一章 1/3 〈白昼夢〉
―――気づけば、いつもの廃れた神社で僕は立ち尽くしていた。
全身から力が抜けきって動けない。ぺたりと脱力してもしも僕の身体が柔らかかったのなら、地面に這う太ももの間を埋めていたくらいだ。足を広げた正座のような座り方で、項垂れるようにして、僕は放心状態でいた。
「なんなんだよ……」
あれだけ続いていた白の行進は消え去っていた。大規模な祭事があった後とは思えないほど、古びた境内はその衰退を何ら変わりもなく晒している。
もう耳障りな紙垂や神楽鈴の拍子はない。身をすくませる合唱も聞こえない。水で腐らせた木のような、苔の臭いも消えている。境内には白の行進の足跡すら見当たらなかった。参道に生える苔や雑草にも彼らの行進の痕跡はどこにもなかった。
「なんなんだよ。勘弁してくれよ」
弱々しくて情けない声だ。僕は強くないんだ。
上体を前に倒して額を地面につける。このまましばらく地面の下で隠れさせて欲しかった。
こんなもの、受け止めきれない。
声を殺して泣く。
いったい何が起きたのかさえわからず、どうなったのかさえ把握できない。果たして僕の身に何かが起きたのか、それとも僕が何か起きたものに巻き込まれたのかさえ。
もしかしたら、すべて幻なのかもしれない。
もはや狂い果てていてもおかしくない。いよいよ現実との境目まで怪しくなったのかもしれない。そうであったほうが、僕にとっては何倍も納得しやすく、幸せだった。
いや。なら、あいつがここにいないとおかしい。
僕の中で、一筋の記憶がそよ風のように流れていった。ああ、なんだよ。いたじゃないか。
顔を上げてみれば、太陽の光が強くなっている。とっくに朝を過ぎていそうだ。涙で濡れた顔を袖で拭く。ついでに鼻水も拭った。
少しは身体に力が戻っている。いったいどれくらい脱力して蹲っていたかわからないが、久方ぶりに身体を動かすようで節々は軋んで重い。なんとか立ち上がる。ふらつく身体を半歩踏み出すだけで留まらせた。
とにかく帰りたかった。あとはまだ考えたくない。
僕の一番落ち着ける場所で、毎日やっているようにベッドで膝を丸めて眠るのだ。自室から出なければ外との煩わしさを断絶できる。ここには一時でもいたくない。お気に入りの散歩場所でも名残惜しさはない。こんなところは関わりたくなかった。
それでも、たぶん振り返れば、境内も社も、これまでとなんら変わりの無い様子で僕を迎えてくれるだろう。察していながらも僕は直視できずに去る。
この町は、変わっていない。
そうだ。気づかされただけなのだ。
この町は。ずっと、あったのだ。
石階段をふらつきながら降りていく。普段は気をつける階段の歪みも気に留めない。倒れそうになっても、その勢いで何段か降りるだけだ。へたをすれば転げ落ちそうになるときでも、僕の疲弊した心は動かなかった。
転げ落ちようが、落ちなくとも、どちらでもよく思えた。
百段以上をぼんやりの意識のままで下りた。
無事麓にたどり着けてもまだ意識も身体も疲弊で重い。
ひたすらに帰りたい一心が僕の身体を緩慢に動かした。
麓の道を、僕は自分の家の方角へ歩く。長閑なものだ。舗装されているとはいっても車一台半分の幅しかない道には、人の姿も僕以外になければ当然車も走っていない。道の真ん中を堂々と歩いても注意されることもないくらいだ。
右側に寄って歩いていくのは真面目だからではない。主体性がない僕らしさだ。
帰路の途中、見慣れた光景は思考の余裕を生んでいた。
思考の余白を埋めてくれたのは当たり前の光景に息を潜めていた異常だった。道路を歩いているのに踏む地面の固さがまちまちのような気がする。嫌に静かだ。風がない。
そういえば、と思考の糸が異常をたぐり寄せていく。
僕の足音も聞こえない。呼吸もしているのかは腹の動きでしかわからない。もう早朝は過ぎているのだから、
まさか、まだ、終わっていない?
