喰え
「――っ!」
足がもつれその勢いのまま前に倒れた。すぐに立ち上がろうとしたけど、足は震えるだけで言うことを聞いてはくれなかった。鉄の塊のように重く、それを動かし走らせるだけの力が今のわたしにはない。
どれくらいの距離を走ったのかわからない。気づけば周りは暗くなっていて、そんなことすらわからなかったほど必死に走っていたんだと気づく。
「……はぁ、はぁ……」
渇いた喉が水を欲しがり唾を飲み込んだ。吐く息も飲み込んだ唾さえも痛い。心臓が破裂してしまいそうなほどに暴れている。
少しすると顔や体が痛みだし、触ってみると腫れていたり血が出ていた。整えられた綺麗な道じゃなく、人が通らないような獣道を走ってきた。そのせいで走っている時に枝や葉で切ったんだろう。
方向はあっているはずだ。最初に逃げる村について何度もアイゼと話したし、地図も頭にいれた。ただ、必死で走ってきたせいかどれくらいの距離を走ったのかがわからなくて、今自分がどのあたりにいるのかはわからない。
街道に出ればいいのかも知れないけど、そうすると見つかる危険性もあがる。村に近付くまでは極力見つかりにくい森の中を行くとアイゼと決めていた。
「はぁ、はぁ、止まってる、場合じゃない」
いつ追ってが来るかわからないのに、立ち止まって休憩している余裕はない。身をていして逃してくれたアイゼの為に捕まるわけには行かない。アイゼから託されたものもある。休んでる暇があるなら進むんだ。それなのに。
「……なんで、動いて、動いてよ!」
わたしの体なのに、わたしの手足は思い通りに動いてくれない。
「お願い、だから、動いて……」
何度も動かそうとするけど、僅かに這うことが出来ただけで、それすらもすぐに力尽きて出来なくなった。その距離は決して進んだとは言えない程短い。
力が入らない手足とは反対に心臓の音は静かになる気配がない。
動かない足を見る。その先には暗闇が広がっている。それに気づいてしまったことで更に心臓の音は激しさを増した。
「……いや、いやだっ」
闇から声が聞こえる。マリアンナのわたしを恨む声が聞こえる。アイゼとシュトレーネのわたしを責める声が聞こえる。混ざるのは足音だ。わたしを探す帝国兵の足音がそれに混ざって聞こえる。
「違う、そんな、わけない。聞こえるはずが、ないっ」
『なぜ、なぜ、城に、屋敷に置いていったのか。なぜお前一人だけ生きてるのか、逃げるのか。なぜ一緒に戦わなかったのか。なぜ私を殺したのか。なぜ、なぜ――』
前後左右、暗闇から聞こえてくる声は怨嗟に満ち溢れ、足音は今にも帝国兵が飛び出してきそうな程に大きさを増す。
前には進まなかった体は恐怖で縮むことはできたらしく、わたしは耳をふさぎ体を丸めていた。
目を強く閉じる。震える歯を唇を噛む事で抑えこむ。アイゼが言っていた。朝は必ずやってくる。当たり前のことだけど、この暗闇は朝になれば必ずなくなる。それまで、耐えるしかない。
耐える、しか、ない……?
むり……無理だ、そんなの無理だ! 毎日朝が必ずやってくるのと同じように毎日夜はやってくる。無理だよ。わたし一人で耐えられるわけがない。
なんでアイゼがいないの。なんで、シュトレーネはどこにいったの。三人で逃げる筈だった。二人が隣にいてくれる筈だった。わたし一人じゃ、何もできないよ……。
何かが燃える音が聞こえる。悪夢の中のような激しく燃え上がる音ではなく、静かな音だ。
「……ここは、どこ」
知らない部屋だった。隅の方で料理を作っている人がいる。外じゃない、そして誰かいる。まさか捕まったのか。
飛び起きてしまった。出そうになった悲鳴は何とか抑えたけれど、立てた音で料理をしていた人に気づかれた。
「おや、目を覚ましたのかい」
振り返ったのはお婆さんだった。笑みを浮かべて近づいてくる。人の良さそうな笑顔にわたしは戸惑う。あの男の関係者がわたしに対してこんな笑顔を見せるはずがない。
「町外れの森で倒れていたのを爺さんが見つけての。まぁ話は体が回復してからでもええ、とりあえずこれを食べて体を休められぇ」
手渡してきたスープには具は入ってなく、味も薄かった。けれど温かくて人の優しさを感じられるものだった。普段なら美味しいはずがない。でも今はそれが涙が溢れるほど美味しかった。
「ぅぅ、あ、りがとう……、ありがとう……おいしいです、凄く、とても……」
お婆さんの優しさが体を内側から温めてくれる。一人じゃないという安心感を与えてくれる。
「……大変じゃったのう。儂が隣にいてやるけぇ、ゆっくり寝られぇ」
誰かがそばに居てくれる。それだけの安心感にわたしは満たされてゆっくりと瞼を閉じた。
目覚めた時、隣にお婆さんはいなかった。代わりに薄い毛布がかけられていた。何気ないその優しさが嬉しい。
そっと毛布を起き、お婆さんを探そうと起き上がる。
「それで、あの娘はちゃんと寝てるんじゃろうな」
「ああ、余程疲れてたんじゃろう。一杯だけですぐに眠りについたわい」
「そうかい。いつも通り昼頃に商人が買い取りにくるからな、それまでは気付かれんようにせんとなぁ」
聞こえてきた声に足が止まる。胸に手を置き早まる心臓を抑えようとする。
今なんて言った。商人、買い取り、気付かれないように……?
