第35話 尋常ならざる情熱
舞子はドラマ『雅美』に取り組むにあたり、冬枝雅美に関する文献や資料、そしてインターネット上の情報をつぶさに読み漁った。もちろん可能な限り、出演作も観た。さらに、当時共演していた俳優たちや、関係者の元を訪れ、雅美の話を聞いた。当然、其田や二山にも熱心に質問をした。その意気込みは二人がうんざりするくらい執拗だった。
それまで、舞子は雅美のことをよく知らなかった。雅美が亡くなったのは、舞子の生まれた年のことである。けれども、舞子は雅美に関する知識を得るにつれ、雅美に親近感を抱いていた。
「この役はあたしにしかできない」
舞子はそう、つぶやいた。
撮影に入る前日、舞子は冬枝雅美の眠る墓を訪れた。そして、墓前で、
「雅美さん、あたしはあなたになりきりたい。乗り移ってくれてもいいです」
と決意をあらわにした。すると、どこからともなく、白い鳩が一羽飛んできて、墓の上にとまった。舞子と目があっても逃げようとしない。
「雅美さん?」
舞子は思わず問うた。しかし、鳩は当然のことながら、何も答えない。舞子は鳩に手を差しのばした。鳩は舞子の左手に飛び移った。
「雅美さんなのね」
舞子は鳩を右手で撫でた。その瞬間、舞子は聞いた。
「私は女優」
という、冬枝雅美の声を……
撮影は順調に進んだ。舞子は尋常ならざる情熱を持って作品に挑んでいた。その熱い想いが、共演者に伝わり、皆、必死に演技した。ただ一つ、気になることがある。舞子が撮影の合間に、咳き込むようになったのだ。マネージャーの馬場正子が気にして問いかける。
「大丈夫?」
「たぶん、ちょっと風邪を引いただけ。問題ないわ」
「ならいいけど。熱は?」
「大丈夫だから」
舞子は少し、いらだった。
冬枝雅美は最初から演技の上手な役者だったわけではない。ドラマ初出演の『東洋のマタ・ハリ』では監督から五十回のNGを出され、涙目になったこともある。要するに当初は大根役者だったのだ。ドラマではそのエピソードも紹介する。舞子は上手な役者だ。下手な演技をするのは並大抵のことではないと思われた。しかし、変幻自在の舞子は、見事に大根役者、雅美を演じきった。さらに泣きべそまでかいてみせる。これにはスタッフ、共演者から、拍手が起きる。
さらに、難しいのは二十歳の舞子が年上である雅美の演技をみせるところである。特に、映画『
舞子の才能は底知れぬものだった。あまりに妖艶な演技をするものだから、演出の桜井も見ほれてしまうほどだった。誰もが舞子の艶やかさに我を忘れて、興奮した。一方、殺陣はさらに見事だった。かつて、竹沢弓生に師事し、猛特訓を重ねた成果がここで発揮されたのだ。相手を斬り殺し、鮮血が飛ぶ。それが、舞子の白い頬にかかり、美しいコントラストが生まれる。
「これ、本編よりも迫力があるんじゃないか?」
其田、二山、臼杵プロデューサー、演出の桜井も作品の出来に自信を持った。
相変わらず、舞子はシーンを終えると咳き込む。馬場正子が、病院に行くことを勧めるが、舞子は首を縦に降らない。
「大丈夫って言っているでしょ。市販の薬で治すから。正子さん、咳止めと解熱剤買ってきてください」
「熱もあるの?」
「微熱よ。心配いらないわ。用心のためだから」
「本当は病院に行った方がいいのに」
「撮影が終わったら行く」
いたちごっこな会話が続いた。結局、正子は咳止めと解熱剤を買いに行く羽目になった。
撮影は、二週間、休みとなった。場面は病魔に侵された、雅美の最期のシーンである。演出の桜井は、やせ細った雅美を演じるのに、メイクを使えばいいと提案したが、舞子が「ボディーコントロールをしたい」と言い出したので、二週間の休養となったわけだ。もともと、舞子はスレンダーだから、無理に痩せる必要もないのだが、舞子がどうしてもやると言って聞かない。舞子は演技に関しては妥協しない人間だ。桜井も其田も折れた。
