第19話 撮影の日々

……頭の中が空っぽだ。あたしが誰かということも意識にない。でも、それでいい。これだけは自覚しているから。あたしが女優だってことを。それさえわかっていればいい。他の記憶は邪魔なだけ。「あなたは女優、あなたは女優よ」と誰かがあたしに話しかけてくる。その声に励まされているように感じる。そう、あたしは女優なんだ。与えられた役柄を一生懸命、演じればいいのだ。机の上には台本が置いてある。ページを開けば、あたしが誰であるかわかる。及川恵。それがあたしだ。及川恵、及川恵。そう、あたしは及川恵なんだ。さあ、台詞を覚えよう。及川恵になりきって。橋野先生は役柄を演じる自分を客観的に見る、もう一人の自分を持つようにとおっしゃっていたけれど、今のあたしにはそれはできない。90パーセントの女優でもいい。ただ、役柄になりきって演技することで精一杯。冷静な自分を持つことなどできない。だってあたしは女優なんだから……


 舞子は机に向かって、台本の暗記をしていた。黒目がちの瞳で字を追っていく。一台詞覚えるたびに中空を仰ぎ見て深呼吸をする。スポンジが水を吸うように、台詞が頭の中に入っていく。橋野脚本は降り注ぐ雨のように台詞が舞子を襲う。橋野素子の書く台詞は長くて力強い。それを一身に受け止めていく。辛くもあるが楽しくもある。この仕事が好きだと舞子は思う。モデルの仕事も楽しかったが、役者の仕事の楽しさとは比べものにならない。台本を閉じる。舞子は立ち上がって身振り手振りをしながら台詞を暗唱する。物覚えはいい方だ。子供の頃は台詞の暗記に苦労したが、今では苦にならない。天職とはこのことか。よどみなく台詞を刻んでいく。

「舞子、また寝坊するから早く寝なさい!」

 隣室の先輩、梅野うめのほのかが舞子に注意をする。そうだ、明日も学校がある。舞子は及川恵から水沢舞子に戻って、ベットに入った。


 高校での舞子はおとなしい生徒だった。特定の友人もいない。いじめられていることはなかったが、避けられているという感じはあった。舞子が役者をしていることを他の学生は皆、知っていた。川向高等学校ではアルバイトは原則禁止なのだが、舞子はというか保護者がわりの其田がきちんと学校側に届けを出しているので問題はなかった。それに、舞子は意外と勉強ができる。授業に集中する力があるからだ。塾にも通っていないのに定期考査では学年十位以内に必ず入っている。教師陣はそのことに驚いていた。優れた美貌と頭脳、他の生徒たちは、畏敬の念を持って舞子を見ていた。近寄り難いのである。だから舞子はいつも一人だった。しかし、そのことを舞子は苦痛に感じてはいなかった。周りでギャーギャー騒がれるよりもずっと気楽であった。なので昼休みは本を読んで過ごしていた。台本は学校に持ってきていない。とにかく、騒がれることが嫌だった。だから、他の生徒を煽るような行動は意識的に控えていた。静かに学校生活を送る。それが舞子の気持ちだった。


 授業が終わると舞子はそそくさと教室を出た。校門前には其田が車で待っている。寺山スタジオに急ぐのだ。車中で舞子は学校の宿題をこなす。川向高等学校は都内屈指の進学校だけあって、宿題の量も多い。それをやりきる時間は車の中しかなかった。


 楽屋入りすると早速、和泉ワク子に挨拶するのが日課だ。

「先生、おはようございます。舞子です。今日もよろしくお願いします」

「はいはい。勉強ご苦労さま。でもねえ、勉強なんかしても役者には全く必要ないんだよ。わたしなんか中卒よ。それが今じゃあ、ドラマの主役を張っているのよ」

「はい」

「学校なんてやめちゃえば? 役者に専念しなさいよ」

「それはできません」

「なんでよ?」

「学校に送り出してくれた、社長に恩義があります」

「なるほどねえ。じゃあ、頑張りなさい」

「はい、かしこまりました」

「あんたの言葉遣い、固いよ。もっとリラックスしていいから。わたしゃ別に、あんたを取って食おうってわけじゃないんだからね」

「申し訳ございません」

「ほら、固い。『すみません』ぐらいでいいんだよ」

「すみません」

「素直でよろしい」

「では失礼します」

 舞子はちょこんと頭を下げると退出した。


『綿菓子を食べる鬼』は勧善懲悪、単純明快なドラマだ。それが年配の視聴者を中心にウケて17シリーズまで続いている。その代わり、若者には見向きもされない。基本的な筋立てはこうだ。屋台で綿菓子を売っている、村瀬りき(和泉ワク子)は他人が困ったり、苦しんでいるのを見ると、助けてあげたくて仕方のない性格で、毎回事件に首を突っ込み、窮地に陥る。ところが彼女には秘密があった。りきは記憶喪失になった過去があり、未だに二十五歳以前の記憶がない。ところが敵に襲われ、意識が朦朧となったところで、失われた記憶が蘇るのであった。高校、大学と空手をやっていたりきは、空手八段の黒帯だったのだ。その記憶が蘇った、りきは強い。バシバシと暴力団組長やらやインチキ宗教の教祖を滅多打ちにする。その時、手助けするのはりきの娘、村瀬ばなな(吉原美穂よしはら・みほ)とその高校の親友、及川恵(舞子)である。脚本の橋野素子は「現代の水戸黄門を目指した」とインタビューに答えた。「平成の必殺仕事人」と呼ぶ人もいる。初期作品は名作が多く『神回』と呼ばれるものも多数あった。しかし、近年のシリーズには「マンネリすぎる」「黒幕がすぐに読める」という辛辣な意見が続出し、打ち切りの方向で、首都テレビのお偉いさんは意見が一致していた。けれど、大物脚本家と“芸能人最強の女”和泉ワク子に引導を渡せる豪気なものは首都テレビにはいない。そして、毎年秋冬の風物詩であるように脚本が出来、フリーのプロデューサー、岩井福子が全てを取り纏めるのである。


 岩井も「マンネリ化」と「若年層の取り込み」に頭を悩ませた。

「そうねえ、若いアイドルに出てもらいましょうか?」

 そう考えた岩井はアイドルをリストアップして、プロモーション各社と出演交渉をした。しかし、答えはノーだった。視聴者の大半が年配の男女ということがネックになった。ほとほと、困っている時に、岩井を訪ねてきたのが脚本家の二山だった。知人の事務所でモデルをやっていた女の子が女優をやりたいと言う。渡りに船だった。早速、契約してしまった。早計だったかなと思ったのは翌日の目覚めの時だった。だが、心配は杞憂であった。水沢舞子は橋野素子に好かれ、当初は単なる色付けだったのが準主役に昇格した。気難しい、和泉ワク子からも可愛がられているようだ。演技も吉原美穂の数段の上だった。

 舞子がテレビ出演したことで、若年層の視聴が増えた。おかげで裏番組、テレビサンライズの『ドクターZ』と視聴率争いでデットヒートを繰り広げた。今まで、惨敗続きだったので、岩井は溜飲が下がる思いだった。


「さあ、本番が始まりますよ」

 A.D.が気合いを入れる。岩井は舞子の演技に期待をかけて、スタジオを見つめた。


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