第24話 リスクヘッジ

 「こんにちは、私の名前は伊集院貴成いじゅういんたかまさと申します」

 いきなり俺の目の前には、そう名乗る男が現れた。

 グレーのジャケットに薄ピンクのシャツ、胸ポケットから覗かせたペイズリーがらのハンケチが、いかにもその男の裕福さを物語っている。


 俺は薄汚れたジーパンのポケットから小銭を取り出すと、目の前の自動販売機にそれを一枚づつ入れていく。

 「140円っと・・・ チェッ、120円しかないや」

 すかさず、その男が自販機にカードをかざす。

 「飲み物は何にしますか?」


 「えっ、もういいや。飲みたくなくなった・・・」 

 俺には一瞬その男の顔が、ニヤッと笑ったように見えた。男はそのまま缶コーヒーのボタンを押す。

 ガタンという音と共に、無糖のそれが取り出し口に横たわっているのが見える。


 男はそれを取り出すと、振り向きざま俺の前へと差し出した。反射的に俺はそれに手を伸ばす。

 「甘い方が良かったですか?・・・」

 「なんでも・・・」

 言いながら、俺はプルキャップのふたを回した。


 「もう、いいんじゃないですか? いい加減、彼女と別れてあげても」

 「なっ!・・・」

 

 男の顔を睨み付けるが、彼はなおもじゅうぶんな微笑みを湛えた顔を俺に向ける。その男の余裕が、きっとそうさせるのであろう。

 「私は昨日、彼女にプロポーズをしました」

 「えっ、・・・」

 男は俺の様子に、幾分すまなそうに頭を下げる。

 

 「もちろん、君のことは知っていましたよ。彼女から聞いてね・・・」

 「・・・・・」

 「確か、君は小さな劇団に所属しているとか。将来は俳優でも目指しているのですか?・・・」

 その言い方が、何となく鼻に引っ掛かる。


 「今に、一発ドカンと売れて・・・」

 「それは何時のことですか? その時まで彼女に待っていてくれとでもいうのですか?」

 いちいちもっともな質問に、俺は返答する言葉を失う。


 「いい加減、気づいた方が良いのではないですか。夢を追いかける君という人がいながら、彼女は私ともお付き合いをしている」

 「・・・・・」

 「それがどういう意味かということも、大人の君なら分かりますよね?」


 「あいつは、そんな女じゃない・・・」

 俺が捨て身に放ったひと言にも、男は鼻で笑って言い返す。

 

 「毎回、君が彼女に頼んでいた公演のチケット50枚、それを誰が買い取っていたと思うんですか?」

 「えっ? みんな友達が買ってくれたって・・・」

 「君はそれを信じていた・・・ ではその公演には、その内いったい何人のお客が行ったというのですか?・・・」


 「分かるでしょう、つまり彼女にしてみれば、君は彼女とはかけ離れた世界を夢見ているひとりの男。彼女もそんな君に、非日常的なところを求めていたのかもしれません。ただ、それだけの話・・・」

 「・・・・・」

 「君は彼女にとって、リスク以外の何物でもないのですよ」


 「そう言う、あんただって・・・」

 「そう、私は彼女にとって君の保険ってところかな? しかし彼女は、その『保険』である私の方を選んだということ・・・」


 そういう男の左薬指には、真新しい銀の指輪がキラリと輝いていた・・・



【語彙】リスクヘッジ

「リスク」は危険、ヘッジには「回避」という意味がある。」つまりリスクヘッジとは「危険回避」という場合によく用いられる。あえて「リスクに立ち向かう」という意味のリスクテイクとは相反する語句である。

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