第7話
整備されていない旧街道には当然ランタンなどあるわけもなく、木々の間から零れる月光だけが唯一の光源だった。
夜の鬱蒼とした森は闇が蠢いているようだった。普段当たり前のようにある街中や街道の明かりがどれだけの安心感を与えてくれていたのかを身に染みて実感した。
「ほ、本当にいるのかな?」
おどおどしながら歩を進めるアリーゼは少しずつ疑問に思い始めていた。
あれから助けを呼ぶ声は聞こえてこない。もしかしたら、もう手遅れになってしまったのかもしれないと嫌な想像も浮かぶが、それでもアリーゼ引き返さなかった。それはひとえに勇者になるという志あるからだ。
「おい、さっさと歩け。さっきは声なんか出しやがって。バレたらただじゃおかねぇぞ!」
突然の激しめの声にアリーゼは思わずびくっとする。森の中から人影が現れてとっさに近くの木の裏に身を隠す。
「あれって」
息を殺しながらアリーゼは森から出てきた人影を窺った。
二人の男に人ではない種族――おそらくはエルフ――の三人組だ。片方の男は痩躯で、もう一人の男はかなりがっちりとした体躯の大男だ。二人とも腰に剣を携えている。
ただ、どうやらエルフのほうは拘束されていて実質的には男二人組なのだろう。誰がどう見ても穏やかな雰囲気ではない。
エルフは歩き疲れたというように地面にへたり込んだ。
「しかし、兄貴。エルフを売り飛ばすなんて本気なんですか?」
エルフを休ませている間、エルフに括り付けた紐を持った痩躯の男が兄貴と呼ぶ人物に尋ねる。
「たんまりと金をくれるって言ってるし、やるしかねぇだろ。いまさら怖じ気づいたのか?」
「そうじゃないですけど、これがバレて勇者の資格が取り上げられたらと思うと……」
「取り上げだけじゃ済まないだろうけどな。だが、こんな森の、しかも今は使われてない場所に人なんかいるわけねぇよ」
兄貴と呼ばれた大男の哄笑は夜の森に静かに吸い込まれていく。
(勇者……? あんなひどいことをする人たちが?)
木の陰から少しだけ顔を出して様子を窺うアリーゼは二人の男の手首を見た。たいていの勇者は手首に証明である魔石のブレスレットをしている。そして、目の前で非道な行いをしている二人組も魔石のブレスレットをはめていた。それはつまりはアリーゼが憧れと尊敬の念を抱き、人々の模範となるべき〝勇者〟という存在が悪行を働いているまさにその瞬間だった。
「ほら立てよ。もう十分休んだだろうが」
大男が足でエルフを何度も小突く。
無抵抗のエルフはただただ小さく呻き声を漏らすだけだ。その呻き声は絶望の色に染まりきったものだった。
(た、助けを呼ばなきゃ)
顔を覚えるためにもう一度だけ、アリーゼは覗き込む。
そのとき、エルフと目が合った。
(――ッ!)
とっさに身を隠す。
「そこに誰かいるのか?」
エルフの視線を不自然に思ったのか、二人組のうちの痩躯の男が声をかけてくる。まだ見つかっていないようだが、このままでは見つかるのは時間の問題だ。
一歩一歩と、こちらに近付いてくる足音が聞こえてくる。
「こんな時間に誰もいやしねぇよ。遅れると後が怖いしさっさと行くぞ」
さほど気に留めなかった大男はそんな痩躯の男を無視して一足先に進んでいく。慌てて痩躯の男もエルフを引き連れて後を追う。
このままやり過ごせばあの二人組に見つかることはない。幸いなことに彼らは徒歩だ。やり過ごしたあと急いで勇者ギルドに報告して対応してもらえばきっと間に合うはずだ。なにより、今の自分ではたとえ立ち向かったところで歯が立たないことは明らかだった。下手に手を出して状況を悪化させるよりもこれが最善の策のはずだ。
――もし間に合わなかったら?
