解放2
一度空を仰ぐ。太陽はその姿の半分を消し、夜の闇が訪れようとしています。夜になる少し前の暗く赤い夕闇。昼と夜の境界線。そのどちらにもとれて、どちらにもとれない中途半端さは、優しさも醜さも兼ね備えた彼女に似ている気がしました。
夕闇に彼女を重ねたのは少しの間だけでした。それからこちらに近づくゴルドーを見て、その隙だらけのような態度に私との実力差を思い知ります。
勝機はとうに失いました。思えばあの醜い男がやってきてしまった時点で全てが狂ったのでしょう。シュトレーネに打ち明ける時を完全に潰されてしまいましたから。
作戦は失敗です。シュトレーネを見捨て二人でここから出ようとした時点でクオンにとっては失敗なのかも知れませんが、クオンと二人で出ることもゴルドーが相手では叶いません。
ですが、私の……、私の最後の望みだけは通させて貰います。
「クオン、ここは私が引き受けます。貴方は逃げてください」
私の言葉を聞いたクオンの首が小さく横に揺れました。その表情は既に泣きそうなものに変わっています。
ああ、優しいクオン。頭ではもう挽回のしようがないことを理解しているというのにそれを認めたくないようです。恐らく未だに三人で逃げる道を探しているのでしょう。浮かべている表情は既にそれが無理だと諦めているというのに。
「クオン、これをお願いします。どうか彼女に渡してください」
クオンの指に指輪をはめます。恐らく旦那様にも見えていますが、構いません。どうせ逃亡の資金に変えるのだと思われるだけなので。私を高評価している旦那様だからこそこのどこにでもあるような指輪は目くらましになります。
ああ、お金も渡しておかないと駄目ですね。そんなに多くはないですが、節約すれば一週間は持ちこたえれるでしょう。
クオンの貫頭衣の腰の部分に紐を一周させ、そこにお金の入った袋を括り付けます。
他に何か――、いえ、もう渡すものは何も無いですね。
無駄な足掻きだと思っているのか旦那様もゴルドーも私の動きを止めることはしませんでした。いつだって強者はそれが油断であると認識していないのです。愚かな。いつの時代も強者が弱者に敗れる時はそれが原因だというのに。歴史をどれだけ紐解いても、どれだけ経験を積もうともこればかりは治らないのでしょう。
かの魔王と呼ばれた男もまたそうだったのでしょう。いえ、違いますね。魔王は優しくて、残酷だったのです。ああ、結局これもクオンに伝えることが出来なかったですね。
まあいつか全てを知りたいと思ったら会いに行くでしょう。掟の民としての私の役目は嬉しながらここまでです。
「……今は捕まって、次三人で逃げようよ。わたし一人じゃ、いやだよ」
そう言って私の手を握ってきたその手をゆっくりと離します。次など無いことはこの場にいる全員がわかっていることです。
「賢い貴女なら助かるにはこれが最後の機会であると理解している筈です。私のことは気にしないでください。私は自ら奴隷になった男ですから、逃げられなくても構いません。シュトレーネのことは……彼女が自身で選んだ選択です。それこそ気にしないでください」
シュトレーネが何故私達を売ったのか。まあ簡単に想像できますけど……そうですね、何も知らないシュトレーネにとっては恐らくその選択しかなかったのでしょう。ですからこれはシュトレーネに何も知らせなかった私の責任でもあるのです。
クオンがシュトレーネに悪感情を抱くとしたらそれは間違いです。そのことだけは何とかしてあげないとシュトレーネが哀れすぎますね。
「クオン、どうかシュトレーネを恨まないでください。彼女は私達を裏切ったわけではありません。何も知らなかっただけです。彼女を信じられなかった私の落ち度です」
クオンの顔が僅かに強張りました。恐らくシュトレーネが何故旦那様の隣に立っているのか、その答えに至ったのでしょう。
何か一つ、あと何か一つだけ上手くいっていれば三人で逃げられたかも知れません。私がもっとシュトレーネと向き合っていれば、旦那様がゴルドーを呼ばなければ、あの男がクオンを見つけなければ。
どれだけ考えても状況が良くなるわけではないのに思わずにはいられません。