「ぁ、ぁぁ……」
違う、きっと気のせいだ。だって、お婆さんはあんなに優しかった。さっきの話はわたしのことじゃないはずだ。
そう信じようと思う気持ちはあっさりと裏切られる。
「顔がええ嬢ちゃんじゃけん、この間のより高く売れるじゃろうなぁ」
ぁ、ぁあああぁあああぁああッ! なんで、なんでなんでなんでッ!
叫びたい衝動を抑える。代わりに窓から抜け出し一心不乱に走った。辺りはまだ薄暗く、朝が来るにはもう少しかかりそうだった。
マリアンナ達の声が追ってくる。走っても走ってもついてくる。頭ではお婆さんにかけてもらった優しい言葉も繰り返される。
「ぅ、るさい……、うるさい、うるさいッ!」
優しい人だと、暖かい人だと思った。助けてくれると思った。なのにッ!
「うぐっ……」
疲れはとれてなかったみたいで重かった足がもつれ転んだ。新しい傷から血が滲み出す。そんな痛みよりも疲れが大してとれていなかったことに安心する。あの年寄りから貰ったものをここに捨ててやる。
「ぅおえっ……、ぐ、おぇっ」
さっきの会話を思い浮かべると気持ち悪くなり、その勢いで口の奥に手を入れて吐き出した。数回繰り返す。多分もうあの偽物のスープはわたしの体内から完全に吐き出した。
……貰ったものは捨てた。進まないと。まだあの家からそんなに離れていない。あの家から離れたい。少しでも早く、少しでも遠くに。走れない。けど、足は動く。動かしてみせる。
「はぁ、はぁ……」
あの時のありがとうも、あの気持ちも踏みにじられた。あの優しさの皮を被った悪意を美味しいと思ってしまった自分が許せない。
疲れと空腹で足はふらついている。何かを食べなくちゃ、近いうちに動けなくなってしまう。
「はぁ、はぁ」
暗くて遠くまで見えない。歩き回って食べれる物を探す体力も無い。
どうするか考える気力も薄れてきた時、引きずっていた足が何かを潰した。虫だ。芋虫だ。成虫の姿は知っている。青く綺麗な羽を広げる蝶になる。
気づけば掴んでいた。頭にスープが過ぎる。
「……はぁ、はぁ」
戸惑いは一瞬だった。あんなものを美味しいと思った味覚なんて要らない。一気に口に入れ噛みちぎる。ぷつりと破裂して中から液体が口の中全体に飛び散った。
「――うぐ、おぇっ……うっ、食べろ、食べろッ!」
強烈な臭みと苦味に飲み込む前に吐き出してしまう。二つに別れた体をもう一度口に運ぶ。
「ッおえ、うっ、ぐっ」
飲み込んでも胃を駆け上がり戻ってくるそれを手で口を塞ぎ何度も何度も飲み込む。
食べろ、食べろ、食べろッ!
