第10話

10.


 ミュンヒハウゼン症候群とは、周囲の関心を引く為に自分や他者を傷付け続けるという精神疾患の一つだ。代理ミュンヒハウゼン症候群はその対象が他者の場合を指し、主に母親が自分の子供を傷付け、『熱心で可哀想な母親』と周りに関心を寄せさせる事を目的とする病気らしい。代理ミュンヒハウゼン症候群の主な対象は子供だが、稀に配偶者や他の人間を対象とする事もあるようだ。

 石橋多江はその典型だった。生徒が傷付きその世話に奔走する事で、周囲から尊敬や同情の眼差しを受けて満足していた。

 元々石橋にはミュンヒハウゼン症候群のきらいがあった。幼い頃からわざと怪我をしては親の関心を引き、仮病を使って他人から同情を得る、といった事を繰り返していたという。

 教師になってからも、それは続いた。自分で腕を折って他の教師や生徒の同情を買った事もあったらしい。

 そんな石橋が代理ミュンヒハウゼン症候群を発症したのにはきっかけがあった。二年前、担任の女子生徒が自殺したのだ。原因は義理の父親からの性的虐待で学校生活とは無関係だったが、これは彼女の死後に発覚した事で、生前の彼女は常に明るく振る舞っていた。石橋はその笑顔の裏に潜む彼女の苦しみを見抜けなかった自分を責めた。

 失意と一部の非難の中で、しかし石橋はほとんどの同僚や他の人間が自分に同情的に接してくれる状況に、筆舌尽くしがたい安堵と満足感を得たのだという。

 彼女は十年近い教師生活を、極めて献身的に過ごしてきた。自分の専門分野を発揮出来る高等学校ではなく、もっと生徒と密着する中学校を就職先に選んだのも、思春期の子供達に真っ直ぐに育って欲しかったからだ。

 それが二年前の事件以降、歯車が狂い始めた。

 最初はインターネットの学校のサイトに生徒の悪口を書いたりプロフィールを晒したりする程度だった。生徒は石橋に悩みを相談しに来る。石橋は彼ないし彼女を励まし、他の教師にその話を漏らしては同情を買った。

 物理的な嫌がらせを始めたのは今年に入ってからだった。夜中に学校に入り、目に付いた机に落書きをしたのが最初だったらしい。机の主である女子生徒は登校すると石橋に泣きついた。嫌がらせをした当人に相談にしてくる生徒の騙されようが愛おしかった、と石橋は言った。

 それから嫌がらせはエスカレートし、一人の男子生徒が登校拒否になった。石橋は影で嫌がらせを続ける一方で、彼の自宅を毎日訪問した。その生徒の両親や他の教師陣から献身的だと言われて悦に入った。

 陸夫が目撃したのは、女子生徒をクロロホルムで気絶させ、それから病原体を注入しその生徒を病人に仕立て上げようとした所だった。生徒が入院すれば石橋は恐らく毎日見舞いに行くだろう。そしてまた熱心だ、優しい先生だ、と賞賛されただろう。その生徒の健康を代償に。

 林付近を巡回していたパトカーを捕まえて事情を話すと石橋はそのまま連行されたが、車に乗り込む際に、石橋は俺とコウを睨み付けて言った。

「貴方達さえ来なければ、私は『優しい多江ちゃん先生』で居られたのに、貴方達はそれを壊した。私を壊したのよ。もう二度と元には戻れない。私は、次に私は何を演じればいいの?」



 俺は考えてしまう。人間というものについて考えてしまう。

 五條啓太も石橋多江も、極普通の日常生活を送っていた。表面上は大衆に埋没していたと言っても過言じゃない。普通の人間として周囲に認識され、対人関係のいざこざなんかも無かった。

 しかし、仮面を取ればどす黒いものを抱えていた。下手すると法律に反するような、『倫理』に背いた事を行っていた。このご時世『倫理』だとか『道徳』だとかいう言葉の定義は曖昧模糊としたものだけど、それでも二人は、二人の本性は、明らかにそれに背いていた。

 俺は少し恐くなる。

 極普通の人間に見えても、内実はどんなもんか分かったもんじゃない。事実五條も石橋も、周囲の評判は良好だった。

 竜太郎のように真逆のケースもある。周囲から危険視されていても、実際は無害だし、良い人だ。なのに他の人間は表面的な評判に流され、竜太郎を不審者扱いし、あまつさえ嫌がらせまでしてくる。