「クオン……どうか貴女に、風の精霊の加護があらんことを」
そう言ってクオンの頭を撫でます。それは魔法でも加護の力でもありません。私の願いです。加護という呪いに縛られた聖霊にではなく、本来自由の象徴である筈の風の精霊に願います。どうか、彼女のこの先の未来が何ものにも囚われることのない幸福なものでありますように。
「ゴルドー、もういい。さっさと捕らえろ」
「面白がっていたように見えたのですけれど、そう言うのならば終わらせましょう」
旦那様の一言で止まっていた時間が動き出しました。
別れを惜しむ時間はもう十分です。伝えたいことは伝えました。託したいものも託しました。あとはクオンを逃がすために私のやるべき事をやるだけです。
「私が彼を引きつけます。隙を見て逃げてください」
私に剣の心得が無いことは知られているでしょう。ゴルドーが警戒しているのは魔法と加護のみです。魔法を唱えようとすれば一気に距離を詰めて斬られることは目に見えています。警戒しているからこそ反応してしまう。私がつけいる隙はそこしかありません。
ゴルドーの動きに注意しながら近づきます。お互いの剣が届くまで距離が縮まってもゴルドーから動く気配はありません。足を止めて私の出方を伺っているみたいです。
「……ふむ、君が何を考えているのかわかりませんね。ここまで近づくと魔法を唱える隙などないでしょう」
「もともとそんな隙を見過ごす貴方ではないでしょう? なので最初から魔法は諦めています。それに実は魔法は少し苦手なんですよ」
「ほっほっほ。剣術も得意そうには見えませんが、まぁいいでしょう。いずれ旦那様の側に立つ男です。頭や気遣いだけではなく腕が立つことも大事です。この機会に少しだけ鍛えてあげましょう」
「それでは、お手柔らかにお願いしますっ!」
言うと同時に構えた剣を振り下ろしました。力任せに振り下ろした剣は難なく防がれ、それがわかると同時にすぐにゴルドーから一歩離れます。
「剣を前に構えなさい」
「っっく!」
言われた言葉に反射的に従いました。直後重たい衝撃が手に伝わってきます。弾かれそうになった剣を慌てて握りしめます。
「まずはまともに受けれるようになりましょう。よく私の剣を見て、次は上からいきますよ」
力任せに振り下ろした私とは違い素早く小さな動きで振り下ろされた剣をなんとか防ぎます。小さな動きの筈なのに伝わってくる衝撃は私の時とは違い遥かに重たいです。
「横、上、上、横……」
次々と襲いくる一撃に言葉通りに剣を置くことで何とか防ぎます。剣ごと叩き切られてしまうのではないかというほどの衝撃が一撃一撃から伝わってきて、その一撃一撃を歯を食いしばり、全身に力を込めることで耐え凌ぎます。
「……なかなか耐えますね。ではもう一段階あげましょうか」
防ぐので手一杯、反撃する余力は残していない。そう思ったのかゴルドーが初めて大きく剣を振り上げました。
今しかない。
「っぁあぁああああっっ!」
ぐっと足に力を込めます。踏み込む動作は一瞬で、地面を蹴り上げた後力も体重も全てを込めて剣を振ります。
今までで一番大きな音が響きました。その音は私の雄叫びよりも大きく、それよりも小さい音ならば飲み込んで消してしまうでしょう。
ゴルドー、貴方なら必ず剣で受け止めると信じていました。こんな素人に斬られる男ではないですからね。
「驚きました。まさかまだこんな力が、」
「――っ後ろだ、クオンだゴルドー!」
私の声と剣戟の音。クオンの足音を消すには充分でしょう。
ぎりぎりまで私の体を陰にして走っていたクオンが横に飛び出し私とゴルドーの横を走り抜けます。最短距離であり剣が届かない間合いぎりぎりを駆け抜けていくクオンに対して今の状態のゴルドーが対処するには一つの方法しかありません。
「っ退きなさい!」
腹部に鈍い痛みが走り、私の体は強制的にゴルドーから離されます。緊張の糸が解けるように全身から力が抜けて剣は何処かで手から離れ、足は起き上がる気力を無くしました。地面に倒れたまま投げ出された手足はもう動きません
私を引き剥がすことは一手損しても必ずしなければなりません。そうしないとクオンを追えないのですから。