涙が溢れ、汗が吹き出し、体は折れている。吐くことと飲み込むことを繰り返すたびにびくりと足の指先まで雷が走ったように痙攣をする。何度も繰り返してようやくわたしの体は吐き出すことを諦めた。
「……まだ」
……足りない。こんなもんじゃ足りない。起き上がり足を動かす。それから手の届く範囲の草や葉っぱをむしり食べていく。時には吐き出しそうになり、足が止まるけど、着実とわたしは味覚を殺しながら前に進んだ。
頭ががんがんと痛み出したり、上からも下からも下したりした。気を失って倒れていたこともあるし、幻覚を見たこともあった。それでも進み続けて、わたしはアイゼの暮らしていた村に辿り着いた。
「アイゼ、ついたよ……、やっと、ついたよ」
何日かかったのかわからない。でもちゃんとついた。やっとたどり着いた。
村の入り口からは話に聞いていたのどかな風景が広がっていた。道は広く緩やかで、家との間が広く、畑を挟んでいるところもある。見たことのない茶色い鶏が道の真ん中を歩いている。その後ろを小さな男の子が続いていた。牛や羊を飼っている家もあるって聞いた。歩いていれば見れるかも知れない。
目的の家まで歩きだす。道行く人がわたしを避けるように通り過ぎていくけど、今のわたしの格好を見ればそれも仕方ないのだと納得する。
小高い丘の上にある赤い屋根の家。それがアイゼの恋人の家だ。直接渡さないで扉の前に置くのだとアイゼは言っていた。会っても迷惑になるだけだから会わないほうがいいと。
でもここにアイゼはいない。少し迷ったけどわたしは扉を叩いた。
「はい……どなたですか」
クリーム色の髪をした女性が扉を開けた。アイゼが言っていたのと同じ色の髪だ。多分この人がアイゼの恋人だ。
「あ、あの、ミーシャさんですか」
「そうですけど……」
「アイゼがこれを貴女にって」
指輪を受け取った彼女は少し驚いた様子だった。けどわたしを見て表情を和らげると、嬉しそうに指輪をしまった。
「アイゼは優しかったでしょう?」
「……はい。アイゼのおかげでわたしはここまで来れました」
それから少しだけミーシャさんとアイゼについて話した。話が終わった後に今日泊まるところがないなら家に泊まってもいいのよという誘いを断り、アイゼが過ごしたこの村を少しだけ見てまわることにした。村を周り、アイゼから聞いていた牛や羊を見た。沢山の鶏が並んで歩いているところも見たし、更に丘を登ったところで色んな花が咲いてる野原も見た。
日が暮れようとしている。丘から村を見下ろすと、緑豊かだった村が夕陽の色に照らされて、影を落とし、人通りが疎らになっていく。
アイゼの見ていた景色だ。
「……ごめんね、アイゼ」
きっとアイゼも見たかったのに、わたしのせいで……。泣きそうになる目を擦る。泣いたってアイゼは帰ってこない。あの時には戻れないんだ。
……そろそろ村を出よう。
「パァっと飲むぞ。なんたって景気がいいからなぁ!」
「なんだ良いことあったのか?」
肩を組みながら男二人が騒いでいる。叫んでる男の足取りが少しだけふらふらしているから既にお酒が入っているんだろう。
少し意外だ。おっとりした村だと思っていたけど、やはり夜は夜で騒がしくなる場所もあるんだ。アイゼも友達と飲んでこうして騒いでいたのだろうか。……いや、ないか。想像ができない。
「ああ、ミーシャが指輪をもってきてなぁ。小さいけどちゃんとした宝石がついてるから、まぁまぁの金で売れるんだなぁこれが」
はっと顔を酔っている男の方に向ける。右手を動かしているけど、何を持っているかは後ろからじゃ見えない。
「なんだ金額を誤魔化したのか?」
「言い方が悪いぜ。最初に言った金額よりは親切設定をしてやったよ。予想と違った途端ミーシャも親切にしてくれたからよぉ」
「はっはっは。なんだ結局お前良いとこどりじゃねえか」
横を通り抜ける。男が手で遊ばせていたのはやっぱりアイゼの指輪だった。
「なんで、それを持っているッ!」
「なんだこいつ!?」
飛びつき指輪を奪う。なんで、これはアイゼがミーシャを想って渡したものだ。それをなんで!
「このガキ、盗む相手ぐらい選ぶんだな!」
「うぐっ! げほっ……かはっ」
男の足がお腹に食い込んだ。一瞬の激痛と衝撃で地面を数回跳ねたあと痛みと息苦しさが襲ってくる。
蹲り咳き込むわたしの背中を男の足が踏みつける。
「おいおい、ガキ相手にやり過ぎだろ。お前も盗むんなら女か年寄り相手にしとけよ。ほらさっさとそれを返せ」
「げほっ、い、いやだ! これは、アイゼのだ!」
「はぁっはぁっ、いいだろ、ぶち殺そうぜ! どうせ、流れてきた汚ねぇガキだ。死んだって誰も困らねぇよ!」
「いいからやめろ! 本当に死ぬぞ! お前も早くそれを渡せ!」
「うぅ、い、や、いや、だ……あぁ」
踏みつけられている背中から嫌な音が体内に響く。絶対に離すもんかと握っていた手の力がとうとう抜けて、指輪が地面に落ちた。拾おうとするが、わたしの体は男の足一本の力で地面に叩きつけられたまま少しも起き上がることができない。
くそっ、くそっ、くそくそくそッ!
