第16話
木々の隙間を縫うように二人はひたすらに走る。後ろを追いかけてくる竜は未だ追跡の手を緩めない。不幸中の幸いか木々に阻まれてスピードこそ速くはないが、その代わりに木々を薙ぎ倒す音が断続的に鳴り響く。その音が二人の焦燥感を煽る。
「一体全体どうなってるの」
「どうしてわたしたちを……」
走りながら二人は思案する。そもそも生存圏が分かれている以上、竜と人類が邂逅することはまずない。人類側が竜族に対してなのかしらの不義理でも重ねない限り手を出してくることは有り得ない。そして、二人にはその心当たりがなかった。
「……アリーゼ、貴方だけでも逃げなさい」
不意に立ち止まると、ヒルダは静かに言った。未だ木々を破壊する音は聞こえてくる。
「なに言ってるのヒルダちゃん!」
「私はもちろん、きっと貴方にも竜に襲われる原因の心当たりはない。けれど、相手は今も私たちを探してる。このまま森を出ても被害を広げるだけ。だったらここで食い止めるしかない」
本来であれば他種族への不要な攻撃が御法度だが、先に侵犯したのは竜族のほうであり明確な害意がある。ためらっている暇はなかった。
ヒルダの剣が魔力を纏い、再び煌々と燃え盛る炎の大剣が顕現する。
「――マクギラン家の娘として、負けることは許されないの」
木々の隙間から不気味な目が覗く。竜が追い付いてきた。邪魔な木々を食い千切り、竜の巨躯が森の中に現れた。
「――百焔華!」
先手必勝。矢継ぎ早の魔法の展開。相手が相手だけにヒルダの表情に余裕はない。一手一手を全力でぶつけていた。
「びくともしないわね。なら――」
連続で魔法を受けても竜の堅牢な鱗には傷一つ付かず、まるで意に介していない様子だ。
「煌炎融世!」
さきほどの決闘でも勝負を決めた大技を放つ。極限までに輝きを増した大剣に宿した莫大な業火が一気に放たれて竜を倒さんと猛進する。魔法の衝撃で一帯に突風が巻き起こる。
残っていた持てる力の全てを込めて一撃。これで退かせるくらいはできると思っていた。
――だが。
竜を中心としてその周囲の木々は熔解していた。魔法は間違いなく命中していた。それは疑いようもない事実だ。にもかかわらず、竜は無傷でそこにいた。まるで何事もなかったかのように。
ヒルダの顔が絶望に染まる。
二人の万策が尽きたと悟った竜は、今度はこちらの番と言わんばかりに魔法の発動工程が始まる。まるで弄んでいるかのようである。
上位種族は精霊を介さず、魔法を自ら構築し行使する。それらは人類が扱う魔法よりもはるかに強力だ。いったいなにが起こるのか想像も付かない。ただ一つ分かるのは、竜の魔法が行使されたそのとき、二人は命を落とすということだ。
カウントダウンは始まっていた。アリーゼはどこかに逃げ込める場所はないかと目を走らせる。そうして、崖のようになっている場所を見つける。
崖下を確認している余裕はない。茫然自失のヒルダを強引に引っ張ってそのまま崖へと飛び込んだ。
刹那の間に竜から光刃(こうじん)が放たれる。刃が木々を蹂躙し、ばらばらにされた木片が落下してくる。
崖の先は斜面になっていた。そのまま弄ばれるように二人は斜面を転がっていく。ようやく止まったのは崖下にあった茂みの中に突っ込んでからだった。
「いてて……」
打撲や擦り傷で全身が痛む。痛みを感じるということはなんとか生きているようだ。ヒルダも同じように呻き声を漏らすが、命に別状はなさそうだ。
「ごめんね。突然こんなことして」
「いえ、責めるつもりはないわ。あのままだったらきっと私は死んでいたわ。その……あ、ありがとう」
気恥ずかしいのか、ヒルダは頬を赤くした顔を少し背けて言う。面と向かってヒルダがそう言ってくれたことが嬉しくてアリーゼも照れるように頬を赤くした。
「それにしても、ずいぶんと落ちてきたね」
頭上を見上げて言う。九死に一生を得たが、状況が好転したわけではない。
「どうすれば森を抜けられるかな」
アリーゼとして早くゼノウを合流したかった。彼と合流できれば必ず力を貸してくれると確信していたからだ。
「……無理よ」
そのあまりに悲観的で諦念を隠しもしない言葉が誰から発せられたものなのか、アリーゼには一瞬分からなかった。だが、この場にいるのは二人だけ。誰が言ったのかは明白だった。
