宵の淵1

宵の淵に目が覚めた。頭が重たい。

夕暮れはすでに紫色に空を染めていた。

「ああ、もうこんな時間か」と身体を起こしながら漏らした。冬の寒い時期でヒーターの電源を入れる。ヒーターは呻くように作動して、暖かい風を送り始める。その送風口に手をかざして、暖まった風に身を委ねた。

「こう、毎日毎日同じように起きて寝て起きて寝て、よく飽きもせず、まあ」

そんなふうに思うと自分の人生はいかにつまらないものかと思わないでもない。

とりあえず、ヒーターから身をはがし、台所に立って、コップにコーラを入れる。シュワシュワと音がして、コーラが注がれていく。泡立つコーラを見ながら、「シュワシュワ」と口に出してみる。シュワシュワ。


 コーラを飲みながらテレビをつけた。バラエティ番組が何やらかんやらが騒がしく聞こえる。チャンネルを回しながらソファに座り、手に持っていたコーラをすする。適当なところでチャンネルを固定する。なんだかんだ言ってもニュース番組ほど聞き流しやすいものはなかった。また今日も殺人事件があって、日本も治安が悪くなったな、と思う。政治家の不祥事だのなんだのというのも流れていた。

 そうしているうちに、ピンポン、と音がする。

 誰だろうか、こんな宵の淵に尋ねてくるのはと訝しげに思った。はい、といってインターホンの受話器を取る。しかし、応答はなかった。おかしいなと思いながら玄関に向かう。そして、玄関に張り付くのぞき穴からのぞいてみると、1人の少年がポツンと突っ立っていた。知らない子どもであった。

 こんな物騒な世の中に、知らない子どもが何の用かと思う。もしかして、子どもを共犯にした新手の強盗かな、などとも思った。しかし、まあ、そんなこともなかろうと思い、念のためゆっくり、小さくドアを開けて、はい、と声だけで反応した。

 返事がない。

 おかしいなと思い、小さく開けていたドアをゆっくりと広げていって、顔をのぞかせ、ドアの前をそっと見ると7歳くらいの男の子が立っていた。冬ということもあって、手には毛糸の黒い手袋をして、少し大きめのガウンを着ていた。髪は短髪でしっかりした作りのめがねを掛けていて、真ん丸な頭でジーンズをはいている。そして、青色のリュックをからっていた。そんな男の子が不思議そうにこちらを見ている。じっとその子を見ていると、急にその子が口を開いた。

 「おじちゃん、ここに泊めてください」

 私には意味が分からなかった。とりあえず、面倒なことになりそうだし、断るしかないので、「帰ってくれ」とだけ言った。ドアをがちゃんと閉めた。


 今日も特別何もない日だったはずだったが、急に変なことが起こる。こんなこともあるもんだと思いながら、リビングのソファに座ってテーブルの上にあった飲みかけのコーラをすすると、またピンポンと音がする。

 しかし、気にしないことにしてテレビのボリュームを上げた。

 ピンポン、ピンポンと音が鳴り続ける。さすがにうるさい。そうして私はだんだんとイライラし始めて文句を言って、脅してやることに決めた。

 肩を少々いからせながら、玄関まで歩いていって、ドアを開けた。

 少年に向かって、「うるさい、あまりしつこいと警察呼ぶぞ」と言った。

 少年は身じろぎもせずに、「おじちゃん、寒い」と手をすり合わせながら震えていた。それがかえって私の怒りを募らせた。

 「いいか、坊主よく聞け。何度も何度もピンポン鳴らすんじゃない。迷惑だ。親に、人さまに迷惑掛けちゃいけないことは習わなかったのか。大体、家はどこなんだ。」

 そう言うと、子どもは「家は隣だよ」と、右手をあげて言った。

 

 私の家は、少し古びてしまった賃貸マンションの4階の端から二つ目にあった。近所づきあいも希薄なこのご時世であるし、私もそんな煩わしいことはしていなかった。なので、右隣りも左隣りも一体、どんな家族が住んでいるのか知ったことではない。

