奴隷6



 陽が沈んでから随分と時間が経った。窓から見下ろせる街並みに明かりは殆どなく、下級奴隷までもが眠りに落ちた静かな時間、未だに机に向かって書類を捲るブランチの姿があった。

 窓から差し込む月明かりだけでは頼りなく、時折灯りの魔道具に魔力を供給しつつ書類からは目を離す様子はなかった。机の上には他にも古めかしい本が数冊置かれてあり、挟まれている付箋の数も相当にある。それは歴史書であったり、高名な冒険家の日記であったり、聖典の模写であったり様々だ。


 深夜を過ぎた時間、この屋敷の誰もが寝たであろう時間に主のブランチだけは日課とも言えるこの調べ物の為だけに起きていた。

 いつから、何故、興味を持ったのかはもはや覚えていない。原点は些細なことであった気がするし、何か心に刺さる重大なことであったような気もする。何しろ教会に属した事も、次期司祭の座を蹴って奴隷商人になったことも全てはこのためだ。


 書類をめくっていた手を隣の本、ある冒険家の日記へと移し、一つの付箋の場所を開く。



“緑の民との接触”


 彼らの特徴はなんといっても緑の髪と瞳にある。あの帝国でも見たことのないその容姿に出会った時は森の精霊に出会えたと大喜びしたほどだ。

 しかし、寛容であると言われている森の精霊とは反対に彼らは極めて排他的であった。自由の象徴である風の聖霊を信仰しておきながらその行動はおよそ自由などのない戒律的なものであった。


 三日間滞在したが彼らは私を追い出そうとはしなかった。当初と変わらず大した対話もできず、交わす言葉といえば最低限の挨拶だけであった。それ以上を求めても話しかけるなと言わんばかりに無視をされる。

 だがしかし、五日目にこの関係に進展を迎えた。まだ幼い男の子が好奇心を抑えられなかったのか、他の人の目を盗んで私に話しかけてきたのだ。私は喜んで様々なことを話したし、集落での暮らしのことも聞いてみた。

 話を聞くうちに私は自分がとんでもない所に迷い込んでしまったことがわかった。この子の言ってることは私の知っている常識とはかけ離れていた。


 幼い故に自身も全てを知っているわけではないとこの子は言った。そして、流石に話せないこともあると。


 聞いた話はとてもこの手記に書けるような話ではない。書いても信じられないような内容だし、もし教会の者に見られたら私が異端として追われてしまう。

 それを覚悟で全てを知ろうと行動するには私は遅すぎた。私は責任を取らなければならない。私のせいで罰を受け舌を切り落とされ集落を追われたこの子を育てるという。この子にはもう私しかいない。この子の為にも私はいつ死んでもおかしくないようなこの稼業を辞めようと思う。


 私の冒険はここで終わりを迎える。


 だけど、もしも、命知らずな誰かががそれでも知りたいと、この手記を手にしたのなら、私は私の贈れる最大の助成をその者に贈ろう。願わくはその誰かがこの世界の真実に辿り着かんことを――。




「掟の民、二対の神、守人の一族」


 一つ一つの文字を指でなぞりながら呟く。この手記を手にした当初はようやくまともな手掛かりが掴めたと喜んだものだが、それから何一つ進展がなかった。だが、それも昨年までだ。


「……掟の民は手に入れた。あとは神と守人の一族か」


 掟の民とは緑の民のことだというのはこれを読めばわかる。一年前アイゼが自らを売りに来た時はブランチは生まれて初めて聖霊に感謝したくなるほど喜んだ。

 そしてその後しばらくの月日が経ち、シュトレーネと会った時はアイゼが特異なのだと理解した。シュトレーネの性格は正しく手記に書いてあった通りだったからだ。排他的で他者に興味がない。比べてアイゼは協調的であった。シュトレーネと違い他の奴隷のことも気にし、優しく接していた。


