第4話 消したい過去
眩しい。
最初に感じたのは、それだった。
沈みかけていたはずの太陽は空高く、気温もさっきよりは少し高い。
そして何より、私の目に映る風景が変わっていた。
「第一中学校……」
目の前の校門に掲げられた母校の名前を呟く。まさかここに戻ってくることになるなんて。
「まだ授業中ですね」
そう言ったクロノスちゃんは、私のずぐ右に立っていた。
ポケットからスマホを取り出してホーム画面を見ると、2007年4月20日の11時50分になっていた。私が中学に入学してすぐの頃だ。
本当に、過去に戻ってきたんだ。
「さて、どうしますか?」
「あー、どうしようか……」
ちょうど背後にあった桜の幹に背中を預けて空を見上げた。視界の半分ずつを、桜の花と青空が分け合っていた。桜の香りかな、心地の良い香りが微かにする。周囲の車道を走る車は稀で、柔道場の方から威勢の良い掛け声が聞こえる。
本当に、どうしようか。
過去に戻ってきたは良いものの、何も考えていなかった。
「放課後まで時間を進めましょうか?」
「あー、いや、もうちょっとこのままで」
考える時間が欲しかった。ここからどうやって過去を変えるのか。それはつまり、過去の私にどうやって自分の信念を捨てさせるか。かなりハードルが高いんだよね……
いくら口で説明したところで、過去の私は納得しないだろう。そもそも前提としている世界観が違うのだから、平行線のままで終わる。言葉を越えた実感でないと、過去の私の信念は崩せないはずだ。
私が高校生の時に体験したようなことでも起きない限り。
「………」
自然と甦りかけた記憶を、頭を振って消そうとした。あの時のことは思い出したくない。
『正しいこと』が通らず、それまでの私の家庭が、幸せが崩れ去ったあの日。
「はあ……」
こつん、と軽く後ろの幹に頭をぶつける。
どうしても、消せない。
過去の私と一緒に、忘却の彼方へと追いやっていたはずの記憶。
あの子さえ居なければ、こんなことにはならなかったのに。
「すごくしかめ面になってますよ、お姉さん」
「へ?」
間違いなくクロノスちゃんの声だったけど、クロノスちゃんは私を見ていなかった。それっきり何も言うことなく、ただ前を向いてちうちうと紙パックのジュースをストローで飲んでいた。……ところでどこから取り出したのかな、そのジュース。私にはパックの裏面が見えているから、何のジュースかはわからない。ただ淡いピンクが主体のパッケージだから、いちご牛乳とかかな?
何はともあれ、今の一言で少し意識が逸れた。
なるべくあの時のことを思い出さないようにしながら、改めて方策を練る。
とは言え、あの時のようなインパクトを過去の私に与えれば変えられるのはほぼ間違いないわけで、ということはつまりあの時の再現をすればほぼ間違いないということで。
結局、思い出したくないことを思い出さなきゃいけないわけで。
父さんの不倫。
でもその証明は実を言うとすごく難しい。発覚した高校1年生の時に不倫していたことは間違いないけど、中学生の時もそうだったのかはわからない。詳しいことは何一つ言わずに、父さんは居なくなったから。
張り込んで調べるべきかもしれないけど、できればそんなに手間をかけずにどうにかしたい。
こうなると、何を過去の私にぶつけたらいいのかわからなくなる。
「あ……」
ふと、閃いた。
私が居るじゃん。過去の私とは180度違う私が。
説明するんじゃない。違う価値観同士、真正面からぶつかるんだ。
そうすれば、少しは変わるかもしれない。
もう一度スマホの画面を見ると、12時ちょうどを示していた。
「ねえ、クロノスちゃん」
「はい?」
スマホをポケットになおしながら、私はクロノスちゃんを呼んだ。
「放課後まで進めてもらってもいい?」
「わかりました」
ストローから口を離したクロノスちゃんが、ぱちんと指を鳴らしてすぐ。
「……!」
時間が進んだのをはっきりと感じた。軽い浮遊感と、ゾクッとする感覚。太陽は傾いて私たちを斜めに照らした。
「じゃあ、また明日!」
「おう、また明日な!」
元気な挨拶を交わして、校門から生徒が出てきた。最初はパラパラとだったその人数も、すぐに増えた。
「過去のお姉さん、見つけられますかね?」
「あー、どうかな」
冷静に考えたら、すぐに見逃してしまいそうな気がしてきた。現に、出てくるすべての生徒を逐一チェックするのが難しくなってきていた。それに部活動に入っている生徒が多いから、すぐにこのラッシュは終わってしまう。
……そう、思ってたんだけど。
「あっ」
見つけた。
学校指定のカバンを背負ってツカツカと歩く女の子。周囲の生徒と比べると頭一つ分背が高い。
そう言えば、女子としてはもちろん、中学生の中でも高めの身長だったな、私。
「ねえ、ちょっとそこの君」
後姿を追いかけて声を掛けた。
「?」
振り返ったその女の子は、間違いなく中学生の私だった。
「ごめんね、ちょっと良いかな?」
「え、あの、ごめんなさい。急いでるんで」
私を不審者とでも思ったのか、私(過去)は即座に立ち去ろうとする。
「あー、ちょっと待って!」
慌てて私(過去)の前に立って、パスケースに入れている学生証を見せる。
「私、未来のあなたよ」
「え……?」
怪訝そうに私を見る私(過去)の目に、学生証を突きつける。
「……私の、名前」
