一章 2/3 〈追憶〉
―――僕は、まだ五歳にも満たない頃、父親との間に絶対の距離を感じてしまった。
五月初旬、お茶摘みもいよいよ終わりが見えて、家の慌ただしさが収まりつつあった。夕刻が近づいて、幼い僕は母親と共に一足先に家に帰ってきていた。
動けば汗が浮く外と違って、居間の空気はひんやりとしていた。
床に行儀悪く仰向けになれば気持ちよさそうだった。まだ父親たちが戻ってくるまでの時間があるので、少しの間なら咎められることもない。
キッチンで、お手伝いの親戚や父親、祖父のためにお茶の準備をしている母親を尻目に、僕は外から熱を冷まそうとしていた。
だけど。
水と土の臭いが鼻を擽った気がして。
何かが落ちる音を聞いて、僕は止まる。乾いていて軽いもののようだった。
足の指に当たる感覚がする。親指くらいの緑の実があった。環形動物を押し固めたような不気味で歪な球体だ。形はどうあれ、球体に果梗らしきものがついていることから、何かの木の実で間違いないはずだ。
居間の床板にどうしてか木の実があるのか疑問で、音からの推測で視線は上を向く。
正面、壁の高いところに古い神棚があった。先祖代々受け継がれてきた古く大きな神棚に、青々と葉を広げる榊木が捧げてある。子どもながらに、あそこから落ちてきたのだと想像できる。
果たして榊木のものであるかどうか、僕に判断できるだけの知識はなかった。なので、この結論は、ただの想像に留まるしかない。
キッチンからは母親がお茶の準備をする音が聞こえる。外からは風の音、鳥の鳴き声。床の冷たさが足に浸透していく。
それらすべてが遠くなっていく感覚の中で、僕は再び、じいっと緑の実を見つめていた。水と土の臭いが強くなって、これが水で腐った木のような、苔のような臭いになる。
手が、ソレに伸ばされる。五感や意識とは別の何かの力で、緑の実を掴もうとしていた。
指先が近づくにつれて、僕の中である衝動が生まれる。
まるで、それこそが緑の実を拾おうとしていた理由であったかのように、その衝動が僕の意識も身体も浸食していく。 鼻孔は苔の臭いしか嗅ぎ取れていない。
食べたい。
「お前には必要ない」
父親が、僕の足下に転がった緑の実を、横から先に取った。
いつからそこにいたのか。父親は僕の前に立っていた。
僕は父親の手にあるソレを、目で追う。ソレを納めて、かみ砕き、嚥下するための僕の口はだらしなく開いたままだ。
意識が引き寄せられている。目が離せない。
父親に構わず、緑の実に手を伸ばそうとする。
そんな僕から遠ざけるように、緑の実をさらに高く、父親は自分の顔と同じくらいまで持ち上げた。僕の意識も現実へと引き上げられて、自然と、父親と目が合うことになる。
父親は冷たく言い放つ。
「これは捨てておく。忘れなさい」
僕は、大切な何かを奪われたかのようだった。
緑の実が僕のものかといえば、そうではない。ただ、目の前のソレを父親が手に取っただけの話だ。
食の衝動が収まっていく。父親に命じられたためか、もしくは単に一時的な興奮だったのかもしれない。
執着心も薄らいでいく。
でも、胸中に空白ができたようで哀しさが残された。
現実感を徐々に取り戻していく僕は、父親との何かしらの繋がりから切り捨てられたのだと悟る。
ようやく父親の表情に気づいたのだ。
そのときの父親の顔を僕は忘れない。
息子子どもや知人に向けられたものではなかった。冷徹で無表情、しかし目には嫌悪を宿して、静かな拒絶を訴えていた。
呆然とするだけの僕を置いて、父親は緑の実をどこかへ持って行く。僕はその背中が離れていくのを見ているだけだった。追いかけなかった。このとき、父親からも苔の臭いがしていた。
このたった一つのやりとりが、子どもの僕に肌でわかるほどの存在の相違を突きつけられたのだ。僕は父親とは違う。別の何かだ。
自立心とは違うものが僕を独りにした。
―――不意にゴツンと何かが額に当たる感触がする。小さな痛みで、僕は目覚めた。
視線を巡らせて、ここがどこなのか思い出す。
ローカル線のバス車内、最後尾席から右手側の二番目の席。いつの間にかうたた寝していたようだ。夢を見ていたのだ。ため息が出る。
まただ……。
もう何度も見た。
繰り返している。
僕はあのときの、彼らの一部だったはずの僕が切り捨てられた感覚を忘れていない。無慈悲に断たれた記憶は、今でも胸の奥に鈍い痛みを覚えさせる。
あの緑の実が何だったのか。
ふと思い出して気になっては父親に聞いてみたのだが、教えてはもらえなかった。あまり繰り返すと、父親は僕の日常の姿勢やら勉強などの小言に話を切り替えてしまうので、僕も聞かなくなった。
僕の父親は、有り体で正確な言葉で表現するのであれば、真面目な人だった。なので、宗教なども、一見信心深くはないが、そのような礼節や行事はしっかりとやりきる人でもあった。
