#05


 うーん……。

 一向に終わりの見えてこない思考の迷路を巡り続けて、どれくらいの時間が経ってしまったのだろう。これにしようかならば、そのまま『はい』と納得できたのに。

 でも、ご主人さまは言った。女の子なら――と。

 アーガスさんは何も言わない。だから、自分で選ばざるを得なくなってしまった。

 ……うーん。

 カウンターの上に広げられた、たくさんのデザインスケッチ。そこに描かれている様々な洋服たちは、色も形もそれぞれ違う、一つ一つが素敵な洋服たち。

 どうしよう……?

 私が選択と呼ばれるものに強烈なためらいを覚えてしまうのはもちろん、今回の選択は乙女の本能が刺激される内容だったことも手伝って、自分の優柔不断ぶりはなおさら酷いものになってしまっていた。

 ……どうしよう?

 しかし、自分の着る洋服を選ぶなんて、一度でもあっただろうか。はっきりと思い出せるのは、ボロボロの麻布を服代わりに羽織っていたりだとか、よだれを塗った身体に髪の切れ端を張り付けていたりだとか。そんな記憶ばかりだ。

 どれがいいんだろう……?

 もはや何度目かもわからない引き返しにやり直し。その様子をご主人さまの向かいで眺めていたアーガスさんは、ふはぁと重々しいため息を吐く。

「しっかし、女の買い物が長ぇなんてのは当たり前のことだが……嬢ちゃんの場合は特にすげぇなぁ……」

「こら、アーガス」

「……っ、あ、ご、ごめんなさい。待たせてしまってますよね、すごく……」

「あ、いや、すまねぇ。今のぁ気にせずゆっくり選んでくれ。別に嬢ちゃんを責めてるわけじゃねぇし、急かすつもりもねぇからよ」

「まったく。デリカシーなさすぎ」

 ご主人さまが肩をすくめると、アーガスさんは気まずそうに頭を搔く。

「……俺ぁ嬢ちゃんみてぇにこんな悩めねぇし、実際こんな悩んだこともねぇ。なもんで不思議でしゃあなくてよ。つい口に出ちまった」

「だそうなので、ヴィオラちゃん、許してあげて。彼は自分で言ったとおり本当に頭と口が一直線に繋がっちゃってる系の人間だからさ。仕方ないんだよ」

「一切フォローする気のねぇフォローありがとよクソ野郎……」

「で、でも、待たせてしまっているのは事実ですし……それに、私のせいで……」

「気にしない気にしない。ほら、僕がアーガスの相手しとくからさ」

「……ありがとうございます」

 本当に気にしなくていいのかなぁと不安ではあったが、ご主人さまにさぁさぁと手で促されてしまったので、私は再びデザインスケッチに目を落とすことに。

 とはいえ、ゴールを定めらないまま漠然と振り出しに戻り続けたところで、結局は無意味な唸り声の繰り返しになってしまうだろう。

 なら、せめてと。

 そう思った私は、一拍の後、きゅっと手に力を込めながら。

「……あ、あのっ」

「ん? 決まった?」

「あ、や、そ、そうじゃなくて……あの、その、あの、あの……えっと……」

 何の意味を成さない断片ばかりが口からこぼれ落ちていく。

 でも。

「ご、ご主人さま、は……」

 それでも。

 ぽわぽわと浮かんでくる小さな泡が、弾けてしまう前に。消えてしまう前に。

 一心不乱にかき集めて。一生懸命拾い集めて。

「この中だったら、……どれがいい、ですか? 着るのは、私、ですけど……」

 バラバラにちぎれてしまいそうだった言と葉を、なんとか繋いで、必死に結んだ。

 うまく伝えられた自信はない。もしかしたら、変な伝え方をしてしまっていたかもしれない。誤解されてしまったかもしれない。間違えてしまったかもしれない。

 だから、怖くなった。俯いてしまった。目を閉じてしまった。胸の中が気持ちの悪い圧迫感や蟻走感でいっぱいになった。散々植えつけられた他人の価値観と強迫観念が襲いかかってきた。

 震える唇と肩。怯える身体と心。

 今すぐにでも謝ってしまいたい。おこがましくてごめんなさいと。私なんかがごめんなさいと。せっかくの機会なのにごめんなさいと。こんな私でごめんなさいと。

 連鎖する負の囁きと禁じられた自虐。口にすれば楽になれる悪魔の甘言。だけど、それらを実際に発することなく、私は声を待った。ひたすら、恐怖と誘惑に耐えた。

 そうして、心の影が絶えず手招きしてくる中。

「……そうきたかぁ」

 耳に届いてきたのは、髪の擦れる音と吐息交じりの言葉。

 期待半分、後悔半分。

 そろりと、ゆっくりと、少しずつ。

 私は、瞼を開きながら、顔を上げていく。

「いや、うん、さすがに予想外、うん、これはちょっと……」

 一体何がだろうとそのまま横目で顔色をうかがってみれば、ご主人さまは何故か口元に手を当てていて。しかし、帽子の傾きが強くなっていたせいで、どんな表情をしているかまではわからなかった。

「……ご主人さま?」

「ああ、いや、なんでもないんだ。うん、気にしないでおくれ、なんでもないんだ」

 不審というかあまりにもらしくない言動にたまらず声をかけたが、これ以上は聞かないでくれと言いたげに手の平で制されてしまう。

 わけがわからず私がしきりに首を傾げていると、がははと豪快に笑う声が響く。

「おいどうした。何照れてんだ。んん?」

「……ち、ちがわい!」

 ご主人さまが照れて……? 今ので……? なんで……?