「でしょ? 他にも私しか知らないこと言っても良いけど」
これで何とか話の相手はしてもらえるかな、と思ったのも束の間。
「あなた、何者ですか?」
「へ? だから、未来のあなただって……」
「そんなのありえません。その学生証に書いてある年は3年後、そんな数年間でタイムトラベルの技術を開発できるとは思えません。私に関係のある人なんですか? どうしてこんなことするんですか?」
「いや、だから未来のあなただって言って……」
「ひょっとして、そうやって自分を偽らないと会話ができないんですか?」
「いや、だから違うって!」
「違う? だとすると……」
私に詰め寄った挙句の果てに真剣に考え始めた私(過去)を見て、私は悟った。
こんなのとまともに会話するのは無理だ。
クロノスちゃんにまた時間を止めてもらえば、私(過去)も私が過去から来たことを納得してくれるかもしれない……いや、それでもダメかもしれない。とにかく何とか納得させたとしても、その後に価値観を戦わせるなんて言うのは、私の気力がもたない。
「ごめん、もう良いや……もう帰って」
「え?」
ほんの数分で疲れてしまった私の言葉に、私(過去)は驚いていた。
「私に用事があったんじゃないですか?」
「ああ、あったことにはあったんだけど……」
「なんでその用事を諦めるんですか? 何かをしに来たのに何もしないで帰ってしまうのは良くないと思いますよ」
あんたの性格がクソめんどくさいからだよ‼
そう、叫んでしまいたかった。思いっきり叫んで、私(過去)の頬でも引っ叩きたくなった。
「まあ、いつもいつも用事を済ませなきゃいけないってことは無いから」
「そうですか? 私は……」
「あー、もう良いから。帰って、帰って」
不思議そうに首を傾げる私(過去)の背中を押して帰らせようとする。
「はあ、そうですか……」
何度も首を傾げながら、私(過去)は帰っていった。
ああ、メンドクサイ。
何でこんなヤツとまともに話そうなんて思ったのか。ついさっきの自分をぶん殴ってやりたい。
「どうするんですか、お姉さん。このままだと何も変わりませんよ?」
とことことこ、とクロノスちゃんがやってきた。
「わかってるわよ……」
私(過去)を変えるのは至難の技だとわかった。なら、どうすれば良い?
道の真ん中で頭を抱えた私の横を、一人の男が通り過ぎて行った。
グレーのニット帽にサングラスとマスク。明らかに不審なその姿が気になって目で追った。低身長で小太りなその男が、私(過去)の後姿に重なった。その時、あることを思い出した。
「はは、ちょうど良いじゃん……」
ついでに、解決策も。
変えられないのなら、いっそ
「ちょっと、そこのあんた」
「⁉」
ビクッとその男は体を震わせて振り返った。間違いない。中学生の時、私を追いかけていたストーカーだ。
「ねえ、あんた、あの女の子追いかけてるんでしょ?」
「へ、あ、いや、そんなことは……」
私が私(過去)を指差して聞くと、明らかに男は動揺した。
「別に隠さなくて良いから。通報する気は無いし」
「へ、あ、はあ?」
「あんた、このまま追っかけてたら警察に捕まってお先真っ暗になるわよ」
「いっ……」
私の言葉に、明らかに男は怯えていた。こんなにチキンで大丈夫かな。
一瞬よぎった不安を振り払って、私は話を続けた。どうせ今はこの男しか手が無い。
「どうせお先真っ暗になるなら、いっそあの子をヤっちゃったらどう?」
「へ?」
「あの子が好きだから追っかけてるんでしょ? 警察に捕まったらあの子とは会えなくなるわよ。どうせなら、ヤってから捕まりなさいよ。思う存分ヤってさ」
私の囁きで、男の目が変わっていくのがサングラス越しにでもわかった。
「はあ、まなたん……」
男は気持ち悪く呟いた後、歩調を早めて私(過去)へと近付いて行った。
「……私の名前、違うんだけど」
男の気色悪さにゾッとしながらも、そこはツッコまずにはいられなかった。いや、本名知られてたらより一層怖いんだけども。
信号で立ち止まった私(過去)の背後に、男が段々と迫っていった。周りの中学生や大人はあまり注意を向けていない。簡単に私(過去)の背後に立った男が手を伸ばす。私(過去)の肩を握って、くるりと向きを変えさせて、相対する。
その時になって、私(過去)も周りの人間も男に気付いたみたいだった。
キョトンとしながら何事か言おうとする私(過去)の胸を、男が触った。驚いた私(過去)は反射的に後ろに下がって、周りの人間が男を押さえようと手を伸ばし始めた。
私は思わずほくそ笑んだ。
私(過去)の体は直線の車道にはみ出して、走ってきた車の目前に飛び出す格好になっていた。
車は急には止まれない。
ブレーキ音が響く間、私(過去)の体が宙を舞った。そして車道で一、二度跳ねて転がり、ぐったりとうつ伏せになった。
車道に横たわる私(過去)の周囲では俄かに騒然とし始めた。歩道で男を取り押さえる人、車から降りて私(過去)に駆け寄る人、携帯を取り出して通報しようとする人。
「これでおーけー、ですか?」
相変わらずジュースを飲んだままのクロノスちゃんが隣に立った。
「ええ、そうね」
これで、私の中の私(過去)は死んで、消える。
「では、戻りましょうか」
そう言って差し出された手に、私はまた触れた。
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