 「そんなら家に帰れ」

 そう言って、ドアを閉めようとすると、

 「ドアがあかないんだ」と大きな声で叫ばれた。

 仕方なく、もう一度ドアを開けて、子どもを見ると、目に涙をためていた。

 私は元来、涙には弱く、「本当か、親はどうしたんだ、全く」と、静まらない怒りの矛先を親に向けることにして何とかおさめた。

 「あのね、友達の家に遊びに行って、帰ってきたら、開かなくなってたんだ」

 そう言って、もじもじし始める。

 「ピンポンおしたらいいじゃないか」

 「出ないんだよう」

 「仕方ないな。ちょっと待ってろ」と言って、サンダルを履く。

 玄関を出ると、夜が帳をおろしていた。

 私は、その子が言う家の前に立って、ピンポンを押してみた。

 無反応だったので、ドンドン、と玄関を叩いて、誰かいませんか、と声をかける。しかし、これも反応がなく、そうするうちに「おしっこがしたい」と言い始めたので、誘拐だのなんだのに疑われたりはするまいなあと思いながら、仕方なくこの迷惑な客人を家にあげることにした。



 こどもを仕方なく家に入れ、トイレに行かせている間に、どうしてこうなったのだろうかと考える。今日はとにかく厄介な日だ。早いところあの子を家に帰さないといけない。そうだ、と思った。親に電話をかければいいのだ。何故そんなことをもっと早く思いつかなかったのだろうか。そう思っていると、子どもはトイレから出てきてリビングに踏み込んできた。

 「おじちゃん、ありがとうございます」

 子どもはそう言って、礼をした。

 「へえ、一応お礼は出来るのだな」

 「父ちゃんと母ちゃんが、なんかしてもらったら、ありがとうございますってい言うんだよ、って言ってた」

 「ピンポンはやけにしつこくならすのにな」

 私は、迷惑であったが、客人には一応礼を尽す方なので、ソファに掛けるように言って、コーラは飲めるか聞いた。子どもはそれを聞くと冷蔵庫の近くにいる私の方を見て、目を輝かせて大好きだと言った。

 「そうか、そんならとびきりうまいコーラを出してやろう」

 そうして、コーラをコップ二つ分用意して、ソファに座った。

 「さて、坊主、お前の親に今から電話したいんだが、親の電話番号は知っているか」

 「うん知ってるよ。ところで、おじちゃんは名前なんて言うの」

 「名前、そんなもん知ってなんになるんだ」

 「名前は大事だよ。父ちゃんが名前って大事なもんなんだぞっていつも言ってる。ナハタイヲアラワス?って」

 「へえ、子どもなのに難しい言葉を知ってるじゃないか。そしたらこれも覚えておくんだ。人の名を聞く前にまずは自分の名前を言うのが礼儀だぞ。坊主の名前はなんて言うんだ」

 「アキラっていうんだ」

 「そうなのか、俺の親父と同じだな。俺はトシアキというんだ」

 「トシアキさんだね、よろしくね」

 そういってアキラは手を伸ばしてきた。あまりよろしくしたくもなかったが、私も仕方なく手を伸ばした。『礼には礼を』というのは私がこの世で最も大切にしたい言葉だからだ。


「さて、アキラ、そろそろ君の親に連絡しないといけないな。親の番号を教えてくれ」

そう言って、私はスマホを取り出した。古い型だが長年使っているもので、とても愛着がある。頑丈だし、何度となく落としたリしてきたが、画面も全く割れていないものだ。持ち物はシンプルで壊れにくいものが良いのだ。


私はアキラに教えて貰った電話番号にかけてみた。何度か呼び出し音が鳴って、電話が繋がる。

はい、と言って出たのは女性だった。

「息子さんを預かってるんですが・・・」と私は事情を説明すると、しまった、というような呻きと本当にすみませんという謝罪が聞こえた。

「すぐに迎えに行きます。本当にすみません」

たびたび謝られるので、やれやれ、と思った。これで奇妙な1日から開放されるのだ。

やっと。


そう思って、電話を切った。

「すぐ迎えに来るらしい」とアキラに伝える。

アキラは、「すぐじゃなくてもいいのに。ねえ、トシアキさん、遊ぼう」と持っていたリュックから人形を取り出した。

親が来るまで、まあ、時間もあるし、仕方ないかと思い、彼の人形遊びに付き合うことにした。

彼が持っていた人形は、新しいものから古いものまであった。

それこそ、新しいものは全く初めて見せられたのであるが、古いものの中には私も知っているものがある。

「これは俺も知っているぞ。変身ベルトで変身するヒーローだろ。」

「うーん、僕は知らないよ。父ちゃんから貰ったんだ。強いんだってさ」

「なんだ、知らないのか。すっごく強いんだぞ」

「へえ、どのくらい強いの」

「変身したら宇宙一強いんだ」

「すごいすごい!宇宙一なんだ!」

アキラは目を輝かせて真っ直ぐにこちらを見てはしゃいだ。ただ、純粋な瞳だった。自分もこんな目をしていた頃があったなとふと思った。


小一時間くらいだろうか、アキラとそんな風に話したりしながら遊んでいると、ピンポンという音がなって、あきらの母親が迎えに来た。思ったよりも年上で、中年に差し掛かったくらいの、少し小太りの、柔和な顔をしたショートヘアの女性だった。全身に黒を身にまとって、目を合わせた途端に