そしてまだ時間を稼がせてもらいます。
「風の精霊よ、汝の……」
「っくそ! そういうことか!」
体は動かなくても口は動きます。今の私の出鱈目な言葉もゴルドーには魔法の詠唱に聞こえたでしょう。何せ精霊を冠する詠唱です。その殆どが大魔法と呼ばれる特別なもので扱えるものは数少ないです。それを、この場面で唱えるのです。例えそれが嘘の可能性があっても無視出来る筈がありません。
クオンの方に傾いていた体が私の方を向きます。余裕の表情など消し去り、苛立ちすら見せてゴルドーは私の足に剣を突き刺しました。
「申し訳ございません旦那様。すぐに捕らえてきます」
「……もういい、ゴルドー。お前はここに残れ。アイゼがまた何をするかわからん。クオンにはこいつら二人を向かわせる」
旦那様の命令に二人の獣人の男がクオンを追いかけていきました。
……これ以上の足止めは無理そうですね。ならば私は掟の民としての最後の役目を果たしましょうか。
「さてアイゼ、いずれクオンもここに戻ってくる。お前を誑かした原因もあと数週間で居なくなる。その数週間、今度はお前があの部屋で暮らす番だ。お前が暮らすんだ、もちろん馬鹿の掃除はお前がしておけよ」
ススが死んだことも知っているんですね。義理とは言え弟を殺した男をまだ側に置こうとしているとは、やはり旦那様の能力主義は私達一族に通じるものを感じますね。人間性を捨てている所が特にあの長老達と似通っています。
だからこそ私はそれでもいいかと全てを諦めていたのです。クオンに出会うまでは。
「わ、私はもう解放してくれるんだろ!」
シュトレーネの声が響きわたります。微かに震えているのは罪悪感を感じているからなのでしょうか。
「約束だろ、アイゼの事を報告すれば私は別に必要ないから解放するって約束しただろ!」
シュトレーネの声は誰にも届きません。旦那様もゴルドーも何一つ反応を示すことはなく、私から注意を離しません。
その態度で答えが出ているようなものなのに、まだ諦め悪く、受け止めきれず、シュトレーネは約束とやらに縋り付きます。
「や、約束、しただろ! 私を解放するって、アイゼと、クオンが、怪しいからって」
「はぁ、ゴルドー、アイゼの治療が終わったらこいつも部屋に戻しておいてくれ。うるさいから少し静かにさせる」
「なっ! は、話が違う! 私が、どんな思いで」
「静かにしろシュトレーネ。これは命令だ」
「だ、騙した、ぐぅ、ぁっ」
隷属の輪の効果が現れているのでしょう。首輪を掴み苦しそうにしながらも、それでも喋ろうとするシュトレーネに容赦なく首輪は締め付けを強くします。
「愚かなシュトレーネ。奴隷商人である旦那様が商品との約束なんて守る筈がないでしょう」
そもそも約束とは人と人が交わすものです。誰も物と約束なんて交わしません。いつまでも自分が奴隷になったと認められなかったシュトレーネはそれがわからなかったのでしょう。旦那様はそこを利用したのです。
ああ、なるほど。シュトレーネに私達の事を見張らせる事で私達の逃亡を防ぎ、尚且つ交わした筈の約束が無意味だとわからせることでシュトレーネに奴隷としての自覚を持たせる。さすがとしか言いようのない手腕ですね。
シュトレーネの瞳から涙が溢れてきました。気位の強い彼女です。そのせいで何度もお仕置きをされていますが、それでも彼女が泣くのは初めて見ました。決して声には出しませんが、溢れる涙を止めることは出来ないみたいです。
ごめんなさい、シュトレーネ。私は今から貴女を更に傷付けるでしょう。きっと自ら命を断ちたくなるほどに絶望するでしょう。
ですが、必ずこれは貴女の生きる理由になる筈です。自分の一生が奴隷だと理解してしまった貴女の心の奥底で、掟の民としての気位の高いシュトレーネという存在が残り続ける筈です。
これからどんな辛い事や怖い事が貴女の心を壊してしまったとしても必ず貴女は救われる筈です。
「シュトレーネ、貴女は旦那様に騙されてクオンを売ってしまいました。これが私達一族にとってどういう意味を持つのかわかっていないのでしょうね」