「ほら指輪は取った! ガキなんて放って飲みに行こうぜ!」
「ああっ! くそがっ! せっかくいい気分だったのによぉ!」
「ほらいいから行くぞ」
……なんで、わたしがこんな目にあうの。痛い、痛いよ、お父さま、お母さま、痛い、わたしもう動けないよ。お兄さま、ねぇね、助けてよ。なんで、わたしばっかり奪われるの。この世界は、酷いものじゃないって、助け合って生きてるって、言ってたのに……。
「うぅ、もういやだ……、もう、いやだよ」
痛みと悔しさで涙が込み上げてくる。わたし、王女なのに、なんでこんな目に、自分の国の民に、なんで蹴られなきゃいけないの。
「ちっ、せっかく領主様が変わって税収が楽になったってのによ。浮いた金で飲む酒が汚ねぇガキのせいで不味くなっちまうぜ」
「まぁそう言うな。別に今月だけじゃないだろ? 領主様が変わらないうちは飲めるじゃないか」
ぴくりと指先が動いた。耳が男達の声を拾い上げる。
「王国も悪くはなかったけどな。やっぱりこうも金が浮くと帝国万歳って言いたくなるよな」
「まぁ正直生活が苦しくならないなら俺達にとっては上が誰だろうとどうでもいいからな」
――何を言ってるんだこの男達は?
『いいか、クオン。国とは民なくして成り得ない。王がいるから国なのではなく、民がいるから国なのだ。民を見ればその国がどんな国なのかがわかる』
お父さまがよく言っていた。民にとって住みやすくすれば国は自然と豊かになる。民が苦しめば国は終わりに向かう。民にとって誇りだと思える国にしたいと。
違う。違うよ、お父さま。こいつらは何もわかっていない。お父さまがどれだけ国をよくしようと頑張っていたか、お母さまがどれだけ一人一人に心を砕いていたか。お兄さまが民を守るために傷だらけになりながらもどれだけ努力を続けてきたか。
帝国に復讐して欲しいなんて思っていない。ただ悲しんで欲しかっただけだ。少しでも、ほんの少しでもお父さま達が亡くなってしまったことを悲しんで欲しかった。それなのに――ッ!
「ああ、そう言えばクオン様がまだ見つかってないみたいだな。見つけた奴には報酬があるらしいが、十二のガキがここまで逃げて来れるわけがないからな。俺達には関係ない話だ」
「ここまで頑張って逃げてくれれば俺達が捕まえてやるのにな。まぁ、どうせ魔物の餌か盗賊の玩具にでもなってるだろうさ」
「わっはっは。違いねぇ! それよりよ……」
声が遠ざかっていく。動いた指先は砂を掴むので精一杯で、立ち上がることも、その砂を男達に向かって投げることも出来ない。手から力が抜け砂が元の場所に零れていく。
ああ、わたし達は何を勘違いしていたんだろう。
「民、あっての、国……?」
違う、絶対に違う。こいつらに自国の誇りなんてない。そこがどこだろうが、誰だろうが、甘い汁さえ吸えればいいんだ。
国とはお父さまのことだ。わたし達王族のことだ。
「あぁ、そうか……。うじだ……。こいつら、民は、蛆だ。……っははは、あははははははッ!」
ずっと、ずっとずっと! わたし達はこんな蛆の為に頑張ってきたのか! なんてッ、なんて愚かで無駄な時間だったんだろう! くだらない! くだらない、くだらないッ!
いつかの王がこの世界は弱肉強食だと言った。ああ、その王はきっと気づいてしまったのだろう。自身が守っていたものがクソみたいな連中だということに。
虐げた? 違う。彼が行ったのは駆除だ。けれど、失敗してしまった。適切じゃなかった。一国をしても意味がない。中途半端な力じゃ意味がない。
聖霊の力だ。偽りの五大聖霊ではなく、この世界を創った聖霊の力を手に入れる。
アイゼ、貴方に出会えてよかった。貴方から話を聞いていなければわたしはここで終わっていたかも知れない。
創造と破壊の聖霊の力が分かれた理由までは聞いていない。けれど、既にわたしは一つ持っている。お父さまがあの日わたしに託してくれたクローム家の聖玉。託された時に腕輪に姿を変えたこれはその聖霊の力を封じ込めているものだとアイゼは言った。
残りの全てを手に入れて、弱者がいくら集まっても覆しようのない絶対的な強者になってやる。
そして帝国だけじゃない。この腐った連中が蔓延る腐った世の中を、何もかも全てを!
「――ぶっ壊してやる!」
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