第5話 仮面は付け替え可能

 

 ゴポゴポゴポ。水の中で空気が泡となって立ち昇っていく音がする。裏腹に沈んでいく自分の体の穴という穴に水が入り込んで、隙間という隙間を支配していく。

 光の届かぬ暗い水の底へ沈んで、もう二度と上がってこられないのだろうと……そう思っていた。このまま目覚めることもないだろうと。


  "………め………な……さ…い……"


 沈んでいく最中、女性の声が響いた。断片的にしか聞こえない言葉はさておき、その声はどこかで聞いたことがあるような…どこか懐かしい響きだ。記憶の奥底にでも置いてきてしまったのかもしれないなんてとも思う。

 懐かしい声に包まれながら目を閉じると誰かに手を引かれた。


「誰…?」

「お目覚めかな?」

「…先生」

「おはよう。存外短いお昼寝でよかった」

「私…どうして……?」

「僕がお昼に職員室へ行って戻ってきたら、君が号泣していてね。落ち着かせようと手を尽くしていたら、いつの間にか眠ってしまったからベッドまで運んだんだよ」

「あ…すみません…」

「いいえ、謝ることでもないさ。今日から全く変わってしまったんだ…特に君は人よりもずっと我慢強くてストレスを溜め込み勝ちの様だし、いつプッツンと糸が切れても…おかしくはないと思っていてね」

 本当に大丈夫かい?と心配そうに眉尻を下げ、どこか寂しそうに笑って見せた。その笑顔は、初めて見た人を惹きつける笑顔ではなく、暖かな春の日差しの様な…自分の心の隙間をそっと撫で埋めてくれるようなものだった。

 答えようと声を出そうとしたが、それよりも先にまた一筋の涙が流れてしまった。

「これは重症だね」

「…先生。私は…」

「いいんだよ。泣きたいなら思い切り泣いて、笑いたいときは思い切り笑えばいいんだ。ここはそれができるんだよ…」

 自然と久我の手が頭に乗った。男性特有の骨筋張った無骨な手で優しく頭を撫でられる。いつもなら自分に向かってくる手が怖くて堪らないのに、久我にはその感情は芽生えず大人しく撫でられている自分がいる。

 答えは簡単だ。自分を撫でる久我の手は、”悪意のない手”ーーーいつもの様に怯え怖がる必要はないし、害を与えてはこないと伝わってくる。

 幼い時分、よく父にやってもらったが…それ以上に今はこの手が愛美にとって大きな救いだった。そうしてもらっている内に、彼女の涙はすっかりどこかへと消えてしまっていた。

「先生…」

「何だい?」

「ありがとう…ございます」

「どういたしまして、と言っても大したことはしていないけれど…とりあえず、落ち着いたかい?」

 愛美は縦に頷いて答えて見せた。すると、腹の虫が昼食を与えられずに機嫌を悪くしていたのか、ぐぅ~っと二人の腹から自己主張する。

どっと二人の口からは笑い声が飛び出して、愛美は真っ赤になりながら腹を抱えて、久我は腹をさすりながら笑った。一頻り笑うと久我が切り出す。

「お昼まだだっただろう?昼休みは終わってしまっているけれど、ご飯を食べないと」

「はい。そうします」

「お茶は僕が用意するから、君は座っててくれるかい」

「ありがとうございます。ところで先生…」

「ん?スープいる?」

「あ、はい、頂きます…ってそうじゃなくて、先生はお昼ご飯食べていなかったんですか?」

「食べていないよ。君と一緒に頂こうと思っていたし、戻ってきたらあの状況だったし…どちらにせよ、まだお昼を食べる時間にはセーフだから問題ないさ」

 久我は壁掛けの時計を指差す。時計は午後1時半をもうすぐ通過しようとしている頃だった。でしょ?といったクスッと笑みを浮かべて、久我は首を傾げて見せる。その仕草に少しドキッとしつつも、愛美はベッドを降りてソファに腰かけた。

 低めのテーブルの上には真っ白なテーブルクロスが敷かれ、誰が作ったのかは分からないがお手製だろうと思える毛糸で出来た丸いコースターが、まるで自分の少々歪で不格好なことを遠慮しながらクロスの端に控えている。

 コトンと優しくコースターの上に、可愛らしい犬が描かれたマグカップが置かれる。中はまだ何も入っていない。マグカップで主役となる中身は、今丁度久我の手で運ばれてきた急須の中にいいるのだろう。