もちろん、子どもだった僕も付き合わされた。退屈で窮屈で、嫌な思いをしていたのを覚えている。故郷の風習は、大人たちの間では常識以上に生活に溶け込んでいて、まだ未熟な子どもからすれば理不尽でしかない。
嫌々でやっているから行いも無様で、当然怒られもした。父親は口を開けば礼節や教養、常識や風習を、僕に聞かせてばかりだった。いったい何がどういう意味で、どれがどのような理由でしなければならないのかわからないまま、日常からたたき込まれた。
箸の持ち方。椅子の座り方。
仏壇の拝み方。正座の姿勢。
神棚での拝み方。榊木の代える日。
玄関を出るとき。顔見知りに会ったとき。
故郷の風習といっても特別と呼べるものはない。不真面目の僕が覚えたのは、新月の日、神棚の拝礼を早朝と真夜中の零時に二度行うことだ。本来神棚に決められた拝礼時間はないはずだが、月に一度は、必ず二つの時間を守らなければならなかった。
この拝礼のとき、祝詞もある。僕はまだ子どもだからと、拝礼の二礼二拍一礼しか教えられなかった。父親の祝詞は、独特の発音と調子のためか日本語らしい言葉に聞こえず、何か喉奥で音を鳴らす動物のような鳴き声に似ていた。豊穣のためなのだとだけ教えてくれた。
時には息苦しく感じる家庭だったけど、教えられているうちは家族の実感があったのは確かだ。
僕は彼らの一部であり、彼らもまた僕の一部だった。
しかし、あの緑の実の一件は、これまでの僕と家族の繋がりを断ち切るものだった。血や戸籍、心以上の何かが僕らを繋いでいたはずが、父親に断たれたのだ。
その正体がいったいどういうものなのか認識するほどに幼い僕の精神は育っていない。また、知識も経験もない。
実感のみが、僕の身体の芯にじわりと浸透した。
それでも僕が彼らと家族でいられたのは、彼らが僕を家族でいさせようとしていたからに他ならない。心だけは孤独に。僕は実際の成長につれ、彼らとの距離が大きくなっていくのは、もうどうしようもなかった。
数年も経てば、緑の実の件は、自分の中で腫れ物のようになっていた。だからこそ、何度も夢に見てしまうのだろう。
とはいえ、いま僕が憂鬱の理由にはなっていない。
もちろん夢を見て気分が沈んでしまっているのも事実だが、それと故郷に帰ることに関しての気持ちの落ち込みは、また別に理由があった。
「……」
逃げたから、というべきだろう。愚かで小さい、どうしようもない僕は、逃げるために故郷を出たのだ。
責められるのが怖くて。
憎まれるのが嫌で。
嫌われたくないから。
でも、結局は、戻ってきた。外でもまた逃げてきた。
僕は、いつでもどこへいっても、逃げてばかりだ。
大学を卒業後、就職できた会社を半年で辞めた。生き延びようとさえできなかった。
実家にはすべて伝えてある。電話のみなので、本当のところ彼らがどう思っているかは僕にもわからない。とりあえず迎え入れてくれるのだから、着いた途端に追い出されるようなことにはならないはずだ。
バスの窓に過ぎていく町風景をぼんやり眺める。
田んぼや畑、空き地――おそらくは放置された農地など――がちらほら見えるようになる。見覚えのある古ぼけた看板もいくつかまだ残っていて、故郷が近づいているのを実感した。
バス内に視線を戻せば、僕以外でこれから先に向かうのは、運転手も合わせて三人くらいだ。最後の記憶の頃は、まだ十人近くはいたのだけど。
以前から少ないと思っていた利用客も、さらに減ってしまったようだ。
再び視線を窓の外へ向けたところで、バスが一際強く揺れる。誤って窓に頭をぶつけた。
強い痛みはない。
昔は何度も乗っていたバスだ。額はぶつけても、舌まで噛む愚行はしない。
窓の外で、石灯籠が過ぎた。建物には石工所の看板を出しているところもある。いよいよだ。僕の目は、バスが走る正面に向いた。
道路の両脇の敷地に、いくつもの石灯籠が無造作に置いてある。苔や雑草を生やしたものもあり、古い風情のある佇まいで行き交う車を見送っている。それらに挟まれた道路の先で、トンネルが無言で口を開けていた。
五十メートルとない短いトンネルは、大岩を掘って造られたものだ。まるで、何かの境界を思わせる。事実、あのトンネルを過ぎれば、僕の故郷の地だ。
今さら引き返せない。
いや、逃げ出してきたのだから、もう行き場なんて此処しかない。がたんとバスがまた揺れる。
町の境界線、頂上に竹林を生やす大岩のトンネルには看板が掲げてあった。
〝 ようこそ榊木町へ〟。
僕の故郷だ。
†
これは、二年前。僕は榊木町に帰ってきたのだ。
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