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

と、深々とお辞儀をされた。アキラは母ちゃんと踊りながら寄ってきて、母親に抱きとめられるようにした。

「本当にありがとうございます。つまらないものですけどよかったら、召し上がってください」

そう言って、菓子折を渡された。

「トシアキさん、またね」

そう言って母親共々帰っていった。


やれやれ、今日は奇妙な1日だった。



あくる日もまた同じような時間に起きた。夕暮れは早くも影の中に吸い込まれそうになっていて、締め切ったカーテンの隙間からもう薄汚いオレンジ色に染まった雲が見えた。

 「まったく毎日毎日同じことだな」

 そう漏らしてからヒーターの電源を入れる。少しして温まってきたヒーターの送風口の所にうずくまっていると、体も少し温まってきて、だんだんとのどが渇いたことがわかってきたので台所に行っていつもと同じようにコーラをコップに注いだ。シュワシュワと音がするコーラにつられて、私もシュワシュワと言ってみる。それから、コップを持ってソファに座り、テレビをつけた。

 私は毎日こういうことをしながら生きているのだ。こういうことをしていると、生きているということがなんだかよく分からなくなってしまう。生きているということは、果たしてどういうことなのだろうか。

 そうこう思っていると、ピンポンと音がした。インターホンが鳴っている。今日もだ。私は誰だろうか、こんな宵の淵にと思った。

 ゆっくり動きだして立ち、玄関に向かう。そしてゆっくりドアを開けると、今日もアキラが立っていた。灰色のトレーナー、ジーンズ、青いジャンパー、赤いマフラーと手袋、メガネ、そして今日は満面の笑みだった。

 何しに来たんだ、と私はぶっきらぼうに言った。私は来客を望んでいない。ましてや、昨日会ったばかりの、しかも迷惑な客に用はないし、嬉しくもない。面倒なことは極力避けたいのだ。

 「遊びに来たんだ。トシアキさんは暇そうだったから」

 アキラはそう言うと、するりと私のわきを抜けておじゃましますと言った。

 私は、それを止めることもできず、また、暇だったのは事実なので、この客を仕方なく受け入れることにした。まあ、彼はコーラが好きだから許すのだ。


 それから少しの間アキラと人形で遊んでいると、アキラは急に不思議そうに尋ねてきた。

 「トシアキさんは何して働いているの」

 私は一瞬強張って、それから、何もしていないんだと答えた。

 「働かないの」

 不思議な表情で私を見つめる。

 私は、どうしようか迷ったが、正直に言うことにした。

 「いや、今はお休みをしているだけなんだよ。少し前までは普通に働いていたんだけどね」

 「ふうん、そっか」

 アキラはそう言って、手に持っていた人形をじっと見つめていた。 

 「働いていないのって不思議か」

 私がそう尋ねると、その純粋で残酷な瞳をこちらに向けて、うん、と言った。

 「父ちゃんも母ちゃんも、いつも働いているから」

 「でも、悪いことをしているわけじゃないよ。大人もいろいろあるのさ」

 そういうと、アキラは何かを考えるようなそぶりをして、色々って何、と尋ねる。私は子どもによくある質問攻めかと少々うんざりした気持ちになったが、中途半端に返答しては負けたような気持になってしまうと思ったので根気強く付き合おうと決めた。

 「そうだなあ、俺の場合は働いてたところからある日突然辞めさせられたんだよ。一生懸命に働いてたんだけどね。それで、次に働く場所を見つけるのがすこしいやになったんだ。それで今は働いていない。分かってくれるか」

 アキラは、ずっと話を聞いて、うん、分かったと言った。

 「じゃあ、トシアキさんはしばらくは暇なんだね。僕、また遊びに来ても良い」

 満面の笑みになって、アキラが尋ねてくる。

 やれやれ、結局そうなってしまうのか。私は少々辟易したが、うん、まあいいよ、と応えたのだった。結局その日は、時間も遅くなってきたのでアキラを帰して、夕食を簡単に取った。

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