「勝手に出して温めてしまったけれど…大丈夫だったかな?」

 少々申し訳なさげに謝ってくる久我のもう片方の手には、白い皿に綺麗に並べられ温められたであろうお弁当の中身達がいた。

「あ‥問題なしです!むしろ、本当に何から何までありがとうございます」

「良かった。それとスープはコーンスープを用意しているから、ちょっと待ってて」

「……」

 いそいそとスープのもとに行く久我の姿を見る愛美の口元に、恐らく久しぶりであろう暖かな笑みが灯ったのを見たのは恐らく久我だけだろう。


 ”保健室ではあるけれど、誰かと一緒に食事をとったのは随分と久しぶりかもしれない”


 そんなことを心の中でこぼしては、久我が準備を整えて席に着くのを愛美は待っていた。久我は支度を終えると、顔に似合わずどっこいっしょといって席に着く。

 そして二人は、向かい合い各々手を合わせ



 「「いただきます」」






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 5限目の終了を告げるチャイムが校舎内に鳴り響く。それと同時に各教室から生徒達が溢れ出し、やれ掃除当番だの、明日の時間割はあれがあるから嫌だのと各々の思いを零しながら騒ぎ立てている。

 その中で一人の女生徒は大急ぎで帰り支度を整えていた。

 マロンクリーム色の柔らかい髪を二つに結び、パッチリとした大きな空色の瞳に焦燥の色を抱えて、口からはヤバイヤバイヤバイと鈴を鳴らしたような声音で呟いている。 

 周りにいる生徒に比べて圧倒的に小さい少女は、見た目と反して身に背負うには少々大きいのではと思うほどのリュックを背に乗せて、急ぎ足で昇降口へと向かった。

 着いた先は高等部3年生の昇降口。中学生よりもさらに幼く見えるかもしれない容姿をした彼女は、自分を待っている燕尾服の青年をその視線の中に収めると自分の下駄箱へ進む。

 燕尾服の青年もそれに習い、一足先に彼女の下駄箱へ着くと丁寧に外履きを用意し、片足を立てて跪いて首を垂れた。そして、口を開いた。

「おかえりなさいませ、姫。お迎えに上がりました、早速お履き替えを」

「ありがとう。でも自分でやるわ、それくらい」

「畏まりました。では、お荷物をお持ちします」

「お願い、先に車に運んでおいて頂戴」

「承知いたしました。それとご報告として、新居への引っ越し作業は完了し、すべてセッティングまで終わっております」

「分かったわ。じゃあ先ずは今日の仕事をとっとと終わらせたいから、テレビ局へ車を回して頂戴」

「仰せのままに」

 彼女は手ぶらで黒塗りの高級車へ乗り込むと、執事は車をテレビ局へと走らせた。

 夕焼けが間もなく夜を連れてきて、人々を家路に急がせる頃だろう。そんな事を考えながら彼女はふとリュックサックの中からワインレッドの手紙を取り出す。

 愛美宛に届けられたものと全く同じものだ。封印には女王を表す王冠が押されたシーリングスタンプが本来の力を失ってくっついているだけの状態である。

 改めて手紙の中身に目を通してみる。宛先は『黒帝院 ひな(こくていいん ひな)』とある。彼女改めひなは一つ息をついて称号へと視線を滑らせ、ぽつりと呟いた。

「親指姫…ね」

 まず実年齢よりも大幅に幼く見える容姿、身長は同級生たちに比べれば圧倒的に低い。そんなハンデを気にする必要がないくらいに彼女は人と才能に恵まれている。

「ピッタリじゃない、私が親指姫なんて!女王陛下はいいセンスしているわ」

 ふふんと弾む吐息をついて、これからの事をぼんやりと考えているとどうやらテレビ局の地下駐車場に着いたようだった。

 執事の青年と共に車を降りて玄関へ向かう。この先は通行証がなければ関係者以外は立ち入ることができないから、ひなは執事に何かを言いつけて奥へと足を進めていった。辿り着いた部屋で化粧をし、衣装を着替える。

 学校での制服とは全く違う装いに変わると釣られて気持ちも変わる。まるでスイッチが入った人形のように、スタイリストによって変わった鏡の向こうの自分に笑って見せた。


「絶対的アイドル”HINA”は今日も最強である!」


 

 そう、彼女はこの島で知らぬ人はいない”アイドル”だった。





  第5話 仮面は付け替え可能 END

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