育むもの

「そんなに嫌なのか、喋りたくないくらい」

書斎のそれなりに大きな机の上で教科書やらノートやら、筆箱やらを広げている。

少年がこくりとうなずいた。

「そうか……」

少年の向かい側に座る、大柄、短髪角刈り、和服姿の四角い顔、白髪混じりの男は低い背の机に肘をつき、二つの腕の指を絡ませ、目を閉じた。

「まあ仕方ない。嫌というものを無理矢理喋らす気持ちもない。今日は黙って話を聞いておけ。質問はいつでもいいぞ」

そういうと男は話し始めた。

今日の話はナポレオンについてだった。大家族の中に生まれたナポレオンが1人故郷コルシカ島をたって孤独の修行の旅に出る。そして、いつしか全ヨーロッパを掌中にしかけた、男のロマンが詰まっていた。

少年は胸を熱くする。

「ナポレオンは学生時代いじめられていたんだ。それでな、ナポレオンはひたすら耐えた。耐えつつも自分の知識見識を磨き続けたんだ。人生にはそういう時も必要かもしれんな」

少年は食い入るように大男を見ていた。


岩山 厳鉄(いわやま がんてつ)という男だった。もうかれこれ80に近い歳になるというのに、体はがっしりしていて、それでいて眼差しは深い黒をたたえていた。一見すると無口に見えるが、これが勘違いで話し出すと長いのだ。以前は炭鉱で働いていたそうで、確かに言われてみればと思うものである。しかし、一介の炭鉱夫にしてはいささか品がありすぎるようだった。

少年は杉 健(すぎ たける)と言った。この少年なぜここにいるのかというと、毎日、家庭教師を厳鉄に頼んでいるということらしい。正確には厳鉄の家に少年が来ているのであるから、家庭教師ではないのだが。

厳鉄が健に出会ったのは近所のコンビニだった。厳鉄が夜の散歩をしていた時、コンビニの光に群がる虫たちのように、健もまたそこにいたのだった。夜も九時を過ぎていて、厳鉄は心配したらしく、声をかけた。

「そこで何をやっているのだね」

健は無愛想な顔をしていた。

「うるせんだよ。おっさん」

おっさんとはまた大層な口の利き方である。

「坊、小さいな、歳はいくつだ」

「なんでお前に教えなきゃいけないんだ」

と言ったふうに、健と話すのは厳鉄もくたびれたはずだったが厳鉄はそれでも丁寧に話し続けた。

それから厳鉄は毎日コンビニで健と会うようになり、健の身上を次第に知っていった。

健は父がおらず母が働きどおしの子だった。

小さいが中学生だということもわかった。

厳鉄にも父がいなかった。厳鉄は時代が時代で中学生の頃には働いていた。学校には行けなかった。

「坊、そんなに暇なら俺ん所に遊びに来い。若い奴がやることも無いというのなら俺の相手をしろ」

そんなこんなで、厳鉄は母親の許可も取り、健の面倒を見るようになった。


ところで今日は様子がおかしかった。いつも割と元気で色々とその日にあったことを話す健が今日は何も話したくないというのである。

厳鉄はこういうのは苦手だった。今の時代カウンセリングなどのようなものもあるけれど、厳鉄にはそんなことは出来ない。そこで何も話さなくていい、と言ったわけである。

勿論、厳鉄は心配していたし、健の目の縁によく見ると痣が出来ていたのも至極気になった。

けれど、口約束で交した時間には来ていたし、まあそれは聞かないのが男であるかと思ったのである。

それから、厳鉄が喋り終えた頃に老婦人が部屋にやってきて、ご飯が出来ましたよと語った。

「腹が減っては戦は出来んな」

厳鉄は不器用に健を誘った。健は黙ってついてきた。


冬の寒い日だった。ご飯は鍋だった。鶏ガラの出汁に醤油で煮つけてあって、健はこれが好きだった。

いつもは割と明るい食事の時間だったが、健は少し冷えていた。だから、ご飯が胸に染みたのか、ポロポロと涙を流していた。

「痛むのか」

厳鉄は表情を少し曲げて健に聞いた。

「…悔しいんだ」

健はその日久しぶりに口を開いた。それからポツポツと聞けば、父親がいないこと、母親も働き詰めなことを馬鹿にされたと語った。そいつに殴りかかったが、体格が小さい健はむしろ殴り返されてしまったということだった。

厳鉄は汁を啜って、頷いた。

「ナポレオンも小さかったんだそういえば…」

徐に話し始めた。

コルシカ訛りの抜けなかったナポレオンは勉学の道についた時馬鹿にされた。しかし、彼はまた孤独に耐えた。帰省した時やつれた体を心配した母が大丈夫かと声をかけたが、ナポレオンは頑として大丈夫と言っていた。顔は青白かったがそこには覇気があったという。

「辛かったろう。鍋をたらふく食べて忘れなさい。悪いこともあればいいこともある世の中だ。だが、心だけは腐らせてはいけないよ」

厳鉄はゆっくり話しかけた。健の顔が引き締まって赤みを帯びた。



そうやって厳鉄は健の面倒を1から10まで見続けた。決して叱りはしなかった。諭すように話す時はゆっくりと話しかけた。

健はそれから背が伸びて、学校での成績も上がっていった。

気がつけば健は厳鉄に追いつく程の身長になっていた。一方で厳鉄は年々小さくなっていったのが健にはひしひしと感じられた。


健が中学を卒業する時に、厳鉄は1本の万年筆を買い与えた。そこには達筆な字で「忍耐強き、心優しき男になれ」と書かれていた。


厳鉄は翌年亡くなった。健は万年筆で手紙を書いて、厳鉄の棺に入れた。

桜が満開だった。

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