「無理なのよ。森を抜けることも、助かることも」
アリーゼは初めて目にした。あのヒルダが諦めを口にする姿を。
「で、でも、まだやってみなきゃ分からないよ」
困惑しつつもアリーゼは言う。これまでアリーゼが見てきたヒルダは常に強く、決して諦めなど口にすることはなかった。だからこそ、弱音を口にするヒルダが信じられなかった。
「貴方も見たでしょう。人と竜とではそもそも根本から違う。どれだけ足掻いたところで、私たちは負ける」
俯き気味に言う。
ヒルダは同世代と比較しても頭一つ飛び抜けた実力がある。そんな彼女だからこそ、自分と相手の戦力差で勝敗をある程度予測することができる。そして、その予測が導き出した未来は二人の敗北。それもとても悲惨なものだ。
「ヒルダちゃんがそう言うなら、きっとそうなんだよね。……でも、わたしは諦めないよ」
はっと、ヒルダが顔を上げる。
「どうしてあなたはそこまで……」
「言ったよね。わたしはこの剣と合格するって。だから、わたしは諦めないよ。わたしもヒルダちゃんもこの危機から抜け出して合格するの」
意志の強さを感じる言葉だった。こんな状況だというのにアリーゼは助かることを微塵も疑っていない。必死に助かる方法を模索しているのだ。
「仮に森を抜けたとしても竜をどうにかできないと意味がないわ」
「うん。だからまずはこの森を抜けるの。そうすればどうにかできるかもしれない」
決して戯れ言などではなく確信を持って言っていることが伝わってくる。信じてみよう、そんな気にさせてくれる。
「信じて、いいのね?」
力強くうなずくアリーゼ。
「分かった。貴方を信じるわ。まずは森を抜け出す方法よね」
ヒルダがそう言って、二人で周囲を改めて見回す。斜面を転がってきたせいでここがどの辺りなのか、見当を付けるのは難しい。行き当たりばったりで探ろうにも竜が徘徊していることを考えると一筋縄ではいかないだろう。
(わたしとヒルダちゃん、一緒に助かるにはいったいどうしたら……)
アリーゼは必死に思考を巡らせて考え込む。親友であるヒルダのために。
そうして考えに耽るアリーゼの頬を微風が撫でた。風が通り抜けていく。二人の間を抜けてどこまでも続いていく。
「……えっ?」
無意識のうちに声が出たことに気付いたのは数秒後のことだった。風の行く道筋が見えた――いっけんして幻覚のような現象がアリーゼの身に起きたのだ。風は今も断続的に吹いている。まるで何者かが道を示しているかのように。
(この流れる風に付いていけば、もしかしたら……)
直感的にそう感じた。信じるにはあまりに情報が足りないが今は藁にも縋る状況だ。名案も浮かんでいない以上、賭けてみる価値はあるかもしれない。どの道このまま動かないままでは事態は好転しない。
「……ヒルダちゃん、わたし今から自分でも信じられないようなことを言うけど、ちゃんと聞いてくれる?」
そう問われたヒルダは一瞬きょとんとした顔して、
「いきなりね。まあ、貴方の突拍子もないことはいつものことだし、言うだけ言ってみなさい」
「うーん、その言い方は少し気になるけど――」
そう言って、アリーゼはつい今し方起きたことをヒルダに話した。
「本当に突拍子もないわね……」
聞かされたヒルダは怪訝な顔をしつつも頭ごなしに否定せず一考する姿勢を見せる。
「わたしも突然のことで驚いたけど……信じてもいいと思う。前にも見たようなことがあってさ。だからわたしは、この直感を信じたい」
前のめり気味に言うアリーゼ。
「あ、あなたがそこまで言うなら」
珍しくヒルダが若干押され気味になる。
ヒルダからの了承を得ると、風を辿るように視線を動かす。
「あそこから行けそうだね」
指を差すアリーゼ。主導権は完全にヒルダからアリーゼに変わっていた。彼女自身はそのことに気付いていないようだが。
「絶対二人で脱出しようね」
そう言ってアリーゼは風を辿り始める。
その背中を見ながらヒルダはぼそりと呟く。
「本当に、羨ましい限りだわ」
ヒルダは一瞬だけその背中に羨望の目を向けた。
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