#06


 アーガスさんのお店をようやく出た頃には、そびえ立つ城や街並みも、すっかりと黒いシルエットを作るようになっていて。

 ただ、暗さを増したのは、何も機械都市の様子に限った話ではなく。


 あれからずっと、私は、『そういうこと』について考えていた。

 でも、それがよくなかったみたいで、気づいた時には既に空気の歯車がぎちぎちと不調を訴えていた。


 それからずっと、私は、どうしたらいいかわからないままで。だけど、ご主人さまは何も言わず語らず、ときどき帽子をきゅっと被り直したりするだけで。


 だから、今日はもう帰れと、アーガスさんが言ってくれなかったら。

 私も、ご主人さまも、お互いに。

 文字どおり、言葉どおり、本当に。

 空虚な空白を作りながら……ただ、そこにいるだけのままだったと思う。


****


 頭上に広がる深く濃い藍色のキャンバスの下、影絵のような白い世界の中で、散りばめられたオレンジ色の宝石がきらきらと輝く。

 ふと風が運んできたアルコールのにおいに振り返れば、そんなふうに見えた、夜の商業区。酒による酔いのせいか、ときどき怒声や罵声といった嫌な声も聞こえてくるけど、昼とはまた違う活気と熱気に満ちていて。まさに眠らない場所だった。

 だが、それも少し前の話。

 今となってはもう、商業区どころか区間橋すらも見えなくなってしまった。あれだけ騒がしかった賑わいの声も、うるさいくらいの雑踏も、もはや届いてこない。

 ここから見える風景らしい風景なんて、あの機械チックな城の一角くらいだ。おまけにこの区は王族区、嫌われ者の貴族たちがはびこる問題エリア。となれば、何か用でもない限り、普通の国民なら昼でも避けて通る一帯で。

「……やっぱそう上手くはいかないもんだよね、色々とさ」

 だから、そのまま消えていってしまいそうな声も、今ははっきりと聞こえた。

 ぴたりと鳴り止むご主人さまの足音。それに従う形で私も立ち止まる。

「君が喜ぶなら。また笑えるなら。ただ、それだけだったのに……結局、僕は……」

 やがて、懺悔するように呟きながら、ご主人さまは夜の空を仰ぐ。まるで、とっくの昔に消え去った流れ星へ、遅すぎた願いごとを唱えるように。

 いつもと違って、冗談を吐く余裕すらもなさそうな後ろ姿だった。

 どこかの誰かは、こんなふうに言うのかもしれない。切り捨てるのかもしれない。

 自身のつらみ悔やみをわざわざ人に聞かせる理由なんて、ただ、自分を慰めたいだけでしかないと。ただ、自己顕示欲や承認欲求を満たすためだけに、都合よく私を利用しているだけに過ぎないと。