「……違う」
目が合ったときのエルフの顔が思い浮かんだ。
あのエルフは勇者ギルドでもなく、勇者でもなく、あの場にいた自分に助けを求めたのだ。
さほど遠くには行っていない。
今ならまだ間に合うのだ。
自分なら――間に合うのだ。
「――あなたたちっ!」
アリーゼは飛び出し、二人組の男を呼び止めた。
「あ? なんだお前?」
突然呼び止められておもむろに振り返った大男は凄みを利かせて問う。
思わず尻込みそうになるところをぐっと踏ん張る。
「あ、あなたたちのやっていることは立派な犯罪です。大人しくそのエルフを解放しなさい」
「エルフの知り合いか?」
アリーゼはかぶりを振る。
「ガキにしちゃご立派なことを言ってるが、ならせめて足の震えくらい止めてから言わなねぇとなんの説得力もないぜぇ?」
小馬鹿にしたように大男は嗤う。
今も動悸は激しいし、足は震えるし、目尻には涙が浮かんでいる。それでもアリーゼは一歩も引かない。実力もなにもない自分がその志すら失ってしまったら、いったいなにが残るというのか。
本当に勇者への道が閉ざされるのは、実力のなさでも、学院の退学でもない。勇者としての心を失ったときなのだ。
だから、立ち向かう。立ち向かわなければならない。
「兄貴、あのガキの制服、よく見たらエストレア学院のですよ」
「てことはオレたちの後輩ってわけか」
厭らしい笑みをいっそうに深める大男。
「早くそのエルフを離して!」
いっこうにエルフを解放しようとしない男たちにアリーゼは叫ぶ。
「口の利き方がなってないな。オレたちはお前の先輩だぞ?」
「わたしは、あなたたちみたいな不届き者を勇者とは認めない。わたしが憧れた勇者はそんなものじゃない!」
幼き日に聞いた大英雄たちの輝かしい活躍。その中には自分の血統であるロイエスの逸話もあった。勇者の風上にも置けない不法を働く彼らは、まるでそんな誉れある大英雄たちを踏みにじるようで許せなかった。
「ふん、憧れだのなんだの下らない。これだから夢見がちなガキは困る」
大男はつまらないとばかりに鼻白む。
「後学のために教えておいてやるが、今時そんな高尚な志を持って勇者をしている奴なんていねぇよ」
「じゃあ、なんのために」
「決まってるだろ? 儲かるからさ。それに地位や名声に特権、真面目に働くのが馬鹿らしくなるぜ」
「兄貴。あいつ、見た目はそこそこいいですし、結構いい値段で売れるんじゃないですかね?」
耳打ちするように痩躯の男。
アリーゼにはなにを言っているのかよく聞き取れなかったが、全く悪びれていないことだけは判った。
「大人しく従えば、命だけは助けてやる」
なおも大男は言い募る。その視線はまるで舐めますように厭らしいものだ。
アリーゼは反抗の意志を瞳に宿したまま一歩も引かない。
「強情な奴だな。仕方なねぇ」
エルフを見ておけ、と痩躯の男に言うと、大男はアリーゼに近付き出す。
鞘に収まっていた白刃がその姿を覗かせる。
「ちっとばかし痛い目を見てもらうぜ」
大男が動く。
発動工程(プロセス)を行うと、大男が持っていた剣に地面から無理やり剥がされた土塊が収束する。それは剣と呼ぶには切れ味など皆無に等しいが、目の前の少女を叩き潰すには十分すぎる凶器だ。
アリーゼはとっさに距離を取る。
地面を穿った衝撃で土塊が瓦解し白刃が顔を覗かせるがすぐに修復が行われる。土が無限にあるこの場所においては修復が途切れることはないだろう。
「おら、どうした? 来いよ」
反抗的な態度をしつつも、一切応戦をしないアリーゼを大男は煽る。
しないのではなく、できない――それはこの場において誰よりもアリーゼが理解していた。
(わたしなんて、ろくに魔法も使えないけど……)
常に気持ちだけが空回りし結果が伴わない。どれだけ挑んでも失敗ばかりの日々。身の丈に合わない夢だと否定され嘲笑されてきた。
だが、今だけは否定されようが、嘲られようが構わない。
目の前に助けたい者がいる。
