#02
新しいご主人さまの後についていく形で、競売所の入り口から、外に出るための螺旋状の階段を上っていく。
ここは秘密裏に作られた場所なので窓もなく、頼りになるのは一定の間隔で壁伝いに備え付けられている松明の光だけ。といっても、迷いなく歩けるほどの広さと明るさは確保されている。
二人分の足音が、しんと静まり返った仄暗い空間に刻まれていく中。先を歩いていた彼はふと立ち止まり、私のほうへ振り返った。
「そういえば自己紹介がまだだったね」
すると、再び彼は帽子を取り。
そのまま帽子ごと自身の手を胸元に添えながら、恭しく頭を下げる。
「僕はブラムスっていうんだ。改めてよろしく、ヴィオラちゃん」
……私には、やっぱりわからない。なぜ、従う側である自分にここまでしてくれるのか。これじゃ立場がまるっきり逆で、私が彼を従えているみたいになってしまう。
だけど同時に、少しだけ、心がくすぐったいような感覚があって。
「……どうして」
「ん?」
「どうして……私なんかにそこまでしてくれるんですか?」
そのせいか、つい、無意識に尋ねてしまった。実際声にしてから気づいた私は慌てて口を押さえたが、彼は小さく笑いつつ肩をすくめる。
「なんか……ね。こりゃー前途多難だ」
と、言われましても……。
だって、そんな世界は知らないし、ましてや経験したことなんてなかったから。
何より、私の知っている世界とは、経験してきた歴史とは正反対だから。
「さて……僕が君にそこまでした理由だったね」
本当にわからない、といった様子でじっと見つめている私に、彼は大きく息を吸い込むと。
「理由は至ってシンプル。……単に君を、ほっとけなかったからだよ」
溜めた息と共に吐き出された声色は、妙に意味深で。
だけど、言葉は曖昧で、やっぱり真意の輪郭は見えなくて。
それでも、私の心に違和感を生むには充分すぎるほどの温かさで。
「……そう……ですか」
たまらず私は自身の胸を手で押さえ、視線をそっと床に落とす。
じんわりと広がっていく感情をこれ以上逃がしたくなかったのか、この妙な心地よさを孕んだむず痒さが単に苦しかっただけなのか。
どうしてそんな行動をとってしまったのかは、自分でもわからない。
全然わからないけど、わからないながらも、そうしなければいけなかっただけの理由が私の中にあったのかもしれない。
「………………そう、ほっとけなかったんだ」
戸惑いに揺れる意識の下、不意に、聞こえてきたのは。
まるで水面に一滴の雫を落とした時のように、ぽつりと。
よく通る明るい声とは対照的な、どこまでも小さくて冷たい声だった。
「……ご主人さま?」
「ん、なんでもないよ。……ごめんね」
帽子を被り直しつつ、声振りをいつもの調子に戻すご主人さま。しかし今は顔を見られたくないのか、先程までよりも深く被っている気がした。
だけど、私は従う側。従える側のご主人さまがなんでもないと言えば、なんでもないのだ。それ以上の追及は不必要で、不合理なことだ。
「……時間も遅いし、少しだけ急ごうか」
「……はい」
なのに、私は。
ご主人さまが一瞬だけ見せた、帽子を被る前の、今にも崩れそうな表情が。
瞳の奥に焼き付いて、離れないままでいた。
****
地下から続く長い回廊の終着点にあるのは、豪華な装飾が施された金属製の扉。外側と内側を区切るその隔たりは繕った建前と隠した本音の象徴のように存在し、選ばれたごく一部の貴族たちと、選ばれてしまった側の人たちしか通過することを許されていない。
一見、貴族の所有する屋敷の離れ屋にしか見えない、小さいながらも豪華で立派な建物。そこが、煌びやかな理想と残酷な現実の境界線。今、ご主人さまと私が目指すべき場所。
螺旋状になっているこの段を、何回上っただろう。
深淵に飲まれていくようなこの感覚を、何度味わっただろう。
そんな私を気にかけてか、ご主人さまはときどき心配そうに振り返りながら。
私はゆっくりと首を横に振り、そのたび大丈夫だと伝えながら。
お互いに、一定の間隔で、繰り返しながら。
ぐるりと伸びているねじれの果てを目指し、ただただ、進みながら。
――そうして時間の感覚が狂ってしまいそうになるくらいに、同じ景色と同じ環境音ばかりが続いた後。そして同時に、ようやく扉が目前にまで迫った頃。
「ふいー……さすがにちょっと疲れたな。ヴィオラちゃん、大丈夫?」
一足先に、とりあえずの終着点へ辿り着いたご主人さまがそう尋ねてきた。私はこくりと小さく頷いて応えつつ、閉ざしていた口を開く。
「私は大丈夫です。慣れているので……」
「……慣れている、ね」
帽子のつばをきゅっと掴み、ご主人さまは俯いてしまう。だが道中で話した時とは違い、何かを切り替えるように、何かを振り切るように深々とため息を吐く。
「本当に、前途多難だなぁ……」
だから、そう言われましても……。
なんて先刻と似たやりとりを繰り広げていたら、ぎぃ、と扉が開かれた。直後、カンテラのぼんやりとした明かりが私たちを照らす。
「ああ……あんたか。もうお帰りで?」
すぐに声をかけてきたのは、外のすぐ近くで待機している警備の兵士だった。中から突然声が聞こえてきたので様子をうかがうために扉を開いたらしい。
「ん、まぁね」
「そうですか。では、お気をつけて」
「どうもどうも。……さ、行くよ」
兵士との会話を手短に切り上げ、ご主人さまが促すようにぽんと私の肩を叩く。長居は無用、ということだろうか。どちらにしろ、私は従うほかないのだけど。
こうして外に出れば、機械都市独特の、鉄が錆びたにおいやオイルのにおいを風が運んでくる。王族区と隣り合った商業区のほうからも、人々の酒宴によって作られる喧騒が耳に届く。
「……本当に、バカげた都市だよね。権利も、人も、何もかも……金さえあれば、簡単に買えてしまうなんて……さ」
しかし今、風が運んできたのは、それだけじゃなくて。
自嘲にも皮肉にもとれる響きを持った語りは、背後から聞こえた扉の閉められた音にかき消されてしまいそうなほど、とにかく弱々しくて。
声にならない声が口の中で作られては、表に出ることなく溶けていく。
だって、買われる側の私には、ご主人さまにどんな言葉をかければいいかわからなくて。
言葉ですらない言葉が頭の中に浮かんでは、誰にも届くことなく霧散していく。
だって、従わされる側のわたしには、本来口を挟んでいいことじゃなくて。
もし、私が普通の、小さな幸せを噛みしめられる平凡な人生を歩むことができていたなら。
だけど、そんな仮定をしたところで、やっぱり。
私が生きてきた世界とは、あまりにもかけ離れ過ぎてしまっていて。
一度もなかったものをねだったところで、綺麗な宝石を諦めてしまった私には、いまさらどうしようもなくて。
やがて、少し遠くにある巨大な水路のほうから、機械車の稼働する音。
無機質で機械的な規則正しい音は、自身の無力さを突きつけてくるように。
また、どう足掻いても私は部品の一部でしかないと裏打ちするように。
がしゃがしゃと、私の耳へ入り込んできて。
次第に、大きくなっていって。
そのまま、ずっとこびりついて、全然離れてくれなくて。
「……そう、ですね。それが、この都市ですから」
だから、私には。
夜の海にぼんやりと浮かぶ月と煌めく星が作る、歪な形をしたシルエットを。
機械じみた城の頂点を漠然と見上げながら、肯定するのがやっとだった。
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