この町で。

白風水雪

序章 〈邂逅〉

 まだ神代がそこにあった昔。

 ひとりの男が隣の男に聞いた。見事綺麗な山々を眺めて。

「あの東の山々が幾重に重なって美しい。もしやあの山には神があられるのか」

「はい。八女津姫という神があられます」

 男は細く笑みを浮かべていた。

 これは時代の流れに霞み行く、瞬きの一幕。



 早朝、僕は散歩に出かけた先で、立ち尽くす。

 人より忘却半ばの神社の境内。人の手が行き届いていないために荒れている。

 神木の木々は、その神聖には相応しくないほどの無様に枝葉を伸ばしている。雑草もところ狭しと無遠慮ぶえんりょに生え、好き勝手に背を伸ばして葉を広げていた。

 参道と手水舎ちょうずや、社以外は、緑で埋もれてしまっている。

 人が生み出した物は人の手から離れれば人の夢見る神話性からほど遠くなるのは、自然の姿とはかくあるべきなのか。であれば、神すらも人の造り物という暗喩だろうか。

 しかしながら、早朝の蒼の光に照らされたためか、人の世界を自然が侵略して退廃させた境内は奇妙に調和が見えていた。

 そんな境内で、これまた珍妙に、参道の真ん中でひとりの少女が舞っていたのだ。

 歳はおそらく十になったくらいだろう。少女は赤い着物を肩に羽織って身体を回し、時には跳ねて、着物の袖を嬉しそうに風に靡かせていた。赤い着物の袖で金色の刺繍が美しくはためく。

 蒼の調和する混沌と退廃に、あかい華が咲いた。

 僕は見惚れてしまっていた。五感のすべてが彼女に吸い寄せられ、蝉や鳥の鳴き声、風のせせらぎすらも遠のいていた。


「――――――」


 七月初旬。梅雨もそろそろ終わる。

 ここ二日続く晴天の早朝。少し肌に覚える冷たい空気も心地よくて、僕は散歩に出かけたのだ。趣味といっていいものかはわからないが、こういう日は外を歩きたくなる。足は自然と最近お気に入りの神社に向いていた。

 子どもの頃から古びた社の存在こそ知っていたが、散歩のコースに加えたのは最近だった。大人の目が合ったときは近寄るだけで叱られてたのを覚えている。

 今では面倒見のいい大人も少なく、僕自身が大人でもあるため、目立つ行動でもしない限りは注意されない。

 長くうろつくと不審に思われはする。それくらい普段から人が寄りつかなくなった場所だが、人嫌いの僕には最適だ。この場所に気づけてからは数日に一度訪れていた。

 さほど高くない山で、頂上近くの社まで石階段が百を超えて続いている。階段も古びていて、人が踏み入れた数だけと地盤の弱いところが陥没している。また苔が石段をびっしりと覆ってもいて、足下を見てないと、滑るか踏み違えるかで転びそうになる。

 僕は足に力を入れて、いつものように山の神社に着いたのだ。

 そうして、少女が舞う光景の目撃に至る。

 境内の社までの参道で、ただひとりの少女が無邪気に遊んでいた。

 人が築いた富も信仰心のそれらが退廃する様を嘲るようではない。人類の関心や感謝なんぞ戯れ事にも劣ると、無関心に、あるがままではしゃいでいる神のようだった。彼の存在が真に実在するものであるとすれば、少女の姿のもまた、

 あまりに純粋がすぎて、子どもの形に留められたチカラは、僕には眩しかった。かつては確かに僕も、当然のように持っていたはずのチカラだ。

 このままでいると、僕は自分のみすぼらしさに耐えきれなくなりそうだった。せっかくひとりで楽しんでいるのも邪魔にするのは憚れて、静かに去ろうとする。

 しかし、迂闊で、僕のどんくさい足は音を立ててしまう。靴と参道の小石とが無遠慮に鳴ったのだ。


「!」


 少女が弾かれたようにこちらを向いた。

 あれほど輝きを秘めた表情はさっと驚きに染まると、瞬く間に怯えで暗く落ちる。

 まずいと思ったが。


「あ―――」


 僕が何かを言う前に、少女は赤い着物を抱きしめて走り出していた。境内の裏手は農林用道路と隣接している。その道も麓の町まで繋がっていた。せっかくの着物が雑草の葉や茎にすれて汚れてしまわないのかもさえ、彼女は気にしていられない様子だった。

 ひとり取り残された僕は、行方を失った手をだらしなくぶらりと下げた。

 醜態を晒してしまった。

 女の子からしてみれば、知らない男にじっと見つめられていたのだ。そりゃ逃げる。僕だって走らなくても、さっさと去るくらいする。

 ため息を溢す。

 女の子には悪いことをした。

 こんな早朝でこんな古びた境内だ。きっと誰も来るはずがないと踏んで、あそこまで夢中に楽しめていたのかもしれない。

 ただの散歩したかった気まぐれで訪れてしまった僕は完全に邪魔者だ。もう二度と彼女は、この境内に現れてくれないだろう。

 暫し、神社の裏手に視線をやって失態を悔いた。


「帰るか」


 つぶやきは、いつもの退廃する境内にこぼれる。

 あの少女が現れるまでは情緒を感じられて美しいとさえ思えた境内も、侘び寂びどころか、何か物足りなくて哀しい見えてしまうようになったのは皮肉なものだ。女の子を怖がらせた罪悪感も後ろ髪を引く。