ただ色がついただけの世界で立ち尽くす。
人の姿がない。遠くで車が走っているかも確認できない。ここには僕ひとりだけだ。ただ細かく丁寧に綺麗で精巧に作られたジオラマに立たされた気分だ。気色が悪い。絶対計画性のない奴が酒に酔いながらいい加減に並べたに違いない。バランスが取れているように見えるのは、そいつがまだ、この世界を手放さないだけのことで、偶然と必然が折り重なってできているだけだ。
そうだ。僕もこの世界の一部に過ぎない。
ぐちゃりと音を聞いて、違和感から手元を見れば、手がろうそくのように溶け出していた。身体が傾く。倒れかけて膝をつく。足も形を見失いかけている。
肘まで溶けてきた。立ち上がれず、這うこともできない。もう身体を支えきれない。地面についた頬も溶けかけている。声も出ない。たぶん、喉もすでに。
白の行進にあてられて疲弊しきったためか、それとも理性から溶けていたのか。不思議と恐怖はない。
ただ、漠然とこれからの顛末を理解しながら、逃げることもできない現状を淡泊に認めていた。
いっそ、このままのほうが僕は。
どれほど原型が残っているかもわからなくなって、僕はいよいよ最後の心を手放そうとしていたところだった。もう視界も片目しか残されていない。そろそろ深淵で眠ろう。
だけど、たった一つ、彼女の声が僕を留める。
「おはよう。朝一」
「…………」
はたと気づけば、僕は神社の山の麓で、道路に立ち尽くしていた。
まだ日が高くなっていく時で、雲の流れる綺麗な青空の下で、麦わら帽子をかぶった女性が僕に眩しい笑顔を向けていた。
セミロングの黒髪と、黒い瞳。僕より少しだけ低い背丈。少しだけ日に焼けた肌は、薄い水色のシャツとコーンシルクのロングスカートに似合っていた。まるでアサガオのようで久しく忘れていた朝の空気を思い出させてくれた。
彼女は
「有子、か」
「朝、早いね。こんなところでどうしたの」
今が何時かなんてわからない。明るさから早朝にはもう遅い。
まだ午前中というだけで昼にはだいぶ近づいているはずだ。
時間の言及は置いておいて、お前こそ、と聞き返せばいいのだろうか。この道の先は、神社の石階段と、数件の家、林業用の道路に続いているだけだ。
さっきまでどこにいたのかとは聞けず。何かお使いでも頼まれたのか、と聞けばよかったのだが、僕にそんな余裕はなかった。こんなときに現れたのが彼女ではなく、お前なのが、僕は堪らなく悲しせいだ。
「散歩だ。ぶらついていただけだよ」
「もしかして、邪魔しちゃったかな」
「そんなことはないよ。ただ、もう帰ろうとしていたんだ」
「だったらさ、家で朝ご飯食べてく?」
彼女なりの気遣いのつもりだろう。
あいにく甘えたい気分ではない。ひとりにして欲しい。
「今日は遠慮しておくよ。あんまりお邪魔するのも、君のお母さんに気を遣わせて悪いし」
僕は笑えていないだろう。たぶん無表情だから怖く見えるだろう。
お前が不愉快面で立ち去るのも僕は咎めない。こちらも突き放したいのだから。
でも、君なら、こんな僕を放っておけないだろう。
やっぱり。ほら。そんなに優しく笑わないでくれ。
「気にすることないのに。お母さんもトモなら快く迎えるわよ」
「ありがとう。また今度にするよ」
活力が少しだけ戻った気がする。
現金すぎる自分が嫌になる。憎しみさえ沸きそうだ。この場を去ってしまいたい。今は少しでもこいつの顔を見たくなかった。
とにかく一度休みたい。さっきから有子の声以外の音が聞こえない。臭いすらもまだ感じられない。まだ感覚が戻っていないのだ。さっき身体が溶けていたのが幻かどちらかにしろ、僕の身体に異常が残っている。
今日はわけのわからないことが多すぎる。無事かどうかも、これ以上考えたくなかった。
「待って」
彼女の声を聞いて、僕は左腕が後ろに引かれているのに気づいた。有子が左手を掴んでいたのだ。触覚も戻っていないため、足を前に踏み出せなくなるまでわからなかった。
見かけただ柔らかく掴まれているだけだが、僕にはぞっとする事実が伝わっていた。ついさっきの神社での出来事だけではない。まったく動かすこともできないほどの力が、有子の手や腕にあった。びくともしていない。有子の表情は力を込めている様子はない。
