うさぎとカメ

先日頂いた、隣山までの競走の件、お受け致しますーーー。

それだけ書いた、紙を封筒に入れて、電話で郵便ヤギを呼んだ。

「絶対、食べちゃダメですからね。この前は竜宮城に遊びに行ってる浦島さんのところへ、せっかく書いたのに」

と、少し怒りながら小言を言うと、郵便ヤギはあごひげをさすりつつ、めぇ、とすまなそうに呟いた。


山の上から里へと続く小道を、郵便ヤギを見送ってから、ふぅ、と一息ついた。

ヤギも見えなくなって、何を見るともなく、道の先を見通すと、明るく青白いそらに雲がポツンポツンと浮かんでいるのが見えて、今日もいい天気なのだなと思った。

しかし、自らの心はそれとは正反対の暗さを秘めていて、亀太郎は、下を向くと、ため息をひとつはいて、ゆっくりと閉まるドアとともに、家の中に入っていった。


日も暮れて、月が姿を天高くする。

晩餐の時、亀太郎は同じくテーブルにつく父に、本当にするのか、と聞かれ、する、とだけ短く答えた。

父母は心配そうにこちらを見ているのだが、その視線に気づかない振りをして、黙々とご飯を口にしていく。父もその様子に、そうか、と厳しい顔で俯くだけだった。


事の発端は父と父の仕事仲間のうさ芳という、うさぎとのほんの些細な会話からだったろう。「うちの自慢の息子はこの国で一番足が速くなる」という、うさ芳の息子の自慢話を、最初は父もそうか、と聞いていたのだが、おもむろに亀吉、つまり亀太郎の父に対し、あんたの息子はだめだと言ってきたのだった。

 酒も入っていたのだが、亀吉はそれは聞捨てならないと怒り、喧嘩となり、それならば一度競争させて白黒つけようということになった。亀吉の鼻息はとても荒かった。

 しかし、次の日、亀吉は冷静になったが、「カメがウサギに走ることでは敵わんかろう」と気づいた時にはもう亀太郎に話したあとで、遅かったのである。


 電灯の明かりがほのかにリビングを照らす。亀太郎は黙々と飯を頬張っている。亀吉は、その様子に「いや、亀太郎。無理に勝負を受けなくてもよい。父が詫びよう。お前にもすまなかった」と、すまなそうに言うのだが、亀太郎は父を睨むようにこう言った。

「父さんは、僕が絶対に負けるとお思いですか?勝負はまだ始まっていません。戦う前から負けを認めてしまうのは、僕は許せません」と、震えながら言った。

 亀吉も、母も、それからは何も言わず。沈黙の晩餐は、亀太郎のごちそうさまと言った声と、椅子を引く音とともに終わりを告げた。


 亀太郎が部屋で窓の外を見上げると、もうすぐ満月になろうとしている上弦の月が見えた。亀太郎は父との会話を思い出しながら、小さく憤慨しつつもため息を漏らした。家族には本音は漏らすまいと思っていたが、この競走、自信はなかったのだ。うさ芳の息子のうさ吉との競争に勝てる自信などないのだ。しかし、亀太郎には鶴子さんという好意を寄せている相手がいて、その子がうさ吉の足自慢に聞き惚れているのを見ると、どうもこいつには負けたくないと思ったのだった。

 亀太郎は部屋で一人、月を見上げて合掌した。お月さま、勝たせてくださいとそう祈ったのだった。



 秋の風は実る喜びと寂しさとを引き連れて、昨日も今日も吹き去って行った。その中を亀太郎は幾日か、ただ勝つことを祈るように過ごした。父はもう何も言わず、母も何も言わなかった。ただ、負けたくないとの一心で考えて、少しでも早く走れるようにと亀太郎は毎朝、毎晩、里から山の上へと走った。黙々と走った。

 走るということは大変なことだ。カメには甲羅もある。このハンデは大きい。しかし、ただ走るしかなかったのである。お日様が朝の闇の中から闇を薄く延ばすように悠然と現れては、濃い赤みを帯びて去っていく。月が光の中に黄色みを含みながら昇ってくる。

 亀太郎は、走っては立ち止まるたび、そのお日様を、お月さまを見上げて合掌した。

 どうかどうか勝たせてください、と。


 学校の子ども達はみんな勝負の話を聞いて笑っていた。鈍足の亀太郎が早さ自慢のうさ吉に無謀な勝負を挑んだ。あいつは大バカ者だと言って笑っていた。

 ある日の昼過ぎに熊雄君という、ガキ大将が、「亀太郎お前は馬鹿だな、勝てるわけがないだろうこの鈍足め」と言ってきた。

亀太郎は無言でその場を去った。熊雄はふんぞり返って、意気地無しめと放ったのだった。


さて、勝負の日がやってきた。亀太郎はお日様に、お月様に祈る中で速さではどうしてもうさ吉には勝てないことは悟っていた。しかし、亀太郎はこう心に期していた。

自分の心にだけは負けはしないぞ。

勝負が始まった。山の上から里までの競走。距離にして10キロだった。

うさ吉は猛然と走っていった。

亀太郎はやはりこうなるかと落胆したが、それでも自分の一歩を大切にしようと思った。勝負を捨てたと思われても仕方ない言葉だが亀太郎は違った。負けまい。その思いが強くあったのだ。

さて、うさ吉は半ばまで走ってきたところで、振り向いて亀太郎がもう見えないと悟ると、そばの木の下に寝そべって、「こんな勝負くだらないや」と言いながら呑気に鼻歌を歌っていた。

歌っているうちになんだか眠くなってしまってとうとういびきをかいて寝てしまったのである。

亀太郎はようやくうさ吉の所まで来るとあんぐりと口を開けてびっくりしてしまった。

仕方なく起こそうとするけれどもなかなか起きない。

「そうか、勝負だったな」

そうこぼして亀太郎は里へと走っていった。

結局うさ吉は日が暮れる頃に起きた。驚愕した。

急いで里へと飛んで帰ると、そこにはみんなの歓声に包まれた亀太郎が居たのであった。

亀太郎はこう言っていた。

「速さ比べじゃなかなかかなわないけれども、長い道のりにおいて大事なのは自分に負けないことだと感じました」


という話である。

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