 それらを振り切りたくて、僕は見下ろして階段中腹の石の鳥居を視界に収めて、石階段を降りるべく足を踏み出そうとした。

 それにしても、と視線を僅かに上の枝葉に向ける。

「やけに静か、違う……なんだ?」

 静かすぎる。

 神社に近づいてからというもの、生き物の音や気配の類いが遠ざかっている気がしてならない。単にさきほどの少女の燦爛する光景にあてられただけなら、今ごろ騒がしさは戻ってくれてもいいはずだ。

 疑念が不穏の予兆を見つけた。

 これは、冬の、雪が降り積もったときのような清廉の静けさとは違う。耳に怖気が走るような、嫌な静けさだ。

 少女の邪魔をしたばつの悪さで鈍って、気づくまでが遅かった。境内の草や木々も、地面も、風もどこか造り物めいていた。生命を感じられない。

 見えているものが慣れた同じものであっても、僕の感覚は、まったく違うどこかに迷い込んでいるようだった。足の地面の感触すら怪しくて、硬いのかも柔らかいのかもわからなくなった。

 背筋がぞわっとする。恐怖が僕の臓腑ぞうふを鷲づかみにする。

 逃げよう! 誰かの叫びを聞いた。

 自分の本能だと遅れて気づく。すでに踏み出しかけていた足が、不確かな感覚でも構わずに一歩と地面を踏みしめたときだった。さっさと走りきる姿勢を作って、従順の愚者のごとく駆け出すしかなかった。

 ところが、きらびやかな音が僕の身体を止めたのだ。

 ――――しゃん。

 あまりの綺麗な音色は鈴がいくつも重なって鳴る神楽鈴かぐらすずを連想させるものだが、色合いすらも浮かび上がりそうなもので、一瞬だったが視界すらも奪っていた。

 ほんの一秒にも満たない時間だったが、幻視するほどの美しい音から覚めてみれば、目の前に異変が現れていた。

 白の行進だ。

 神職、覡や巫女たち、百人に届くかもしれない列のすべてが、穢れない真っ白の装束を着ている。男らしい人が二列で歩いて、手には紙垂しで榊木さかきがあった。女らしい人は男の二列を挟んで左右に列を成している。黒い髪をみんな等しく腰まで伸ばして一つに縛っていて、頭には金の細工をつけて手には同じ金色の神楽鈴を持っていた。

 じわりと階段を上ってくるのは見えていない。突如として、その行進そのものが目の前に現れ、僕を飲み込んだのだ。

 行進の歩みに合わせて鈴や紙垂の音が鳴る。参道を踏む足からは馬の蹄のような何か硬い音もするが、袴の裾が深すぎて足下の確認は難しい。また、彼らすべてが額から下に、篆書体のような文字が書かれた白い布をさげて、顔を覆っている。

 彼らが現れてから水で腐らせた木のような、湿り気のある臭いが僕の鼻をついていた。特殊な香を焚いているのか、香水かはわからない。どこかで嗅いだことのある臭いで、何かに似ていた。たぶん苔だ。例えば苔に鼻を埋めて目一杯吸い込んでいるときのきつい臭いが、境内に充満している。

 そんな異臭をも纏う、不気味で怖気しかない集団が、階段から参道に踏み入れて、社のほうへ行く。

 彼らは顔も身体もほぼ統一された色と装束で覆い隠しているが、形こそは確かに人をしている。歩みも人のそれだ。そのはずなのだが。


「っ」


 僕は息を呑んで立ち着くすしかなかった。

 全身を恐怖と嫌悪に似た寒気が縛っていた。驚愕どころか悍ましさにおののいて、立っているのでやっとだった。

 彼ら白の行進は、なんと僕の身体を文字通りにすり抜けていくのだ。確かに彼らの動く風はある。物音も感じ取っている。であるのに、なぜ彼らは霧のごとく僕の身体を撫でるばかりか。彼らは幻なのか。まさか僕こそが。あり得ない。

 僕は気を確かに持とうとする。突然突如に圧倒されて潰れてしまいそうだった。正気でいられているかもわからなくなってしまいそうだ。動悸が悪化するばかりだ。呼吸も怪しい。

 苔の臭い。紙垂が鳴る。神楽鈴も鳴る。

 行進は止まらない。まだまだ続いている。妙に硬い足音だ。彼らは足並みを合わせて呼吸も同調させて、言葉を紡ぎはじめた。

 否。あまりに酷い音だったので、混乱も要因して、僕がこれを声と認知するまでに遅れがあったのだ。すでに彼らは現れたときからずっと何度も唱えていた。


。産土の力を繋ぐための楔がいる。この大地と、この安寧を、留めるため。盟約の時まで〝古きもの〟を眠らせるため。我らが真に解放されるため。―――神えらびをせねばならん。今一度の楔をこの地に穿つ。森の黒山羊へと列を成せ。我らが真に歩むため。一にして全、全にして一になる。深淵の最奥、永久の牢獄まで道を成そう。我らにはじまりを。我らにおわりを。真の輝きを』


