二章 1/2〈日常の陰〉

 相変わらずの目覚めの悪さにうんざりする。

 十分以上に睡眠をしていながら、瞼は重く、肩が凝り固まっている。さらに外の、遠くから聞こえるエンジン音が、ただでさえ不調の僕の心を憂鬱に落とした。

 窓の外の夏らしいやかましさからは異音のそれが、いったいどこで何をしているものなのかを鮮明に想像できてしまうのだから癇にさわるのだ。時折何かが跳ねるような小高い金属音も聞こえて、予想は確信になる。草刈りだ。

 僕の部屋は家の北側に位置していて、窓の外は僕の土地の田んぼと山しかない。その方角から、蝉や鳥の音にも溶け込めない異種のエンジン音がずっと鳴っているのだ。しかも僕の土地からだ。

 持ち主の許可も取らずに誰がそんなお節介をしているのかも、この時点で証明にしかならない。あの人に限られている。

 叔父の櫟静夫が、僕の土地で勝手に草刈りをしているのだ。

 四月下旬でも同じことをされて、僕は一度叔父と衝突している。

 草刈りは単なる景観を整えるものではなく、イノシシや蛇など、害獣害虫対策だ。雑草とはいえ生い茂ると、生き物の温床になりやすい。また、動物などの体格の大きな生き物を、人間の生活領域まで近づける要因にもなった。

 僕が土地を放置しっぱなしだったので、荒れ放題の土地を近隣住民から迷惑に思われていたのは知っている。何度か叔父にも注意されていた。しかし、満足に働きすらしない僕は、わざわざ外に出て面倒以外ない草刈りを一向にしなかった。

 叔父が見かねてとうとう出張ったのが今年の四月下旬からだ。ああやって、草が伸びてくると定期的に草刈りをしている。ここで法的な問題を取り出すほど考え無しではないけれど、僕は叔父のそういうところが嫌なのだ。大きなお世話だ。子供じみた理由だとバカにされるかもしれないが、整理もつかない感情が沸き起こるのはどうしようもなかった。

 草刈りの手間が省けて助かっている事実も、時にまるで嫌みを言われたみたいに思い出すこともあって、腹立たしい要因になっていた。

 だからというのもおかしいが、僕は起き上がらずベッドで寝返りを打った。起きて早々に気力を削がれた。深いため息を漏らす。

 しかし、習慣とは皮肉で、二度寝する前提でも僕の手は緩慢ながらに枕元の携帯電話を探していた。うまく探し出せずうつ伏せに姿勢を直してから、携帯電話を手に取った。画面の時間をその明かりの眩しさに目を細めながら確認する。午前十時を過ぎたあたりだった。

 僕が職を辞めて故郷に帰ってきてから一年と数ヶ月が経つ。いろいろなことがあった。

 両親を去年の梅雨時期に交通事故で亡くした。母親を病院に送る道中での父親の運転する車が、中央線を越えてきた対向車と正面衝突したらしい。ちょうどカーブを走行中で、当たり所が悪かったのか、脇の大きい河にガードレールを突き破って落下したそうだ。そのまま両親は帰らぬ人になった。

 僕は叔父に連れられて、病院の霊安室でふたりと対面した。

 あの日。二人が事故死する前の病院へ向かう朝の記憶を、僕は何度も反芻しながら、ふたりの冷たい遺体に触れられずにいた。母親の、病院に行ってきますねが最後だった。

 僕はあの日も引きこもりだった。なんとか外に出るようになって欲しい母親は、僕に今日の朝食分と昼食のおかずを伝えて、それから少し世間話をしてくれた。

 未熟で怠惰、醜態を晒すこと以外の得意を持ち合わせない成人が、まだ子どもでいたいと駄々をこねるように布団での寝返りを返事にした。僕は戸を隔てて、母親が肩を落として出かけるのをわかっていながら、見送りもしなかったのだ。