 確かにそうなのかもしれないけど。実際にそのとおりなのかもしれないけど。

 でも……私にとっては、そうじゃなくて。こんなことまで言わせてしまって、本当にごめんなさいって。そんな気持ちばかりで、胸が痛くて、つらくて。

 思いっきり、頬や顔を引っ叩かれたり殴られたりした時よりも。思いっきり、お腹や背中を蹴り飛ばされた時よりも。ずっと、ずっと……痛くて、つらくて。

「ご主人さま……」

「……うん?」

 弱々しい私の声音にご主人さまは振り向く。

 ……なのに。

「あの……」

 言いたいこと。言いたかったこと。伝えたいこと。伝えたかったこと。

 今は、いくつも、いくつもあるのに。あるはずなのに。

「……そ、その」

 頭の中や心の奥から必死で出力しようとしているのに。さっきはできたのに。

 言いたかったことも。言いたいことも。伝えたかったことも。伝えたいことも。

「え……えっと、んっと……、あ、あう……ぅ」

 さっきまであったはずなのに。今は、何もかも、何一つ残らずに。

 言葉としての形を成す前に、喉の奥や口の中で虚しく溶け消えてしまった。

「……ヴィオラちゃん?」

 なんで。どうして。

 わからない。


「……っ」

 それでも、なんとか言葉を引きずり出そうとした。

 意味もなく唇が開いただけだった。

「…………」

 それでも、なんとか声を絞り出そうとお腹に力を入れた。

 言葉を伴わない吐息が漏れただけだった。


 本当に、本当に、私は……どこまで役立たずなのだろうか。これじゃ再利用できるスクラップのほうがまだ役に立つ。

 何かを言うために。答えるために。そのために口があるのに。

 誰かに伝えるために。応えるために。そのために言葉があるのに。

 本当に、本当に、私は……どれだけ人間から遠ざかってしまったのだろうか。これじゃ人の言われるがままに動く機械と変わらない。

 言うことができるのに。答えることができるのに。そのために声があるのに。

 伝えることができるのに。応えることができるのに。そのために心があるのに。

 対現実においての自分が一体どれだけ無力で、無能で、無価値なのか。それを改めて思い知らされた私は、その場にぺたりと座り込んでしまった。

 すると、何故か。

「……ごめんね、無理させてしまって」

「え……?」

 ご主人さまは、被っていた帽子をそっと外しながら。

「それと、……ありがとう」

「……わっ」

 そして今度は、その帽子を、私の頭にぽふっと載せながら。

「なんで……? どうして……?」

 帽子を落としてしまわないよう両手で押さえつつ、顔を上げ、戸惑いの瞳で問う。

 ただ、帽子の影がもたらす暗さのせいで、ご主人さまが今どんな表情をしているかまではわからなかった。

「いや、だってほら……僕のせいでしみったれちゃった空気をさ、君なりになんとかしようとしてくれたわけでしょ? できたできないの結果はともかくとして」

 けど……なんとなく。

 いつもの調子にちょっとだけ近づけたような声を聞いた限りじゃ、少なくとも、悪い色だけは浮かべていない気がした。

「ん……ご主人さま」

 だから、見えない手に引かれるような形で、私はゆっくりと立ち上がりつつ。

「――、あ、いえ、えっと……」

 条件反射で口から出て行こうとする悪癖を――寸前のところでせき止めながら。

 ごめんなさいも、ありがとうも。言葉として口にするのは簡単でも、言葉を通して気持ちが伝わるかどうかはまた別の話。

 だって……今まで、ずっと、言わされていただけだったから。

 でも、今のご主人さまいわく、それはダメなことなんだって。やっぱり、すぐには無理だったけど、遠いいつかまでの間には直さなきゃいけないことなんだって。

 そのおかげか、さっき……ふと、気づいたんだ。気づけたんだ。

 とにかく使い勝手のいい言葉だからこそ、いつも、たったその一言だけで済ませてしまっていたら。終わらせてしまっていたら。

 いつまで経っても……きっと、私の心なんて伝わりっこないんだって。


「た、確か、……こ、こんな感じで……」 

 ……なら、今の私でも、唯一できることを。

 言葉が必要ない、たった一つの、できることを。

「ん、んん……」

 だから、物は試しにと。

 胸の中をふわふわ漂うばかりで、まとまらない温かなモノをどうにか伝えたくて。

「んーっ……」

 取っちゃいけない、二度と忘れちゃいけない、大切な違和感を。

 改めて、見せつけるように、むずむずと口元に作ってみたわけなんだけど。

「あー、うん、君が何をしたいかはなんとなーくわかったんだけどさ……それじゃあただの苦笑いになっちゃってるんだよねぇ……」

 どうしてか、目元までひくひくと一緒に動いてしまったせいで。結局、呆れているんだか困っているんだかな声で返されてしまったりして……。

「……まったく。本当に前途多難な子だこと」

 ご主人さまの言うとおり、本当に、確かに、前途多難だ。

 今日一日、いっぱい困ったり悩んだりしたのに。最後には、またしても出だし振り出しに戻ってしまっただけのような感じが否めないけど。


 でも。

 それでも。


 ……行ってよかった。


****


 城の裏手を通り、王族区を抜け、二つ目の区間橋を渡りつつ。

 緩やかな弧を描くそのアーチが、上りから下りへ切り替わろうとしていた時。風に乗せられふわりとやってきたのは、オイルが焼けるにおい。

 機械車……? すれ違って結構経つのに……? 

 思わず振り返ってしまった直後、時計の針を模したような刺々しい城の頂が視界に飛び込んでくる。

 それは、無機質で、機械的で、不気味な風景――。


 ――のはずだった。

「ほぁ……」

 眺める場所が変わったことで。

 当然、見え方までもが変わって。

 城の頂から漏れ届く、眠らない場所の光に照らされる歪な城は、本当に幻想的で。

 まるで、そのためだけに作られた、シャドウアートのようにすら感じて。

「変な声出してどったの、ヴィオラちゃん」

「あ、いえ、……なんでも、ないです」

 私に帽子を預けたまま歩く、見慣れない姿のあなたが、一緒に見えているからかもしれないけど。

 これはこれで、悪くないかも……って。

 歪で仕方なかったはずのシルエットに、初めて、そんなことを思う。

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