(お願い、誰か――力を貸して)
刹那、アリーゼの鞘から蒼炎がほとばしった。
「な、なんだそりゃ」
思わぬ展開に大男は目を見開く。
アリーゼ自身にもなにが起こったか分からなかった。どうして今まで一度として使えなかった魔法を発動できたのか。
だが、この剣――ロイエスから受け継がれた剣ならば、この状況を変えられるかもしれない。エルフを救い出せるかもしれない。
蒼炎の輝きが闇夜を照らす。
もう恐れなどなかった。ロイエスに背中を押されるようにアリーゼは剣を引き抜き、気迫とともに大男に立ち向かった。
「ハァアアアアッ!」
振るった切っ先から気迫に呼応するように炎が放たれる。いくつもの金の軌跡が空中を駆け抜けた。それらは全て大男へと収束する。
「調子に乗るなよ、ガキが!」
迫り来る炎を前に一瞬だけ怯む大男だが、しかしすぐに勢いを取り戻し炎を迎え撃つ。土塊を飛ばして炎の相殺を狙う。次々と炎がかき消されていく。やはり付け焼き刃の魔法では敵わないというのか。その気後れがアリーゼに致命的な隙を生み出した。
間合いを詰めた大男がアリーゼの剣を弾き飛ばした。剣が大きく宙を舞う。そのままアリーゼの首根っこを掴んで地面に押さえ付ける。
バタバタと手足を動かすが、怪力のような大男の力の前には身動ぎ一つできない。
「さっきは少しびびったが、所詮はこの程度なわけだ。今からでもオレたちに従うってことなら――」
「エルフを……解放して」
絶体絶命の危機に陥ってもなお、自分のことよりもエルフの身を案じていた。決死の覚悟がその双眸の奥で静かに燃えている。
「……一つ聞くが、どうしてそこまであのエルフに固執する? 知り合いでもなければ強いわけでもねぇ。そもそも見て見ぬ振りをしていればこんな目にも遭わなかった。今だって命乞いすらしねぇ。オレから言わせりゃお前は異常だよ」
異常。確かに周りから見ればそうなのかもしれない。実力も才能もないくせに身の丈に合わない夢を、叶わない夢を追い続ける。今だってそうだ。助かる選択肢を捨てて自ら危険に首を突っ込む。異常だ。異常としか言い様がない。そんなことは自分でも判っている。
でも。
見てしまったから。
聞いてしまったから。
もう見て見ぬ振りなんてできない。
「勇者だからとか、強いからとか、弱いからとか、そんなの関係ない」
そして、アリーゼを突き動かすもっと単純で純粋な想い。
「助けたいから――助けるんだ」
もう溢れ出した涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま言い切る。
不変の想いが溢れ出る。
「……もういい」
大男はいい加減鬱陶しいと言わんばかりに鼻を鳴らして首を掴む手に力を込める。なにを言ってもやりこめないと悟ったのだろう。言うことを聞かないのなら、ばらされる前に消しておこうという算段だった。
(やっぱり、わたしじゃダメなのかなぁ……)
締め上げられて意識が薄れていく中でふと思う。
ゼノウから言われた言葉が脳裏に蘇った。
実力でもなにもかもで劣っている自分が誰かのために行動を起こした。きっとそれは誰にも知られることはないだろう。それでも構わなかった。
ただ唯一の心残り。それは身を挺して守ろうとしたエルフのことだ。
(わたしはどうなってもいい。だから――誰か)
アリーゼがそう強く祈った――そのとき。
「その志は認めてやる」
聞いたことのある声がした。その声が聞こえた瞬間、悲鳴が響いた。眼前まで迫っていた大男の顔は消え、次の瞬間には大きく後方に吹き飛ばされていたのだ。
「兄貴ッ!?」
異変に気付いた痩躯の男が声を荒らげる。
「あ、あなたは……」
目に映るのは、弟子入りを志願した相手――ゼノウ・エレティコスだった。
ゼノウは紫の瞳でアリーゼを一瞥だけして、すぐに視線を二人組の男に向ける。
「てめぇ……! いきなり割り込んできてなんのつもりだッ!?」
