきた相手を軽んじるのはよくない。
有子は楽しいそうな顔でメニューを眺めている。彼女のことだから、次に来ることも考えているかもしれない。
こういうとき、あいつならどうするのだろう。もう一人の友人の楽しげな顔が頭に浮かぶ。
一瞬でも力を借りたくなった自分を殺してしまいたくなった。恥の度を過ぎている。バカもほどほどにしろ。
「ねえ。トモ、聞いてよ。この間さあー」
結局、有子が話し始めるのに任せてしまう。彼女はメニューから顔をあげていた。
彼女は僕のことなんてお見通しだろう。
人と付き合うのが僕よりうまい有子は、一度話し出すとこちらを退屈させない。仕事のことからはじまり、家族の軽い愚痴など、いろいろ退屈しない話題を提供してくれた。
自分の惨めさが嫌になる。僕は彼女ほど色鮮やかな人生を送れてすらいない。この数年、何かを成し遂げた記憶なんて、たまに作るシチューかカレーくらいなものだった。小学生かよ。
肝心のコーヒーを待ちながら、僕は彼女の厚意に甘えた。
「ごゆっくりどうぞ」
コーヒーとケーキがテーブルに並べられる。どこでも聞いた定例の言葉を残して、マスターが席を離れた。
有子はコーヒーの温度を探るようにしながら、一口目を飲んだ。
「あ。おいしい」
「そうなの」
彼女の反応が珍しくて、つられて僕もコーヒーを飲む。
インスタントがどうして安いのかを考えさせられる味だった。嫌みのない強い苦みは生まれて初めてだ。氷からの水っぽさもない。うまい、と僕は言葉を溢す。
「トモ。一口ずつ交換しましょう」
「いいよ」
互いにカップを交換する。美味しい物はたまにこうして共有していた。
間接キスを気にするような仲でもないが、僕からはしない。有子が言い出したときのみだ。
有子のオリジナルブレンドコーヒーは、酸味とコク、ほどよい苦みが利いていた。とても飲みやすく、コーヒー豆の味もしっかりしている。身体が温まりすぎないようにじっくり飲むのであれば、夏にホットなのも悪くない。
「これもおいしい」
「有子のもおいしいよ。やっぱりコーヒーって、味が違うんだな」
「それはそうよ。当然でしょ」
カップを戻す。
再び自分のコーヒーを飲んで、味を確かめた。オリジナルブレンドも文句なくおいしかったけど、僕の今の好みはやっぱりアイスの深入りだ。せっかくクソ暑い外を歩いてわざわざ来たんだ。身体を冷ます贅沢も味わいたい。また来るときも同じのを注文しよう。
「ねね、ケーキもおいしいよ」
「わかった。わかった。一口ずつな。ほら」
チーズケーキをフォークで切り分けて、お裾分けする。有子の皿からもショートケーキを貰った。
味の感想を言い合ってから、会話はまた他愛のない日常のものに流れていく。端からすれば恋人同士に見えるかもしれなくても実際は違うが、些細な幸せだった。
「でね、その人、中学校のころ同じクラスにもなったことがある子で、進学高校が違って以来の再会だったの。二人ともしばらく同じ顔で、顔を覗き込んでね。まったく同時に驚いて、もうそれからおかしくって」
中学の頃の同級生に、買い物先のスーパーで再会した話だ。
僕は有子の話に相づちを打っていた。
ふと、後ろの話し声が気になってしまった。耳の底を擽るような音だった。
耳が疲れない軽やかなクラシック音楽と、カウンターからのマスターの作業する雑音と、有子の話し声との隙間を縫って後ろの話し声を聞き取ったのは、たぶん恐怖心がそうさせたのだと思う。
「ねえ、お隣さんの、田中さんのこと知ってる」
「あれでしょ。死んだ奥さんとまだ暮らしているようなことになっているとか」
僕の後ろの席。二人の婦人の会話だ。
声は潜められていた。
しかし、僕の耳を澄ませる余計な要因になっていた。
「そうそう。奥さん亡くしてから死んだようになっていたのに、田中さん、二日後ぐらいから急に元気になったらしいの。私、気になって話しかけたら、奥さんの名前出して、あいつがどうとか、どうしたとか、まるでついさっきまで奥さんと一緒にいたような口ぶりだったのよ。私、怖くなって。まだ用事がありますって、さっさと逃げたわ」
「田中さんのところ、子どもも自立して、独り暮らしよね。お葬式にも顔を出さなかったとか」
