第9話 特訓

 二山が舞子を連れて阿佐ヶ谷の雑居ビルに来たのは、梅雨入りして蒸し暑い六月の日曜日のことだった。

「緊張しているか?」

 二山は聞いた。

「しています」

 舞子は答えた。舞子の緊張癖は治ることはないだろう。ようは緊張をどう演技に集中することで忘れるか。それが大事だと二山は思った。今日は其田は同行していない。其田は竹沢弓生の悪評を知っているだろう。業界人なら誰もが知っている。竹沢の名前を出せば、舞子を連れて行くことに其田は反対したであろう。だから二山は黙っていた。それでも竹沢の元に舞子を連れて行くのは、竹沢の芝居に対する真摯さ、そして技術を二山が買っているからだった。

 稽古場はビルの4階にある。エレベーターはない。古いビルだった。


 稽古場に入ると、

「ター、ヤー」

気合のこもった掛け声が聞こえて来た。竹沢が刀を振り回しているのだ。真剣だった。舞子はその姿に恐れを抱いたようで、身を竦ませている。

「やあ、二山さん」

 竹沢が刀を鞘に収めた。

「おいおい、舞子に真剣を振り回させるんじゃないだろうな?」

 二山が冗談ぽく言うと、竹沢は、

「二山さんから大事なお子さんを預かるんです。俺自身の気合を入れ直していたんです」

と言った。

「さてと……」

 二山がどう切り出すかと考えていると、

「その子が二山さん期待の子ですか」

竹沢が舞子に目を向けた。

「水沢舞子です」

 舞子が短く挨拶をする。

「竹沢だ。おいおいその格好はなんだ。お姫様じゃないんだぜ」

 竹沢が言った。舞子は二山が買ってあげた、薄いピンクのワンピースを着ていた。

「ああ、すまん。今日は挨拶だけと思って」

 二山が代わりに謝ると、竹沢は、

「まだ午前中ですぜ。そういうこともあるかと思って、ジャージを用意しときました。さあ、着替えなさい」

と赤いジャージを舞子に放り投げた。

「ここでですか?」

 舞子がつぶやく。

「当たり前だ。役者が羞恥心を持ってどうする」

 竹沢は怒鳴った。

「はい」

 舞子は従った。

「まずは柔軟体操をしておけ。二山さんは帰っていいですよ」

「しかし……」

「二山さんがいると、指導が甘くなっちまう」

「そうか」

 二山は稽古場を後にした。


 二人っきりになると竹沢は静かに言った。

「お前の演技は見た。確かに上手だった。でも、それは『子役にしては』だ。お前は二山さんはじめ、周りの大人に甘やかされている。違うか? 俺はその根性を叩き直してやる。ついてくる気はあるか? 本物の役者になる気はあるか? なければ帰っていい」

「女優になりたい」

 舞子は答えた。


 竹沢の稽古は峻烈を極めた。

「役者は体力勝負」

 そう言って過酷なランニングを課し、

「体幹を鍛える」

と、きついヨガと竹刀の素振りを命じた。役者の稽古など全くなかった。しかし、舞子は弱音一つ吐かずに猛特訓に耐えた。季節は夏が終わり、秋になろうとしていた。世間は舞子という一人の子役のことなど、忘れ去っていた。その代わり、純子は夏期のドラマ『クインテット』で大いに存在をアピールし、天才子役として名を馳せていた。舞子といえば、連日の特訓で夜は早くに眠くなってしまい『クインテット』を観る余裕すらなかった。


 秋になって、舞子の特訓に日本舞踊が加わった。竹沢は日本舞踊の名取であった。この訓練がまた厳しい。

「左手の位置が五センチ違う」

「足の踏み出しが弱い」

 竹沢の容赦ない罵声が飛ぶ。慣れてきたランニングなどの方がまだ楽だ。しかし、ヨガや竹刀の素振りで体幹を鍛え上げた舞子は次第に踊りが上手になっていく。様々な所作が様になってくる。その成長に竹沢は目を細めた。


「さあ、たくさん食え」

 場末の中華飯店で、竹沢と舞子が食事をしている。テーブルには子供がとても食べきれないほどの料理が置いてある。

「舞子、どうして子役でスターだった者が、大人になって名俳優になれないかわかるか?」

「わかりません」

「おいおい、すぐに降参するなよ。答えはなあタッパ、身長が伸びないからだよ」

「なんでですか?」

「忙しくて、飯を食う時間がないからさ。その点、舞子には時間がある。さあ、どんどん食え。それから、牛乳も飲むんだぞ」

「はい」

「よしよし」

 実際、舞子の身長はぐんぐん伸びた。小学校の朝礼ではクラスの一番後ろに並ぶようになった。

 二山が舞子に買ってあげた薄いピンクのワンピースは小さくなって、もう着ることができなくなっていた。


 そんなある日のことである。

「舞子、芝居の稽古をしよう」

 竹沢が言った。稽古場に通って一年。ついにこの時がきたのだ。

「ここに、芝居の台本がある。『夢物語』という芝居だ。俺が昔書いた二人芝居だ。これから二時間で台本を覚えろ。台本を早く覚えるのも役者の仕事だ。頑張れよ」

「はい」

 舞子は必死に台本を覚えた。暗記物が不得意だった舞子も、身体の成長とともに弱点を克服し、学校の勉強も出来るようになっていた。なので、二時間ジャストで台本を覚えてしまった。


 観客のいない二人芝居の幕が上がる。

「ジュピター、ジュピターなぜ、人は夢を見るの?」

「マーガレット、それは僕たちが出会ったからだよ」

 演技をする竹沢は、とても気持ちが良さそうだった。舞子も役にのめり込む。


「太陽がなくなる。僕たちはこれで一生、夢を見ていられるね」

 芝居は終わった。

「合格だ、舞子。よく耐えたな」

 竹沢は舞子を抱きしめた。


 翌日、舞子が稽古場に行くと、いつもはついている明かりが消えていた。

「竹沢先生?」

 舞子が声をかけるが返事はない。

「先生?」

 窓際の、いつも座っている席に竹沢はいた。

「先生!」

 竹沢は亡くなっていた。安らかな死に顔であった。


 竹沢の通夜に赴いた舞子は人目もはばからず、泣き続けた。普段、感情を表に出さない彼女がこんなになるとは。同席した二山や其田は不思議な気持ちになった。

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