 僕は、どうしようもない人間なのだ。

 たぶん、あの日を境に叔父が僕に世話を焼くようになった。両親から何か話を聞かされていたのか、ただの親切心かはわかりたくもない。ただの子どもだ。

 自覚しているさ。

 起きる気力が時間の経過に比例して削れていく。頭の中で渦巻く感情が、僕の思考を鈍らせて負の沼地へ導いていった。

 もう夏がはじまる季節とはいえ、朝は家の中まで暑くなるにはまだ早い時間だ。二度寝しても昼過ぎには暑さで目覚めるだろう。

 そうして睡眠まで呼吸を静かにしようとしたときだった。インターホンが鳴った。

 居留守を決め込もう。誰かが訪ねたくらいで起きるなんてできない。


「うるさい」


 インターホンが鳴り止まない。堪らずに毛布を頭からかぶる。新聞はもう取っていない。あとわざわざ家に来るのはセールスか、近所の人か、叔父か、それから。

 ――いや。ここまで引き下がらないのは、あいつしかいない。

 僕は半ば諦めてため息をついた。今日起きて数分しかなっていないのに二度目のため息だ。一向に憂鬱がなくなりそうにない。

 それでも来客を迎えようとしないのは、僕の意地、ではない。単に動きたくないからだ。外に出たくない。碌なことがない。身体に染みついた自閉の防衛が、今日も平常運転で過剰渦動していた。ただの怠惰を正当化しているだけと言われてしまえば、僕は沈黙で肯定するだろう。誰に何を言われたところで僕の中の価値観や苦しみも何もかも、変わるなんて思えないし、理解も到底無理のあることだと思っている。

 情けない。でも、動けずにいる。

 インターホンがまだ鳴り止まない。

 と、


「お邪魔しまーす」


 客人が玄関をがらりと開けたのが僕の部屋まで聞こえる。僕以外誰もいない静かな家だ。外が夏の虫でやかましくても、物音はよく届く。何より君の声を僕は聞き逃さない。神山有子が来たのだ。

 家主の断りもなしにずうずうしく侵入してくるのも想像するまでもなかった。敢えて忍び足すらしないところが君らしくて、気が落ちる。


「ほらやっぱりいた。出かけるわよ、トモ」

「……」


 ぱん、と気持ちいいくらい快音を、戸が立てた。開けられた向こうで、あいつはいつも通りの見慣れた笑顔で立っているだろう。部屋に踏み込む手前で足を止めているはずだ。

 わざわざ見なくとも有子の行動はわかる。僕は彼女から目を背けたいのを優先で、窓側を向いて身を丸めていた。有子からは背中しか見えていない。


「あれ? やっぱり寝てるの。ねえ、」

「起きてるよ」


 彼女が近づきそうなのを恐れて、僕は応えてしまう。

 しかし、ここであしらっても彼女はしばらくは居間で静かに居座る。それから簡単に掃除して、材料があるなら軽食も作って帰るだろう。

 こいつが来る度にそんなことをこいつにさせてしまうわけにはいかない。つまるところ、僕は結局相手の要望には応えるしかない。


「もう少し待って。起きるから」

「うん。居間で待ってるからなるべく早くお願いね。あ、扇風機使うわね。何か飲み物も貰っていい?」

「冷蔵庫に水出しのお茶があったはず」

「ありがと」


 彼女は僕が働いていなくて、親の遺産を崩して生活しているのを知っている。一日を寝て過ごそうとしていた僕を、詮索も追求もしない。優しさが胸に痛い。ぐっと身を縮めた。

 それから、僕は彼女の後ろ髪を追うべく起き上がる。簡単に身なりを整えてから居間に向かった。

 有子は居間の板張りにだらしなく仰向けに寝転がっていた。テレビまでつけて完全に寛いでいる。扇風機の風で淡い蒼のシャツが少しめくれて、おヘソが見えてしまうのもお構いなしだ。スカートくらいはせめて気にしろよ。

 テレビではニュースが流れている。七月初旬でもすでに真夏並みの暑さに達しているらしい。有子の夏らしい薄手の半袖でも外は暑く感じたのだろう。テーブルにはグラスに半分だけ残った氷水の緑茶もあった。


「出かけるわよー」


 その気があるのか疑わしくなるくらいの、力の抜けた声だった。

 彼女が目を向けているテレビでは、地元の祭りがクローズアップされていた。とはいっても、ここから更に山奥の矢部村だ。

 創建千三百年の経つ八女津姫神社で、五年に一度行われる祭りの浮立ふりゅう。ちょうど今年の十一月に行われると、ローカルニュースになっていた。

 ニュースの枠内でも特番のような扱いで、祭りまで三ヶ月以上もあるところから、気合いの入れようが今年は違うようだ。ちょうど千三百年の節目もあるらしい。

 僕は子どもの頃に、浮立を一度だけ間近で見た覚えがある。確か、怖いと泣いていたのだ。

 テレビでは、番組が浮立の伝来や矢部村の祭りの内容を映し出している。

 囃子方はやしかたたちが舞いながら後ろ向きで村中を社へ練り歩く。その後ろを、七福神の仮面をかぶってそれに模した人たちが続いていた。

 僕は幼い頃に矢部村の浮立の記憶がある。父親に連れられて見に行ったのだ。あまりいい思い出ではない。

 囃子方だったか七福神の仮面だったかどちらか定かではないが、僕はそれらを見て泣き喚いていたはずだ。

 神様を招くために後ろ向きで歩く囃子方が奇妙に思ったのかもしれない。囃子方のかぶる傘につけられた花のような飾りが目玉にでも見えたのか。七福神の仮面が本当に動いて見せたのか、