 ブランチがアイゼをシュトレーネより評価しているのは、アイゼがそれでも他者に対して興味がないからだ。


「……シュトレーネは惜しいがアイゼがいれば十分か」


 ブランチにアイゼを売る気は元々あまり無かったが、シュトレーネを拾ってからはその気持ちは強固なものになった。自身の部下であり弟でもある者達と同じくらいに役に立つアイゼはブランチの中では最早秘書みたいな立ち位置だった。

 だからこそブランチはシュトレーネがクオンに構うことよりも、アイゼの変化の方が気になった。


 アイゼの性格をわかりきっていたからこそ、シュトレーネを既に手放す気でいるからこそブランチは自分でも気付かないうちに優先順位を間違えていた。


 今ブランチが考えていることはクオンの適正な排除だ。出自から売れれば誰でもいいわけではなく、かといって長く自分が所有しているわけにもいかない。小綺麗で平民では珍しく加護が使える少女を拾った。そう思わせる必要があるのだ。長く所有していたらその分疑われてしまう。


「……奴隷市が近かったのは助かったが、間に合うか」


 クオンを拾ってから一月以上経っている。部下の報告によると帝国は未だに血眼になって探しているらしい。例の客に売れれば一番良かったのだが、その客は帝国の貴族だ。性格からしてどっちに転ぶのか読めないのでそんな危険は犯せない。


「アイゼが余計な気を起こす前に売りたいのだがな」


 無いとは思いたいが用心に越したことはない。ブランチはそう思い、一番近くにいる部下を呼び寄せていた。腕が立ち、口も固く信用が出来る男だ。少し性格面で不安の残る弟へのお目付役として側に置かせていたが、先日戻ってくるように手紙を出した。


 もしクオンの正体が知られてもこの男になら問題はない。もし、アイゼが自分を裏切っても殺さない程度に制圧も出来る。ああ、問題があるとするならばあの弟がついてきた場合だろう。


 来て欲しくはないが、こう言う嫌な予感は当たるものだ。そう自分の経験が言っていた。それに従いブランチはここ最近は弟がついてきてしまった場合のクオンの扱いをどうするか考えていた。弟の行動パターンを分析し、どこまで制御できるかを考えていく。最悪の場合はシュトレーネを生贄にする覚悟もある。そうなって欲しくはないが。



「……駄目だな」


 思考が脱線していき意味がないと判断したブランチは今日の日課を諦めるように本を閉じた。そして誰の目にも写らないように大切に本と書類を隠し金庫へとしまった。その直後、背中に視線を感じた。


「――誰だ」


 振り返るとじっとこちらを見ている女がいた。表情は無表情に近いが、その瞳の奥からは僅かな敵対心が見え隠れしていた。細い首筋には鈍色の首輪がつけられていて、一つに束ねられた金色の髪とそれが窓から降りかかる月明かりに照らされていた。それだけ見るとブランチはこの女の正体に至る。