二週間、舞子は鳥のささみの茹でたものだけを一日五食、少しづつ食べた。筋肉がつくといけないので、ジムには通わなかった。あくまでも、末期の病人の役だ。
その頃になると、咳の回数も増え、正子始め、其田も心配になって病院への受診を進めたが、
「全ては撮影が終わってからです。撮影中に主役が入院なんてできません」
と舞子は言い張った。
「入院?」
其田が突っ込んだ。
「例えばの話です。そういうこともありえるかなと」
「そうか。私は、これ以上は何にも言わない。好きにしなさい」
其田は舞子のストイックさに呆れてしまったようだ。
場面は、雅美の遺作、映画『おんな白夜行』のクランクアップシーンから始まる。「カット。OKです。全撮終了!」監督の声が高らかに上がる。主演の冬枝雅美はスタッフが用意したバラの花束を受け取ろうとする。その顔はやつれているが笑顔だ。スタッフに近寄って花束を受け取ろうとする、雅美。今にも花束が雅美の手に持たれるかという瞬間、雅美の体が前面に倒れた。意識を完全に失っている。大慌てで、救急車が呼ばれ搬送される。
「OK」
演出の桜井が声を出す。
「見事な、倒れ方だ。怪我はなかったか?」
桜井が尋ねる。
「大丈夫です」
そう言う、舞子の顔色は悪い。無理なボディーコントロールのせいだと桜井は思った。
いよいよ雅美が天に召されるシーンとなった。舞子は重い足取りでロケ先の病院のベッドに横たわった。無理な減量と風邪が原因だと、誰もが感じていた。
「大丈夫なの?」
其田役の草舟が気遣う。
「ちょっと調子が悪い方が、このシーンの演技がしやすいです」
舞子は答えた。
本番、スタート。
雅美の最期が近いことを諦念した其田は、ただ奇跡が起こることを祈っていた。抗がん剤と放射線治療のせいで、髪の毛の抜けてしまった雅美は毛糸の帽子で頭を隠していた。すでに、雅美に意識はなく、昏睡状態が続く。酸素吸入器に吐かれる息の白さで、雅美がまだ生きていることがわかる。
「雅美……」
其田はそうつぶやく事しか出来なかった。
その時である。
突然、雅美が目を開いた。起き上がろうとして、必死にもがくが、出来ない。雅美は酸素吸入器を外すと、蚊の鳴くような声で言った。
「私は女優、私は女優」
その声を耳元で聞いた其田は思わず泣かずにはいられなかった。
「もういい。ゆっくりお休み」
其田は雅美の体をさすった。懸命にさすった。すると雅美は突然、最期の力を振り絞って起き上がり、こう叫んだ。
「死んでも女優は辞めない!」
雅美はそこで、力尽きた。
「カット! オーラス、OK!」
桜井が叫ぶ。舞子、迫真の演技に大拍手が起きる。
「見事だ」
ベテラン俳優、草舟が感心する。ところが……
「舞子、撮影は終わったよ」
其田が言うが舞子は目を覚まさない。
「舞子ちゃん!」
馬場正子が近寄ってきて、舞子をさするが目を開くことはない。
「まさか?」
正子は舞子の額に手をやる。
「すごい熱だわ。誰か、先生を呼んできてください!」
病室は騒然となった。
「舞子、舞子!」
其田が必死に呼びかける。反応はない。
急遽、駆けつけてきた本物の医師が脈を取る。
「呼吸がとても小さい。救急治療室に運びましょう」
と冷静に言った。小道具として使われていた酸素吸入器が舞子の口に当てられる。
何人かの看護師が慌てて駆けつけ、舞子をストレッチャーに乗せて、救急治療室に運んで行った。
呆然とするスタッフ。その中で、其田は、
「雅美、舞子を同じ境遇にあわせないでくれ!」
と叫んだ。
しかし、其田の願いは虚しかった。検査の結果、舞子の病名は、
『急性白血病』
だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます