#03


 機械都市を照らし続ける月の明かりと星の輝き。

 どちらも手を伸ばせばすぐに届きそうなほど近く感じるのに、実際の距離は気が遠くなってしまうくらいにかけ離れている。まるで、私とご主人さまの関係性を表しているかのように。

 たった、一人分。

 たかが、一人分。

 その隙間を埋めるために、私には、どれだけの時間が必要なのだろう。

 歩調を揃えるために、ご主人さまと、どれだけの諍いを重ねればいいのだろう。

「……そうだね」

 鉄の塊の走る音が一際大きくなったかと思うと、一瞬だけ、視界の光度が跳ね上がった。だがすぐに元の明るさへと戻り、歪な稼働音は徐々に遠ざかっていく。

 そこには、何もなかったかのように。

 そこでは、何も起きなかったかのように。

 耳には不快さを、心には虚無感という爪痕を、私たちの間に残したまま。

 ご主人さまの力ない肯定を最後に、自然、どちらからともなく歩き出す。機械車の存在が感じられない時に限って歩調が揃ってしまうのは、一体何の皮肉だろう。

 なんて思いながら無言で追従していくにつれ、水路に沿って作られた堤防と柵で仕切られた大きめの舗道にぶつかった。

 城を中心として、円状に敷かれた巨大な水路。そこから更に東西南北へ向かって続いている水の通り道が、都市を四つの区画へと分けている。

 件の機械車が昼夜問わずに走り回っているのは、その舗道上にある軌条部分。レールに並列する形で設置された柵には一定の間隔で乗り口が設けられており、利用したい場合はそこから手を上げていれば、気づいた操縦者が機械車を止めてくれる。

 もしかして、乗るのかな……。

 そんな懸念から、ご主人さまの手をじっと眺めていると。

「大丈夫、安心して。それは使わないから」

「……そ、そうですか」

 先程までの陰鬱な空気はどこへやら、ご主人様がくすくすと楽しげに笑う。……思うところがまったくないわけじゃないけど、暗い雰囲気が続くよりかは。

 なんて気持ちを抱いて間もなく、再度、がしゃがしゃとした音が辺り一帯に響き始めた。

「あ、こればっかりはどうにもならないや……ごめん」

「……乗りさえしなければ、なんとか」

 半永久的に都市内を回り続けている機械車が、会話を始めた私とご主人さまの横を通り過ぎていく。工場の機械なんかに比べれば大分小さく感じてしまうものの、それでも、人の背丈よりかは一回りも二回りも大きい。

 今後も乗りたくないな……。

 そんな心境で、去っていく都市の象徴を見届けていたら。

「さ、こっちだよ」

「……あ、はい、すみません」

 本当、あれには今も振り回されっぱなしだ。

 らしくない愚痴めいた独り言を、内心だけで漏らしつつ。

 後ろ姿すらも見失ってしまう前に、私は慌ててご主人さまの後に続いた。


 先程の場所、つまり王族区はちょうど城の裏手側にある。

 そこから時計回りに商業区、工業区、居住区の順で続き、始点である王族区へ。また、機械車の進行する方向もこの順と同じだったり。 

 だけど、私たちが今進んでいる方向は、その流れに逆らう形だった。

「もう少しで着くよ」

 そうして、ちょうど区と区の境界に架けられた橋の根元へ辿り着いた時。ご主人さまが私に優しく微笑みかけてきた。

 ここから先にある居住区は、どちらかというと、普通の暮らしをする国民のためにある場所だ。金に物を言わせた豪邸ばかりが目立つ王族区とは違い、ごくごく普通の小さな家や、派手さとは無縁の集合住宅が多いはずで。

 ……貴族なのに、普通? 普通なのに……貴族?

 ダメだ、わけがわからない。考えれば考えるほど混乱してしまう。

「ふふっ、どうして貴族の僕が……って顔してる」

 しきりに首を傾げていたら、ご主人さまの喜色に満ちた声。

「すみません……つい……」

「ははっ、気にしないでおくれ。てゆーか、そんなかしこまらないでいいから」

 すっかり染み付いてしまった所作から頭を下げようとしたものの、即座に手で制されてしまった。そして、いちいちへりくだる私を見かねたのか、たまらずといった様子で許可じみた言葉を付け足すご主人さま。

 でも、私は……。

「おっと……それ以上はダメだよ。口にしてしまえば、お互い悲しくなるだけだ」

 俯きかけた時、見透かしたような否定。

 無意識に落ちていた視線の高さを元へ戻せば、ご主人さまはそれでいいとばかりに頷き。

「だから……そういうのは、もう、なしにしよう。それで……」

 顎に手を添え、私へ届けるための言葉を探しながら。

「……うん、そうだな。これは僕からの命令じゃなくて、僕との――」


 こんな温かみしかない拒絶、されたことなんて、なかった。

 生意気を言うなと激昂されて、存在を否定されたことばかりだった。

 口先だけの、耳触りだけはいい嘘の優しさを散々聞かされたこともあった。

 時には力づくに、有無を言わさず強引に。

 時には信じさせるための、狡猾な罠まで仕掛けて。

 だけど、奥底にある本質は。

 自分一人が、快楽に溺れるためだけに。

 私を、醜い欲望で汚すためだけに。

 満足して飽きるまで、ただただ、ひたすら。


 でも、今、目の前にいるご主人さまは。

 激昂するわけでもなく、人として、右も左もわからなくなってしまった私を。

 優しく諭すように、純粋な、眩しいくらいの温かさで。

 無理矢理の力づくではなく、私に選択を委ねるような声色で。

 私を信じさせるための罠なんかじゃなくて、本気で僕を信じて欲しいとばかりに。


 だから。

 とても、とても、――て。

 すごく、すごく、――て。

 

 いつからか、記憶の最果てに埋もれてしまった、大切なこと。

 じんわりと温まる感じのする、ずっと包まれていたくなる、不思議なもの。


 それが一体何だったかは、まだ、ちっとも思い出せないけど。

 今の私が辿り着くにはあまりにも長すぎて、遠すぎて、深すぎるけど。


 ただ、それでも。

 ご主人さまの、そんな――が。

 ふと、私の真っ暗な心から。


「………………うん」

 拙くて、不適格な言葉を、呼んだ。


 機械都市の空を彩る一つの月と幾多の星。

 どちらも手を伸ばせばすぐに届きそうなほど近く感じる距離で、静かな輝きを放っている。まるで、私とご主人さまを見守るように。

 たった、一人分。

 たかが、一人分。

 その隙間を埋めようと、ご主人さまが、歩み寄ってきてくれた。

 私が見失ってしまわないように、ご主人さまは、歩調を合わせてくれた。


 今はまだ全然頼りない、言の葉だけの結びだけど。

 二人だけの、小さくて狭い世界でだけの契りだけど。


 ――でも、いつか、もしかしたら。


 二つの区を繋ぐ一つの橋の上で、ふと仰いだ夜の空は。

 心なしか、いつもより。

 綺麗で、素敵で、やたらとロマンチックなもののように見えた。

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