第8話

呆然と動けないでいる内に、階下から静かな足音が聞こえてきた。

そうしてその足音の主がすっかり姿を現して、俺を見るとハッと顔色を変えた。

いつか屋上で会った木下先生だ。川瀬の恋人。

先生は、しばらく驚いたように言葉をなくしていたが、以前のおどおどとした様子とは違い今度は教師然とした口調で「何をしてる。君は以前も授業時間に屋上にいたな」と言った。

俺は、もとより反抗するつもりもないので「はい」と答えて、先生の前に屹立した。

どうせ喧嘩後の逢瀬のつもりだっただろうに、木下先生はご丁寧に俺を職員室に連れてって、生徒指導の教師に引き渡すと、自分の役目を終えたと思ったのか姿を消した。

ふと、川瀬の傷の事を思い出した。

またヤバい事にならないといいけどな…

それからしっかり絞られると、しばらく屋上に近づく事を禁じられた。



寮に着いて、消灯の頃になっても当然眠ることなどできない俺は、おもむろに起きだして

稲城を起さないようにそっと部屋を抜け出した。

向かった中庭のベンチには先客があり、遠目からでもわかる赤い髪にそれが川瀬である事がすぐにわかった。

随分近づいても気付かないのか、俺の方を見ようとしない。

薄明かりの中で、朝よりひどいあざになっている頬と虚ろな瞳が痛々しかった。

俺を見ようとしないのは、昼の事を怒っているのだと思っていたが、どうやらそうではなかった。

様子がおかしい。


目線をそのままに、小さく顔だけ俺の方に傾げた川瀬は人形みたいにまるで感情のない表情で微かに微笑んだ。


「眠れなかったの?」

言葉を選んでいると、すぐに川瀬が続けた。

「眠れない夜に気持ちよく眠れる方法があるよ」

そう言うと川瀬はおぼつかない手で自分のスラックスのポケットから小さな白い紙の包みを取り出して俺の方に差し出した。

「コレ。飲むと楽になるんだ。すごーく安いんだよ。どうぞ」

「おい、」

「悩みとかなくなって、これのんでヤるとすごいいいんだって。ほら、試してみたくない?」

「大丈夫かお前、ラリってんのか?」

「ちがうよ、ぼくは飲まない。お兄さんが飲むの」


目線が合わない

目が見えてない、

もしかして、ぼんやりと影でしか把握できてないのかもしれない

「川瀬、俺だ、五嶋」

宙を浮かぶ目線がどこかハッとしたように見えた。

「あ、…くにひこ先輩.....なんで?」


「おい、約束が違うぞ」

突然背後から声がして、ふりむくと、同級には見たことのない顔の生徒が立っていた。

声を聞くと川瀬があわててそっちの方に反応する。

「ごめんなさい!!違うの!ただのトモダチだよ。すぐ帰るから」

「なんだよ、はやく来いよ」

「あせんないで、今いくから」


すれ違いざま川瀬が小声でまた屋上でとささやいた。

そのままグイグイ無遠慮にひっぱられてく川瀬をみてたけど、

途中で我慢できなくなって、気付くと俺は、男の後頭部に強く一発くらわしていた。

男は声をあげて倒れ込み、苦しげに唸ってから俺の姿を確かめると、すごい勢いで

つかみかかってくる。

ラグビーでもやってんのかっつう体躯は、どすりと重みのある拳をふりかざしてきた。見事俺の腹のどまんなかをとらえた。

ぐっと吐き出したいのをこらえて、さっきのダメージでかがみこんだ男の後頭部を思いきり両方の組んだ手で叩き込んだ。

男は、気絶してその場に倒れた。





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