 ああ、やはりついてきたか。


 返答をしない女のその態度に呆れて溜息が漏れる。さて、こいつはどっちなのだろうか。瞳に宿るのが憎悪ではなく敵対心なので、半分わかっているようなものだが。


「愚弟の使いか。明日には着く頃だと思っていたが、いらない先触れだな」


「……スス様は愚かではない。訂正をしろ」


 愚弟という言葉に女は演技ではない本物の殺気をブランチに向けた。

 そしてブランチは確信した。今回来た女はそっちに調教したのだと。まぁ、どちらでも構わない。結局は一緒なのだから。


「お前がつけている首輪の所有者は私だ。従ってお前の所有者も愚弟ではなく私ということになる」


「違うっ、私のご主人様はスス様だ! スス様以外にあり得ない!」


 喚く女に近寄る。あわよくば愚弟の為に自分を殺そうと武器をとるかも知れないが、所有者に対するそんな暴挙を隷属の輪が許すはずが無い。


 何もわかっていないな。女の目の前で立ち止まったブランチは馬鹿にするように首を左右に振った。


「お前がどう思おうと勝手だが。そう言えばその首輪の解除の仕方を知っているか?」


「……所有者が解除の言葉を唱えるか、解除の魔法を使うか、だ」


「ああ、そうだな」


 もっとも解除の魔法自体が反撃行為と見なされるので首輪をつけられた者は自力では解除出来ない。


「だがもう一つある」


「そっ――」


 女の言葉が続くことはなかった。途中で言葉が出ない。意識はある、気味の悪い風が隙間を抜けるような音が聞こえる。でも、声が出ない。視線を彷徨わせるとブランチの手にナイフが握られている。落ち着かない目がそのナイフから血が滴っているのを見ると、自身の体が小刻みに震えていることを急に理解した。


「――、――っ」


 声は出ない、不気味な音が聞こえる。うるさい。震えて上手く歯が噛み合わない。うるさい。手が上手く動かない。痛い。


「簡単なことだ。直接取ればいい」


 震える手がようやく首に触れた。ぬめりとした気持ちの悪い感触がして真っ赤に染まる。


「――っ、――!」


 痛い、熱い! 叫びたいのに声は出ない。代わりに不気味な音が強さを増して、怖くて涙がぼろぼろと溢れる。

 助けを乞うように下がっていた視線は前を見る。


「よかったな。奴隷から解放だ」


 温度を感じない視線が自分を見ていた。温もりを感じない、冷徹な冷たさも感じない、興味の欠片も見当たらない。本当に自分がその視界に写っているのかさえ不安になるような、そんな目をブランチはしていた。




 風切り音が聞こえなくなってきた。いつのまにか体は床に倒れている。痛みや熱ももうあまり感じない。死に対する恐怖すらどうでもよくなった。流し切ったのか涙も渇いている。見えなくなっていく視界の中でブランチが机に座り魔法具を触っていた。音は聞こえない。何をしているのかはわからない。けれど、死んでゆく自分がまるで最初からここにいないかのようだった。自分の一生が最初からなかったかのように思えてしまう。涙はもう出ない。それでもそれが泣きたいくらいに怖かった。








「……クオンついてきて下さい」


 朝早く部屋に入ってきたアイゼは重々しい雰囲気でそう言って私の手を引いていく。その足取りは階段を降りていき、とうとう私に一度も立ち入らせなかった地下へと降りた。


 地下への階段を降りる時から臭っていた異臭が、我慢が出来ない程の強烈さを増した。鼻がおかしくなるんじゃないかと思える臭いに嫌でも顔が歪む。

 そしてそこには性別で分けられて檻に入れられている大勢の人達がいた。一番多いのが男性の奴隷だった。年も幼すぎるか、中年を超えているかくらいの年齢が多く、若い年齢の人は皆どこか体が不自由な人達だった。


「――な、にこれ」


 自分の顔が臭いで歪んでいるのか、想像していた以上に酷いこの光景に歪んでいるのかわからない。


 檻の中の人達と目が合うと、あの男の時とは違う悪寒が全身を走った。生気のない目が、生者を呪う亡者のような目が私とアイゼを見ていた。

 言葉を発したわけでもないのに、恨みの言葉が聞こえてくるようで、それが充満する異臭と合わさって気持ち悪くなり吐きそうになる。


 目を背けそうになるような現実だ。でもこれは現実なのだ。私が目を背けるわけにはいかない。吐き気を堪えて前を向く。

 昨日アイゼから話を聞いた後、ここから出たら私は必ず王国を取り戻し、この人達のような境遇の人を救うと決めた。それが出来る力がこの腕輪にはあるとアイゼから教わった。


 アイゼに引かれ通路を歩いていく。檻に挟まれているせいで両方から視線を感じるけど、私は怖気そうになる足に力を入れて前へ踏み出した。


 突き当たりまで行くと入り口に近い所にいた人達よりも酷い人達が集められていた。体中に虫が湧いている男性もいれば、顔の皮膚が無くなっている女性もいる。片腕片足がない獣人の男性もいるし、胸を削ぎ落とされたエルフの女性が下着も与えられずに座り込んでいる。


