音
重く響く低音には心の芯から体を震わされる。ピアノの鍵盤の中心を左腕の重みで叩いていく。そこにメロディーラインを意識した音を重ねていく。
男の子が弾くピアノには、甘く寂しい響きがあった。その音のまとまり、連なりに聴衆は身をゆだねていく。
「綺麗だ」
「でも悲しいね、どこか」
淡く切ない、だが、熱情を秘めたショパンの歌は、この男の子によってふたたび、この地上に現れる。
強弱、緩急の整った、しかし、整っていない、旋律は、ぐっと聴衆の心の臓を整えて一つに、一つの音にしていく。
演奏が終わると、ゆっくりと腕をピアノから降ろし、男の子は一息ついた。
そこからゆっくりと立ち上がる。
筋肉の微かな収縮を感じる。
息は荒く、それを体の外に出さないで整えようとする。静かに礼をする。ほっておくと、倒れ込んでしまいそうな疲労困憊のその痩せた体を意識で縛る。ガチガチにする。
ロボットみたいにならないように、静かに、体の、筋肉の流れを意識しながら、そっと舞台袖へと歩き出す。聴衆は拍手喝采であった。音の波に飲み込まれないように、音を意識から切り離した。
帰り道、コツコツと自分の足音を聞いて帰る。表通りは音の集まりだ。車の走る音が、地中深くからの地鳴りに聞こえる。人の歩く音が混ざり合う。喋り合うその声がメロディーのようにして乗っかる。その全体を意識した時、今日は賑やかだなと思う。とても、温かくて、華やかな気分になる。
しばらくしたら交差点につく。そこから、住宅街に入っていくと、車の通りがほとんど無くなった。コツコツコツ、メトロノームが乾いて響く。子どもたちの、公園で笑いあって駆け回る音、鳥の微かな囀りや、羽ばたき、近所のご婦人方の会話。音の波を意識する。平和を感じる。
家に着くと、誰もいない。玄関が閉まる音、静寂。
静寂を切り裂いて、音を出す。
「ただいま」
音は響いて空に散る。心は少し晴れた。
リビングでテレビをつける。微かな雑音とともに、賑やかな楽曲が流れる。タレントの声、聴衆の声、挿入曲それをバックにソファーで寝転ぶ。一息ついた。
耳を塞ぐと、研ぎ澄まされる。目は瞑る。耳は瞑れなかった。
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