「そうなのよ。可哀想だわ。でも、誰もいないはずなのに、田中さんの奥さんの声を聞いた人もいるのよ。窓から二人の人影も見えたって話もあるし。近所がこんなに怖いことになるなんて。田中さん、どうしちゃったのかしら。呆けるにもまだ早いお歳のはずで、性格だってしっかりした人なのに」
「ねえ。もしかしたら、声だけでもよく似た誰かがお金目当てに近づいているのかもしれないわ。あの人、結構お金持っているって話でしょ。奥さんがなくなって四十九日も経たず別の相手をというのは、ちょっとどうかと思う話だけど。そのほうがよっぽど自然よね」
「そんな話は聞いてないわ。誰かいるようだけど、誰も相手をはっきりと見たことがないのよ。田中さんも、外を歩くときはいつもひとりだわ」
「田中さんの友人で誰か知り合いいないかしら。聞いてみたら?」
「私たちより一回り上の人なのよ。知り合いと言っても、変に勘ぐったのを聞いて回るのも大変よ。変人扱いされるのはこっちになっちゃう」
「うーん。難しいわね。本人に聞いてみるしかないのかしら」
「これ。主人がいっていたことなんだけど。詐欺でもなんでも、人のほうがいいかもって」
「それって……」
沈黙の間が挟まる。
絞り出すような婦人の声がした。
「だって。怖いじゃない。本当に死んだはずの人だったら」
ひやりと、空気が冷えるのを感じが気がする。
―――寂れて枯れていくだけの田舎町の、不可思議な現象。そんな話だ。後ろのふたりの勘違いかもしれないが、もしかしたらも、想像させる。
二人の会話が途切れた。
婦人たちの表情は振り向かなくても見て取れそうだった。重い空気が背中側で淀んでいる。やがて、田中さんとは近所だという婦人が、ぽつりと漏らした。
「ねえ、なんか、おかしいこと多くないかしら? 最近というか、もしかしたら……。だって田中さんのところだけじゃないでしょ。そういうの、その、いるはずのない人が、いるって」
「やめて」
「不審者とかもそうだけど、行方不明者だって時々出てるでしょ。こんな町ただでさえ噂が広まりやすいのに。何の前触れもなくいなくなった人だっていたじゃない」
まるで、堰が切れたかのように、徐々に婦人が吐露する言葉にも感情が乗っていた。
「ほら、加藤さんとこの旦那さんが出張から帰ったとき、あそこの奥さん、そのとき旦那さんが数日家にいなかったのを知らなかったみたいなのよ。お子さんも知らなかったって。つい先日まで旦那さんの分の食事も作っていて、洗濯物だって干していたらしいのよ」
「やめなさいって言ってるでしょ。加藤さんなら、先日不倫がどうとかで二人で言い合っているのを見かけたわ。たぶんそのことなのよ。所詮は、その程度のなのよ。お子さんだってまだ二歳くらいでしょ」
席を立つ音がした。
「帰りましょう。洗濯物取り込まないといけないし、夕飯の買い出しにもいかないと」
「そうね。でも、ねえ、やっぱりおかしいと思うの。最近気づいたとか、そういうのじゃなくて、もしかしたら、ずっと―――」
「やめて。次、その話したら怒るわよ」
なおも食い下がろうとした婦人を、もうひとりが諫めた。声だけでも不機嫌だとわかる。よほど不快だったのか、それとも。
「ごめんなさい」
「いいわよ。でも、その話は二度としないで。ほら、帰りましょう」
促されて、もうひとつ席を立つ音がする。
二人の婦人は、それからは淡々と会計を済ませて退店した。
「ねえ、トモ。トモ。さっきからどうしたの。ちゃんと話聞いてよ」
「あ、ああ。ごめん。なんだっけ」
有子の話が耳に入っていなかった。
怒られても文句は言えないし、ここで有子が不機嫌に去ったとしても、僕は彼女に謝る以外の選択肢は許されていない。
ところが、やはり有子は怒っていなかった。ただ、ほんの少し寂しそうな顔をしたのだ。
「私たちも、出ましょうか」
僕は同意する。
ほんの一欠片だけのチーズケーキを、氷が溶けきったコーヒーで流し込んだ。
さすがにコーヒーは水っぽくなっていて、酸っぱくなっていた。おいしくなかった。店を出てからもしばらくは消えてくれなかった。
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