「どうかしました?」



 それを見て思わず立ち止まってしまった私にアイゼが不思議そうに振り返った。


「な、んで……」


 アイゼはこれを見て何とも思わないのか。表情からは私を心配していることはわかっても、その優しさは彼らには向いていない。


 言葉が思うようにでない私と立ち止まっている位置を見て私が彼らを気にしているのを察したアイゼは私を安心させるように優しく微笑んだ。


「ああ、彼らは最下級奴隷なんです。この世の中では珍しくも何ともないのですが流石に初めての時は戸惑いますよね」


 私もそうでした。そう言ってアイゼは笑みを浮かべた。

 アイゼが時折見せるその冷たさに私はいまでも慣れない。背筋を冷たい何かが走り抜ける。わたしには優しいアイゼのこういう所がたまにあの男のように見えてしまう。


 そんなわけない。わたしは頭を振り嫌な考えを振り払った。


「……クオン、これから入ってもらう部屋には明かりがありません。この小さな魔道具で我慢して貰うことになります」


 アイゼが手に持った丸い石のような魔道具が魔力に反応して微かに光る。小さな光で、部屋はもちろんその光は足下にも届きそうにない。本当に手元だけを照らす用途の魔道具らしい。


「これで数日、下手をしたら数週間この中で過ごしてもらうことになります」


 アイゼが突き当たりにある扉を開けた。中は使われていないみたいで、扉が開いたことで埃が舞っている。見える限りは何もない部屋だった。薄暗くて、扉を閉めたら完全に暗闇になる。地下にある何も無いこの部屋が何なのかはわたしでも想像がつく。


 なんで、なんでわたしがこの部屋に。


 言葉が出なかった。足が震えながら一歩後ずさった。アイゼが震えるわたしを心配するように掴んだその手が、まるでわたしを捕まえたかのように思える。


「クオン聞いてください。今日旦那様の弟が来られます。ススというのですが、その者にクオンが見つかるわけにはいかないのです」


 アイゼが手を重ねて落ち着かせるように説明してくる。それでもわたしの震えは治らなかった。抑えようと頑張るけど、目の前の暗闇から漏れる恐怖に打ち勝てない。重ねてきたアイゼの手を握りしめ、震える歯をくいしばる。


「……クオン、私がクオンに誓ったことを覚えていますか」


 覚えている。それが今のわたしの支えだ。

誓ってくれた。アイゼは誓ってくれたんだ。

 震えなのか頷きなのかわからないくらいに小さくわたしの首が動いた。


「私を信じて待っていてくれますか?」


 今度は確かに頷く。わたしにはもうそれしかないのだから。




 扉が閉まると何も見えない真っ暗闇になった。暗闇の中で視力以外の感覚が嫌でも研ぎ澄まされていく。肌はこの部屋の冷たい空気に怖気を走らせる。鼻は、埃の臭いと、開けた時に入ってきた地下の異臭を細微まで感じ取る。だけど、これはじきに慣れて、感じなくなるのだろう。耳は扉の外の呻き声を微かでも聞き逃さない。絶望に満ちたその声はまるでわたしを搦めとるように纏わりついてくる。


「いやだ、いやだ……いやだ……やだ……」


 暗いのは嫌いだ。目の前の闇の中から帝国兵が捕まえにくるような気がしてしまう。

 暗いのが怖い。どこからかマリアンナのわたしを恨むような声が聞こえる気がしてしまう。

 何も見えない真っ暗なことが、全てを失ったあの日を思い出させる。燃える城内を、亡くなった大切な人達を、怒声を上げてわたしを探す帝国兵達の足音を。


 耐えられない。耐えられる筈がない。わたしは握りしめていた魔道具に魔力を通す。仄かに光ったそれはとても頼りなく、わたしの半身すら照らすことも出来ない。弱々しいくせにわたしの体から魔力を奪っていくこれが今のわたしの救いだった。

 わたしは魔力が枯渇して気を失うまで、この魔道具に魔力を流し続けていた。



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