 声質はバラバラで、音割れのラジオを反響させたかのような音だ。酷く歪な合唱だ。

 彼らは未だ動けない僕を一切一瞥もせずに行進を続けていて、不気味で不快な声調で言葉を紡いでいる。

 逃げ出したい一心の僕だが、身体はまだ動いてくれない。

 もはや白の列を為す彼らの人数は三百を超えているだろう。境内はいっぱいどころか溢れかえって、人であるのならとっくに足並みが止まっているはずだ。

 であるのに、彼らの行進は未だ止まる気配を知らない。どこへ向かっているのか。この参道の向こう側、社へ向かっているのでなければ、他に行く宛てはどこになる。

 神社の裏手は林業用の道路だ。しかし、その道が神職の彼が行く目的になる神社らしきところに繋がっているとは聞いたことがない。こんなに大規模な行進があるような立派な社を知らない。元より、これほどの大行進の祭事が地元で行われているなんて、今まで見たことも聞いたことすらもないのだ。

 あの女の子も、いまの僕と同じ状況に立たされてはいないか。いや、考えるべきはまず自身の問題だ。あの子なら麓にたどり着けているかもしれないのだ。幸い林業用道路の麓近くには、民家が建ち並んでいたはずだ。あとはどこかの大人を頼ればいい。

 そもそも、この白の行進の事実やら真相やらどうでもいい。もし身体が動くのならば、ここで振り向いて彼らの行く果てを確かめるより、一切の力を前進に使うべきだ。

 紙垂と神楽鈴の拍子が繰り返される。苔の臭いはきつくなる。ひとりとして誰も僕にぶつからず、もう何人も僕を通り抜けている。どちらが幻かもわからなくなる。壊れた合唱もさらに大きく聞こえて僕を圧迫させた。

 いよいよ限界が近くなる。先ほどから息を吸えてない。

 苦しい。目の前がチカチカする。

 ふと、白の行進のひとりが僕の前で足を止めた。

 他の行進は止まっていない。たったひとりのみが、僕の顔を覗き込んできた。


「あ、」


 やばい、やばいやばい、やばいやばいやばいやばいっ!

 押しつぶされながらも、なんとか形だけは保ってきた理性がぐちゃぐちゃに崩れていくのを聞いた気がする。僕を窮地に立たせるにはすでに十分すぎていた。

 僕の前で足を止めたひとりの白い装束を着た神職は、僕より少し小さいくらいの背丈だ。目の前で、神職は顔を隠す布を捲り上げようとした。気味の悪い模様のような文字が描かれた布を、木の根のように枯れ果てた手の指がつまみ上げる。袖から覗く肌もおよそ人の生命の瑞々しさがない。

 こんなものの素顔が、いったいどれだけの醜悪か想像もしたくない。

 僕の身体は依然として動かない。まるで地に貼り付けられたかのように足も上がらない。腕も上がらず痙攣のような動きが限界だ。上体も捻れず、顔も剃らせない。ああ、どうしよう。瞼もとうとう閉じられなくなっている。

 するする、と布が捲られていく。動きが恐ろしく緩慢に見えるのは、僕の意識が眼前に強制させられているせいだ。


「あ、あ―――」


 情けない声だけが、意味もなさず口から漏れるだけだった。

 これは暴力だ。理性が削られていくのを聞かされながら、しかし意識だけは妙にはっきりとしていて、これからの顛末を理不尽に見せられるのだ。

 雑念が消えていく。

 ―――理性とは、所詮、世界を形づくるためのフィルターに過ぎないのだ。

 すうっ、と僕は頭の中が突如としての清涼になったのを感じた。

 僕の眼前では、白装束の人が、布をすべて捲って素顔を晒していた。

 悍ましい化け物だった。

 

 環形動物かんけいどうぶつのような、黒に近い緑の触手がいくつも絡まり合わせることで、人の顔を真似ていた。その大部分では、縦に大きく開く口で占められている。目は口の余白を埋めるかのように無秩序でいくつもあった。すべての顔の部位が人間の倍以上の大きさで、粘膜で怪しく光を反射している。

 それらいくつもある目が、僕にぎょろりと視線を向けていた。

 そいつが人でない顔をにたりと笑うのがわかるくらい歪めたのを見てしまう。もとより耐えきれるつもりなんて毛頭なかったのだが、僕は自分の中の秩序が崩壊するのを、狂乱する意識でどこか冷静に見つめた。


「あ、ああ、あ! あ!! ッ!! ―――――ッ!!」


 狂気の奇声が出た。

 これが自分の声なんだと他人事に思い、僕の意識は闇に飲み込まれた。

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