一章 3/3 〈こびりついた残響〉

 まだ目覚めきっていない意識で、僕は音を頼りに枕元の携帯電話を取る。

 寝ぼけながらも画面操作して通話を繋いだ。知っている友人だった。


「はい」


 力がなく枯れた声で返事をする。気にするような相手ではない。

 しかし、聞こえたのはその友人の母親で、声が震えていた。

 僕はベッドから跳ね起きる。通話相手は泣いていた。音声からの想像だ。もしかしたら、涙は涸れてしまっているのかもしれない。


「すぐにそっちに行きます!」


 目はもうすでに覚めている。今日は一日中寝ているつもりだった眠気が消し飛んでいた。突然頭を殴られたかのような気分だった。


 ―――が、首を吊ったの。自殺したの。


 音声のみからの情報が頭の中で反芻する。驚きと、否定したい感情とも入り交じって、うまく整理できないでいるのが自分でもわかる。

 着替えなんて二の次だ。ああ、クソ。こんなときに、なんで律儀に財布を探していたのか。

 車の鍵を持ってから部屋を飛び出して、ようやく自分の間抜けに気づいた。ほんの十数秒の浪費を悔やむくらいなら、財布くらい、今日は捨て置くべきだった。運転免許証が入っているのだ。

 廊下を行こうとして、視線の先がベッドの上に吸い寄せられる。

 何か光っているのが見えたのだ。携帯電話だ。

 通話中で残されていた。

 起き上がったとき、そのままにしていたようだ。まだ通話中ということは、向こうで話しているのかもしれない。

 だけど、今は僅か数歩でも戻るのが惜しかった。

 土間で靴の踵を踏みながら、外へ。

 さっきから足が追いつかない。どうすれば早く走れただろうか。足がもつれそうだ。

 車庫には、使い込まれた農機具と一緒に、軽自動車がある。乱暴に乗り込んだ。発進を急ぎたいところなのだが、鍵が刺さらない。

 手が震えている。なかなか定まらない。ともすれば鍵を落としてしまいそうだった。

 ガチガチガチガチガチ。

 噛み合わない音が、自分が奥歯を鳴らせているようで気が狂いそうだ。


「クソ、クソ! クソッ!」


 何度目かのやり直しで、鍵はようやく定位置に収まってくれた。 

 エンジン音が鳴る。

 バックさせる。

 座席を蹴られたような衝撃が背中から走った。

 後ろの石垣にぶつけてしまっていた。


「ッ! ああ、クソが。なんなんだよ!」


 ハンドルを殴る。クラクションが抗議の音を上げた。

 やけに汗が出ている。まだ四月初旬、日中の気温から車内もそれなりに暑くなっているとはいえ、真夏には届かない。それなのに、やけに暑いようで、汗も大粒で首筋を流れた。

 心臓がうるさい。呼吸もうるさい。頭の血管が脈打っていてうっとうしい。

 何もかもが喧しい。

 フロントガラスを睨む。が、まったく集中できない。ぼんやり自分が投影されている。身体の輪郭だけで顔は見えない。しかし助かった。いま僕は、目も当てられない顔をしているはずだから。

 さっきからうるさすぎる。耳に残るノイズが正気を削る。

 あの通話での声が、まだ残響していた。もう音源はないのに。携帯電話は部屋のベッドの上のはずだ。

 音が耳にへばりついているようだった。

 うっとうしくて耳を拭うが、落ちてくれない。

 頭の後ろあたりにすうっと細く柔らかなものが入る感覚がした。ノイズが正気の一瞬の綻びに滑り込んできた。

 ああダメだ。ザー、と何が意識を通り過ぎる。

 脳髄に囁いた。


『有子が、首を吊ったの。自殺したの』


 叫びが出た。

 自分の声だと気づいて、すべての後悔が、僕を頭から飲み込んだ。


「―――――ッ!!」


 これから向かおうとしている場所は、自らの足で走っても十分以内に到着できた。車の発進に手間取るくらいなら自らの足で地面を蹴った方が、まだ器用に前へ進めていた。

 普段からの運動能力の無さから、考慮の結果で道具に頼ろうとしていたのではない。

 考えなしの愚行が、自分の身体を忘れる結論に至らせたのだ。

 この後悔は、もう来ることはない。

 どちらにせよ、現実は変わらず残酷なのだから。

 詰まるところ、神山宅へ行ったところで、彼女の姿はすでにそこになかったのだ。遺体とは救急搬送先の病院の霊安室で対面することになる。

 立ち尽くすことさえ、もはや遅かった。遅すぎたんだ。

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