Over the Rainbow
岩井喬
第1話
足元から湧いてくる気泡に鼻先をくすぐられて、『彼女』はそっと瞼を上げた。
『お母さん』が、いない……? 僅かな視界を左右に遣るが、動くものの気配はない。
『お母さん』――。いつもはすぐそばで、笑いかけてくれていたはずなのに。このガラスの筒から出られたらいいんだけれど、と『彼女』は思った。そうすれば、『お母さん』を探すことができるかもしれない。
『彼女』は、自分が培養液に浸されていることを知っている。生まれた時、意識を持ち始めた瞬間からずっとそうだったから。いつか出られる日が来るのか、それともずっとこのままなのか、そんなことはどうでもよかった。
ただ、二つのことは確信していた。自分も人間であるということ。そして、培養液の外で歩き回っている『お母さん』の方が人間としてのあるべき姿なのだということだ。
『お母さん』とは、この培養液の入ったカプセルの向こう側で、いつも忙しなく歩き回っていた女性のこと。『彼女』は、他の人間を見たことがない。だから本能的に、その女性を『お母さん』であると認識していたのだ。しかしその『お母さん』でさえ、ガラスの培養液越しにしか目にしたことはない。
多少の語彙力のあった『彼女』は、少しばかり詩的なことを考えた。自分は鳥籠に囚われた鑑賞物なのではないか、と。しかし、それもまた、培養液の気泡のように、呆気なく『彼女』の脳裏から流れ去っていく。『彼女』は自分の肩を心持ち強めに抱くようにして、再び瞼を閉じた。
その時、聴覚の及ぶギリギリの範囲で、鈍い強打音がした。再び瞼を上げ、そちらに目を遣る『彼女』。
――誰かが、来る……?
そうだ。誰かが私のところへやって来る。そう『彼女』は確信した。この建物――どのくらいの広さがあるのかは分からないが――に、初めて『お母さん』以外の人間が足を踏み入れようとしている。
しかし、驚くほどのことでもなかった。だったらどうだというのだ。人間というのは、自分が目にしていないだけで、『お母さん』以外にもたくさんいる。そのうちの誰かが、多少無遠慮な方法で乗り込んできただけだ。目的はあまり察しがつかなかったけれど。
ふっと、睡魔が忍び寄ってきた。別に緊張するほどのことが起こったわけでもないし、これからも起こらないだろう。
一種の諦念のような感情を抱いて、『彼女』は再び瞼を閉じた。
※
『彼女』が思っていたのはざっとこんなところだろうと、『僕』は後づけながらに思うのだった。飽くまで想像に過ぎないが。
その時、『彼女』は、まだ『僕たち』と出会っていなかった。それでも『僕』は、そのくらいのことは察しがつく。
何故かと問われたら返答に窮してしまうけれど――敢えて言えば、『僕』が『彼女』のことを愛していたからかもしれない。しかし、その『愛』がどういう意味合いの『愛』なのかを答えるには、しばし長い話に付き合ってもらわなければなるまい。
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