私の言葉に旦那様とゴルドーは不可解な表情を浮かべましたがシュトレーネは私の言い方で答えに至ったのか目を見開き、体を震わせます。
「貴女は掟の民、最大の禁忌に触れました」
その事実にもはや立つことすら出来なくなりシュトレーネはその場に崩れ落ちました。先ほどよりも酷く震える手は自分の頭を掴み、悔しくて泣いていた瞳は許しを請うように後悔に揺れています。
そのあまりの変化に二人が驚き固まります。その間に私はかろうじて動く体を駆使して立ち上がります。刺された右足に力が入らないのでふらふらとしていますが何とか立つことが出来ました。
……立つ必要はなかったのですが、これは私の最後の見栄ですね。
「知らなかったとはいえ守人であるクオンを貴女は旦那様に売りました。私は親族の代理として貴女に罰を与えなければいけません」
「も、守人だと! アイゼっ、クオンが守人だというのか!」
「……何故旦那様が守人の事を知っているのですか?」
「クオンが守人だったと……。ああ、なんてことだ掟の民と守人がまさか既に揃っていたとは。そうか、アイゼの不自然な変化はそういうことだったのか。私はこれで真実に至る鍵を二つ手に入れたということだ。どうする、こうなってはクオンを売るわけにはいかない。帝国の奴らからどうやって隠す、近いうちにあいつが来てしまう。それまでに、遠くの支店へ、ああ駄目だ、関所でばれてしまう。なら……」
……何故旦那様が守人の一族の事を知っているのか疑問ですが、まぁどうせもうその二つを失うのです。気にする必要はないですね。
「シュトレーネ、クオンは必ず逃げ果せます。いつか自由となったクオンに貴女が再び出会った時、彼女に許しを乞いなさい。必ず私達の知る心優しいクオンは貴女を許してくれます」
それまでは、どうかそのことを理由にして生きてください。首輪のせいで喋れないシュトレーネは力なく頷きました。垂れたまま上がろうとしない頭は断頭を待つ罪人の姿に見えます。
「……罪深きクーエルの子よ、風の精霊、コアトルとの盟約によりその罪に罰を」
「お、おお! まさかあの子供が受けた罰とやらを見られるのか!」
「旦那様、何が起こるかわかりません。止めるべきでは」
「大丈夫だ。私達に被害はない。これはシュトレーネに対する罰らしいからな」
止めようとしても無駄なのですが、何故旦那様は止めようとしないのでしょうか。そしてその興奮ぶりが今まで見たことがない姿で不気味です。
キラキラと子供のような輝きをした旦那様の目が私とシュトレーネを行ったり来たりします。頭を伏せているシュトレーネの変化には気づかないでしょうけど、私の変化には気づいたでしょう。
血が沸騰したかのように体温が上がります。肌の色は熱で赤く染まり、血は熱と魔力を乗せて全身を巡ります。次第に体中に魔法陣が浮かび上がりました。私は全身に、シュトレーネは喉に魔法陣が浮かんでいるはずです。
「これは、神殿の儀式の間に敷いてあるものと同じもののようだな。聖霊と祖先を讃える魔法陣、何故それがアイゼの体に……」
聖霊と祖先を讃える……? ふっ、笑わせますね。
本来なら親族で行い他の者に見せつけることで本当の意味を発揮するこの儀式ですが、ここには私とシュトレーネしかいないので誰が親族をやろうがどうでもいいでしょう。
魔法陣の輝きが強くなります。比例して体温は更に上がり、皮膚のあちこちがぼこぼこと動きだします。
「まさか――、やめろアイゼ! くそっ、止めろゴルドー!」
ああ、もう既に何をしようが手遅れです。この呪いは決して止まりません。
視界が真っ赤に染まります。恐らく目から血が溢れているのでしょう。いえ、きっとあらゆる所から吹き出している筈です。
もう立っているのかどうかすらわかりません。まだ立てているのなら少しは格好がつくのですが。
「ぁ……ぜ。……イゼ。……ごめ……さ………」
消えていく意識の中で、薄っすらとシュトレーネの声が聞こえた気がしました。
馬鹿ですね。それを言うのならば私の方ですし……そして……貴女がそれを言う相手は……私では、ありませんよ…………。
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