 動揺の理由を咀嚼できずにぽけっとしていたら、心底おかしそうにアーガスさんはにかりと歯を見せつつ私へ向き直る。

「なぁるほど。確かにこいつの性格じゃ嬢ちゃんにはシラ切ってそうだな。……いいか嬢ちゃん。こいつ、実はそういうのに対してぁ、笑っちまうくれぇダメなんだよ」

「そういうの……って……」

「ちょっと。彼女に変なこと吹き込もうとしないでくれる?」

「あ? 別に変なことでもねぇし、嬢ちゃんが聞いて困ることでもねぇだろ」

「いや、困るよ……僕が」

「んだよそのクソみてぇな理由……」

 なんて感じで、先程のうろたえはどこへやら。すっかりといつもの調子を取り戻したご主人さまは、目深に被っていた帽子の傾きをくいと直す。

 さっき、アーガスさんの言っていた『そういうの』って部分も、気になっていたりはする。……いたりはするんだけど、今は、とにかく。

 今は、答えて、ほしくて――。

「まぁ、今はそんなことよりもだ。……僕だったら、どれがいいか、だね」

 ――と、小さく不適格な不満がぽつりと生まれた矢先だった。

「でも、その前に一つだけ。……どうして、君は聞いてしまったんだい?」

 優しい声音での『どうして』に、びくりと肩が跳ねた。心臓の鼓動はどんどんうるさくなって、胸の中もきゅーっと苦しさでいっぱいになって、ぞわぞわと気持ち悪くもなって、リンクするように耳の奥までもがごちゃごちゃと騒がしくなっていく。

 ただ、そんな恐怖に震える私がいる一方で。

「……わかってしまったんです」

 やけに落ち着いている、私でも『私』でもない自分も、確かにいて。

 いつの間にか、私の知らないうちに、存在していて。

「どれだけ時間をかけても、どれだけ考えても……ずっと、決められないままなんだろうなって。少なくとも、今の私じゃ、まだ」

 おかげで、何の意味を成さない断片ばかりを口からこぼれ落とすこともなく。バラバラにちぎれてしまいそうな言と葉ではなく、きちんと、誰かに何かを伝えるための言葉にあっさりできたりもして。

 一度でも耐えられたから? 心の影の手招きを振り切って内と外の境界線を越えられたから? 彼らになら、『私』を守る必要がないと自分が判断したから?

 こんな自問自答をしたところで、きっと。

 少なくとも、今の私じゃ、まだ。

 なら。

「それなら……今の私じゃ、まだダメなら……せめて、いつかのために」

 立ち込める濃霧のように、まるで先のわからない、いつか。機械都市が吐き出す白煙のように、叶うことなく空の彼方へ消えていってしまうかもしれない、いつか。

 だけど、真っ暗な私に暖かな光をくれたあなたならと。

 キズモノの汚れた私に、人として生きることを、与えてくれたあなたならと。

 心にぽつぽつ浮かび上がる街灯のような言葉の道しるべを、辿っていく。

「いつかの、私のために……今は、あなたに決めてもらおうって思ったんです。あなたの選んだものなら、どんなものでも、私は喜べると思ったから」

「……そっか。……そういうことなんだね」

 最後まで胸中を語り終えると、ご主人さまがふっと優しく笑いかけてきた。

 なのに、どうしてか、いつもどおりの微笑がいつもと大分違った印象を受ける。

 それこそ、無理矢理、口元を歪めて作ったような。

 今にも崩れていってしまいそうで、一時の儚い夢を見ていたかのような。

「そういうこと……?」

「……なんでもないよ、ヴィオラちゃん」

 今しがた聞いた『そういうこと』は、たぶん、少し前に聞いた『そういうの』とはまるで意味が違っているのだろう。今の自分でもそれくらいはわかる。

 ただ、夢跡のような表情を浮かべた理由が。浮かべさせてしまった原因が。

「……おい、大丈夫か」

「僕は大丈夫だよ」

「ああ、いや、てめぇがじゃなくてよ……」

「頼む、今は何も言わないでくれ。お願いだから、触れないであげてくれ」

「……わかった」

 何一つわからずにいた私は、わからないなりに見つけようと、記憶の海へ意識を潜り込ませていたせいで。

 平常から外れた二人の会話も、機械都市の環境音にしか聞こえてこなかった。

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