「悪いがこいつは俺の客人なんだ。ついでにそこのエルフも。だから手を出すのは許さない」
「適当なこと抜かしやがって。ナメた真似してどうなっても知らねぇぞ!」
怒りに染まりきった大男の表情はひどく歪んでいる。
「見たところ、お前たちは勇者だろう。ここでの非道な行いが露見すれば勇者資格剥奪だけでは済まないぞ。大人しく自首したらどうだ?」
「そうだな。確かに露見したらそうなるな。……露見すればな」
厭味な笑みを浮かべた。考えていることはおおかた想像が付いた。目撃者を全員消してしまえばここで起きたことは全てなかったことになる。あまりに低俗で酌量の余地もない連中にゼノウは深々とため息を吐く。こんな奴らでさえ勇者を名乗ることができてしまうのが今の世の中なのだ。
「少しでも罪悪感があるのなら手心を加えるつもりでいたが……どうやらその必要もないようだな」
「そんなもん、こっちから願い下げなんだよッ!」
起き上がった大男が凄まじい剣幕でゼノウに接近する。今度は痩躯の男も加勢して一斉に襲い掛かった。もはや頭に血が上ってエルフのことなど眼中にないのだろう。
完全に二人組の男の意識がこちらに向いたことを確信して、ゼノウはアリーゼに目配せする。一瞬の戸惑いのあと、アリーゼはエルフに向かう。その最中もゼノウは挑発を忘れない。
「二人がかりなら勝てると思ったか?」
大男が土塊を纏った剣を、痩躯の男が歪な氷塊を生み出す。四方を取り囲まれて絶体絶命の状況。それでもゼノウは至って冷静に待ち構えた。
「――〝砕けろ〟」
刹那、土塊が、氷塊が粉々に砕け散った。
「〝縛れ〟」
植物の蔓がまるで意志を持ったかのように動き出し、二人組の男を拘束する。
「〝作れ〟」
砕け散った氷塊の破片が集まり一本の剣を作り出す。痩躯の男の氷塊とは比べ物にならないほど綺麗な造形だった。見とれるほどにすらっとした刀身はぞっとするような冷気を周囲に放つ。
流れるような魔法の展開は二人組の男に一切口を挟む隙を与えなかった。
「これでもまだやるか?」
大男の首元に氷剣を近付ける。生命の危機を感じさせる冷気が大男を包み込んだ。
そして、それ上回る凍てつく切り裂くようなゼノウの視線が大男を貫く。いつでも殺せるぞ、と視線はそう言っているようだった。
蔓の締め付けが強まったそのとき。
「あ――」
極度の恐怖で大男は失神した。痩躯の男ももはや戦意喪失というように顔面蒼白だった。抵抗する意志は感じられない。
「世話が焼ける勇者どもだ」
やれやれと言わんばかりにゼノウはため息を吐いた。
にわかに夜の森は静寂に包まれる。
「アリーゼと言ったな」
静寂を破ったのはゼノウだ。
「は、はい」
突然声をかけられて、茫然自失だったアリーゼは思わず声が上擦ってしまう。
「俺はこの二人を勇者ギルドに突き出してくる。お前はエルフを頼む」
そう言うとゼノウはアリーゼの返答を待つこともなく行ってしまう。
「頼むって……」
一人きりにされてアリーゼはおもむろにエルフのほうに向き直った。
「あの、大丈夫ですか?」
なんと声をかけたらいいか分からず、とりあえず安否を確認することにした。
エルフは数多ある種族の中で人語を理解し話すことのできる種族の一つだ。多少拙い部分はあるかもしれないが、会話は可能と判断して返答を待った。
「あ、ありがとう。あなたは……命の恩人です」
エルフはアリーゼに抱き付くようにして涙を流した。相当怖かったのだろうと、アリーゼにも容易に想像ができた。本当に助かってよかった、間に合ってよかった、と心の底からそう思う。
だが、礼を言うべき相手は他にいると、どこか冷めている自分がいた。
(わたしは、なにも……)
ただ、それをエルフに言うことはしなかった。
アリーゼはエルフが落ち着くまで待ち続けた。
ゼノウが再び現れるまでアリーゼは己の無力さに打ちひしがれていた。
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