宵の淵2

あくる日も、またあくる日もアキラは遊びに来た。ある時は家の犬を連れてきた。

私の住んでいるマンションはペットを飼うことが許されているのだ。ただ、私は別に犬や猫を飼う事に興味はなかった。

「柴犬か?日本犬であることは間違いないようだが」

犬は割と小さくて、しかも人懐こいようで、私の指をぺろぺろと舐めてきた。私は手を犬の目線より下からそっと出して、臭いを嗅がせてからその犬を撫で回した。犬は、クゥン、と鳴いて気持ちよさそうだった。

「フウタ喜んでる!凄いねトシアキさん!」

「まあ、実家では犬飼ってたからなあ。これくらいは」

そう言いながら、私は少し得意気になった。

「そういえば、今日の夜、父ちゃんと母ちゃんから、いつものお礼をしたいからトシアキさんを家に呼んできてくれって頼まれてた!」

アキラはそう言った。やれやれ、昨今はあまり人とは関わりたくもない。悲しいかな、彼女から裏切られて別れ、親友から金を騙し取られ、挙句会社からはなんの通達もなくいきなり解雇をされたのである。

私はもうあまり人とは関わりたくない…貯金もまだあるし、しばらく余生を堪能してから自害しようと思っていたのに。

「そうか……。しかし、誘われているのであれば行くべきであるかもしれんなあ」

私は心とは正反対の言葉を出したのであった。ごく自然に。そういうことはままあることである。

「やった!トシアキさんがうちに来てくれる!嬉しい!」

アキラは飛び跳ねて喜んだ。全く不思議な子だなと思った。もう35も近いので子どももいてもおかしくなかった私は子どもの不思議な魅力に抵抗出来ずにいた。屈託のない笑顔、強制的寛容、押し付けがましい愛情があり、それが嫌なものに感じられなかった。

大人の社会は悲惨なものだ。裏切り罵りあい、蹴落とし、叱責され、噂を流され、それを真実のように飲み込んで考えることの無い悲しい世界。しかし、世界は、今、この今日という日の終わりを告げようという時に、この「悪魔のような天使」を遣わした。全くもって不思議である。


「いつもアキラがお世話になっております。いや、本当に申し訳なく、そして、ひらに、感謝申し上げたい」

50かそこらだろうか。割と高そうな紺色スーツを着た黄色のネクタイをした男性は畳の上で深く礼をした。

「いや、お父さん…頭をあげてください…」

私はかなり困惑した。息子があんなにやんちゃそうだからそれなりの親を想像していたのである。それなりに型破りで、それなりに礼儀があり、んー、そう考えると悪いイメージは確かにあまりアキラからは伝わってこなかったようにも思う。

とにかく私はアキラの父に土下座をやめさせて、幾分暇なものであるので、ちょうどいい退屈しのぎをしてくれています、とだけ報告した。フウタはワンとだけ鳴いた。

「いや、何分、子どもが出来たのが遅かったもので…、少し甘やかしすぎましてな…誠に、申し訳ない」

土下座はやめたもののしきりに謝る父親に私は「そんなそんな」と言った。

なんでも若いうちから結婚はしていたものの、子どもが全く出来なかったそうで、一縷の望みを不妊治療にかけてできた子どもだそうだった。

「そうだったんですね…」

子ども、というものは不思議である。欲しい時には出来ないもので、欲しくない時には出来るものなのである。これは人間のわがままなのかもしれないが。

「ともあれ、せっかく来てくださったんですから、しっかり食べていって下さい」

アキラの母がそういうと、豪華な食卓にカニやらローストビーフやらが並べられていて、アキラの母はご飯をよそって、私にくれた。

私はカニが大好物で、興奮を隠しつつ、「いただきます」と冷静に言ってむしゃぶりついた。

「しっかり食べていってくださいね」

アキラの父も私の食いつきに嬉しそうであった。それから、アキラを混じえて軽く談笑し、その後に、

「ちょっとよろしいですか」

と、アキラの父にベランダに呼び出された。アキラの父は半纏をかしてくれ、タバコ吸いますか?と聞いてきた。

「頂きます」

夜の帳はすっかり降りて、星が綺麗に映っていた。

「今は仕事なさっていらっしゃらないとか」

「ええ、会社に突然解雇されまして」

貰ったタバコというのはなんだか身に染みるなと思いながら、またひと吸いする。煙が暗闇に吸い込まれていく。それをひたすら視線で追った。

「事情をお伺いしてもよろしいですかな……」

「身に覚えのない、会社の金の使い込みをでっち上げられました……。その後、追い打ちをかけるように付き合っていた彼女に振られまして……。もう歳も歳ですし、やりたいこともない。いっそ生きている意味さえと思っていました……」

「そうでしたか……。良ければなんですが、私の会社に来ませんか。私が人事部長をしているのですが、家電メーカーでして、そこそこの業績があります。ちなみに前職は何をされていらっしゃったんですか」

私は突然の誘いにびっくりしてしまって、つぶやくような声になった。それは、晴天の中に降った土砂降り雨であった。

「化粧品メーカーの営業でした」

「今度も営業職というのはどうですか」

私は困惑した。営業職は好きであった。しかし、畑違いの仕事になる。それも随分畑が大きいような気がする…。

「1度、面接にいらしてみませんか?住所は……。来社していただいてから、私に取り次いで貰えればいいです。履歴書も一緒に持ってきていただきたいですね。判子もよろしくお願いします」

私は何が何だかよく分からなかった。ここ数日の変化は、一連の流れのように感じた。私は何も悪いことはやらなかった。誠実に生きてきたつもりだった。

報いがあるなら今かもしれない。そう思った。これはチャンスなのかと。

「すみませんね、一方的に話してしまって。これが私の名刺です。アキラのような子のことを面倒見てくださる、トシアキさんのような方は実に信用できる方だと思ったので声をかけさせていただいたまでですよ。気軽に来てください」


宵の淵の縁というものは不思議怪奇なものである。しかし、それが善悪両面を持っていることを忘れてはいけないのである。

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