 こどもが熱にうなされた時に見る幻のようなものを、たぶん見てしまったと思うようになった。あれ以来、父親は僕を浮立に連れて行かなかった。僕もその一度のみでしか実際に体験したことがない。

 今ニュース番組を介しているが、あの頃のような怖い感情は抱いていない。ただの記憶の再生を遠くから眺めている感覚に似ている。暗がりを怯える原因を、見えない危なさからだと理解するようなものだ。

 ともあれ、物珍しいだけの田舎の祭り風景だ。僕にはそう見えている。

 テレビの画面では、やがて八女津姫神社に役者が揃う。映像は二十年前のものだ。いよいよ祭りの見せ場が映し出されていた。

 指揮者の真法師しんぽうしが合図の口上を述べ、大太鼓打ちと太鼓打ちがリズムを取ると、囃子方が唐団扇とううちわを両手で持って舞った。

 そうしたところで、床からまた有子が気怠げに言った。


「あ。まだ着替えてない。そんな格好は嫌よ。ちゃんとして」


 テレビに集中して出かけるのを忘れたかと思いきや、こちらが着替えるのを待っていたらしい。僕がテレビに気がそれていると思ったのか、有子はテレビの電源を落とした。

 真っ黒の画面に僕の間抜けな姿が映る。ブラウンのよれたTシャツにジャージの黒のズボンは室内着としてはベストだ。


「うるさいな。近くならこれでもいいだろ。そもそも何処に何をしにいくんだよ」

「銀行の近くにー、喫茶店ができたのー。おしゃれで話題になっていたから、一緒に行こうと思ってきたの」


 よいしょっと、彼女は起きた。軽く髪を整えてから笑顔を向ける。


「ほら。だから準備して」

「嫌だ、と言っていいのかな」

「じゃあ準備ができるまで待ってるね」


 笑顔のままで動かないつもりらしい。引く気がないようだ。勘弁してくれ。

 彼女に強く抵抗できないのは、僕の甘えでもある。自覚している。


「わかった。着替えてくるよ」

「ねえ、トモ。同窓会、どうするの」


 有子が指でつついているのは、テーブルの上のはがきだ。

 いつか届いた同窓会の招待状。返答を出さずに置いたままだった。欠席を提出するのすらも嫌で、捨ててしまおうかと考えてもいた。〆切りの期日は今月末だった。

 こいつに見つかったのは不覚だった。


「参加した方がいいと思うよ」

「考えているところだから」


 有子はどうなんだ、とは聞けない。君の答えなんてわかりきっている。どうせ結果は変わらない。

 着替えるために自室へ向かう。

 神山有子は隣の地区住まいで、僕の家から歩いても二十分くらいのところに家がある。小学校は同じだがその頃に顔を合わせた覚えはない。同じクラスにもなっていない。もしかしたらすれ違うくらいはしていただろう。

 ただ記憶に残る機会がどちらにも恵まれなかった。それだけだ。

 中学校で初めて知り合う。もうひとりの友人がきっかけだった。

 その友人は、高杉暁登たかすぎあきとだ。とても仲良くなった友人だ。もしかしたら親友と呼べるほどになっていたかもしれない。彼は病死して、もう会えない。会えないんだ。

 休み時間などで暁登と話すようになって、当時テレビ番組の話題で二人の会話に有子が途中から入ってきたのがはじまりだった。それから少しずつ有子とも話すようになったのだ。

 あれから数年。暁登が亡くなってからも関係が続いている。

 彼女は、僕が会社を辞めて故郷に帰ってきたのを知っていた様子だった。両親の計らいだ。その原因も境遇も聞かされているようだ。

 しかし、いくら近所でも、両親の頼みだからといって異性の家に行くのは、友人関係でも特別に該当すると僕は自惚れなく認識している。仲間意識とでも言うべきだろうか。


「わかってるさ」


 独り言が、ひんやりとした空間にこぼれる。

 出かける前に、仏壇で手を合わせた。三つのキーホルダー。僕に贖罪は許されていない。

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