だが、有子は女性どころか人間のそれからかけ離れた尋常な力で僕を足止めしている。
「ゆうこ」
「お願い。ちょっとじっとして」
総毛立つ僕とは裏腹で、有子は真剣な顔で訴えていた。そっと、掴んでいる僕の手にもう一つの手も添える。
「すぐ、戻せるから」
途端、僕は全身に圧力を感じた。遅れて、これが感覚の回復からだとわかる。世界がこれほどに刺激で溢れているものなのかと、反射的に身を竦ませたほどだった。
蝉が鳴いている。風が吹いている。枝葉が揺れている。
わかる。この世界は、生きている。さっきまで下手な造り物に見えていた景色が、生命に満ちるのがわかった。あまりに満ち満ちていて、息苦しささえ覚える。こいつらに比べて僕は弱くて小さい。
ほらね? と有子が僕の手を柔らかく包んでくれて、微笑んでいる。女性の手だった。今なら手を引くだけで、彼女の手から簡単に離れてしまうだろう。
実際、有子はそっと僕の手を離してくれた。名残惜しい温かさから僕は解放される。
「ずれていたの。これで大丈夫よ。もう聞こえるし、感じられるでしょ」
「そう、だな」
どう返していいのかわからなくなった。君の声は、まだ僕を縛る。
お前は僕の胸中を知っているのかもしれない。それでも、僕は、そんなものを彼女にぶつけてしまいたい度胸はなかった。こんな関係はあっけなく壊れてしまえば、それこそ、有子が僕の前で微笑んでくれているのが幻に変わってしまいそうだったからだ。
ぐっと飲み込む。
「ごめんね。引き留めて。帰るのよね」
「ああ。今日は、もう休みたいんだ」
まだ午前中で、一日がはじまったばかりだ。
働いてもいない身の言葉と考えると、あまりに情けなくて嘲弄されてもおかしくない。
彼女は、ただただ、僕を思っての笑顔を浮かべるのみだった。
「そっか。私も帰るところだったの。途中まではいいかな」
「いいけど」
短い一本道。用水路と田んぼの土手の間を行く。
僕たちは無言だった。特別話を探すような仲でもない。夏の賑やかさが僕たちの間を埋めてくれる。彼女は少しだけ後ろを歩いている。僕に付き添う形だ。
ちょっと嬉しく思えるのが、堪らなく哀しい。
一緒の時間は、すぐに終わる。彼女は言葉通り、分かれ道で僕に着いていこうとはしなかった。またね、と手を振って自宅へと歩いて行った。
僕は彼女の背中を少しだけ見送った後、走り出す。彼女の前だからこそ強がれた精神も、ひとりになれば弱くて耐えきれそうになかった。あんなものを見て、経験して、平然と一日を過ごせるほど僕は強くない。少し早く帰るつもりだったが最後はほぼ全力で駆けていた。
縋らなければならない。でなければ、僕は瞬く間に足下から深淵に落ちていくだろう。彼女ではない。あいつに頼ればそれこそ僕はもう自分を見失うだろう。
家に着いて、真っ先に仏壇で手を合わせた。
仏壇の前棚には、三つのキーホルダーがある。中学生の頃、修学旅行の思い出として、三人でお揃いのを買ったのだ。
僕と有子、そして暁登。
当時はやったアニメのキャラクターで、熊の人形だ。それぞれ蝶ネクタイの色が違う。
青が僕。ピンクが有子。緑は、暁登だ。
このキーホルダーは友情の証でもある。みんなが一つずつ持っていた。今は、こうして僕が一カ所に集めている。
「………………」
瞼を開く。三つのキーホルダーを捉える。
大丈夫だ。僕は、まだ僕を見失っていない。
僕はよろめきながらも立ち上がる。重い動作で自室のベッドまでたどり着くと、倒れた。
とにかく眠りたい。この重い身体も精神も、一時すべてを手放したかった。
闇に意識が沈んでいくのに任せる。しばし動きたくない。
眠りにつくまどろみで、僕はこれまでの現実からかけ離れた事象を思い返していた。
あの白の行進。
環形動物の集合体みたいな化け物。
身体が溶けたのも現実だったのか。いったいどこからどこまでが現実で、僕が自分を見失っていない保証は誰がしてくれるのだろう。
睡魔が極まって考える力を手放す。
やめよう。眠たい。休みたい。
ああ、そういえば。
苔の臭い。白の行進で嗅いだ臭いは、記憶に引っかかりを覚える。いったいどこで嗅いだのだろう。……………………………。
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