 ニュータウン全体の空気がここまで不穏になった事はないだろう。石橋の件も、もし情報が漏れればまた住民が噂話のタネにするに決まってる。悪意と野次馬根性の垂れ流し。冷戦状態。誰も信用出来ない街。こんな状態が長く続けば、いつか誰かが爆発してしまうんじゃないだろうか。そんな事すら考えてしまうけど、あながち間違いでもないような気がする。

 そして俺は、一つの可能性に気付く。

 せいたんと九崎を殴って血を抜いたクソ野郎も、毎日普通の生活を送っているかもしれない。というか、そうに違いない。いくらイカれた事をしても、ここまで事が大きくなってるのにまだ捕まらないという事は、市井に溶け込んでいるという事だ。

 俺は更に考える。

 頭の中で声がする、というのはあまり一般的な事ではない。それは理解してる。理解した上で俺は普通の人間であろうと努力してきた。でも、俺も一歩間違えば五條や石橋と同類に思われるんだろうか? 分からない。だが俺は単純に、人間の集団の悪意が恐い。マジョリティの悪意、マイノリティの受ける圧迫。

『自分が見てきた世界が如何に矮小か、自覚する結果になるさ』

 カズヤの声が聞こえた気がした。

 最後の手段を、俺は思い付く。

 カズヤなら、この状況を何とかしてくれるかもしれない。

 勿論カズヤは柚ヶ丘には来られない。でも、話を聞いて貰うだけでも良いかもしれない。ここ数日、俺は妙な物ばかり見た。嫌な物ばかりだ。思わず目を逸らしたくなるような人間の闇だ。親父が言ったように、意識してない部分で疲れているのかもしれない。カズヤに全部話せば、ちょっとは事態を客観視出来るような気がした。

 問題は、今あのカズヤが面会出来る状態にあるか否かだ。



 林から花村家に戻ると、どうやら竜太郎と陸夫は少しずつ仲良くなっているようだった。陸夫は竜太郎が作ったフィギュアのコレクションを見て感嘆し、自分の好きなキャラクターでも作って欲しいと頼み込んで、竜太郎は快諾した。涼香さんは二人を見ながら、無表情だったけど、それでも普段よりは嬉しそうにしていた。

 石橋の件を話すと、陸夫はまた涙を流し、何度も礼を言ってきた。

「大人なんか皆クソだと思ってたけど、皆さんに会ってそうじゃないんだって思えました。勿論石橋みたいな奴も居るけど、なんか、捨てたもんじゃないって気がしてます」

 そう言って陸夫は照れ笑いを浮かべた。

 三人を残して自宅に帰る途中、コウが唐突に言った。

「おまえさ、さっきのも、声の所為か?」

「は? 何が?」

「石橋が嫌がらせを自演してるって、何で分かったんだよ。竜太郎さんのメールにはそこまで書いてなかっただろ」

「あー」

 俺は日の光に顔をしかめながら唸る。まあコイツに嘘を付いても仕方ない。

「直接そう聞こえた訳じゃないけど、なんかヒント的な事が聞こえたんだよな」

「五條の時もか? サソリの事、突然言い出しただろ」

「ああ、あの時もだ。頭が痛いくらいの大音量で声が聞こえたんだよ」

 コウは首をひねった。

「これまで聞こえてきてたのは全部支離滅裂な言葉だけだったんだろ? それが今はまるでおまえの代わりに推理してるみたいだな」

「いや、実はせいたんの事があってから、声と自分の心境がシンクロするようになったんだ」

「シンクロ?」

 コウが怪訝な顔をする。

「なんか俺の感情を代弁するような声が聞こえるようになってさ。勿論、意味不明な声も続いてるけど、たまにシンクロするんだ。こんなの初めてだし、妙な感じだよ」

「そうか。一体何なんだろうな、おまえが聞く声って。まあ、もし何か悪い事が起こったら、いや、そうなる前に一度病院に行ってもいいかもな」

 コウは心配げにそう言ったが、今の所俺にその気は無かった。日常生活に支障がないなら『障害』ではない、とカズヤは言った。意識と同調する声は確かに今までのものよりうざかったけど、まだ生活に支障は無い。別に病人扱いされるのが嫌な訳ではなかったが、俺はギリギリまで待ちたいのだ。何のギリギリかは分かんないけど。



 コウと別れて一度自宅に戻った俺は、自室の机の引き出しを開けて柊(ひいらぎ)病院の第六病棟の電話番号が書かれたメモを探した。

 長らく使用していない学習机は懐かしい物で溢れていた。高校の文化祭で女装した俺とせいたんのツーショット写真を見ると、少し鼻の奥がつんとした。探し物や掃除の途中で寄り道してしまう事はよくあるが、今はそんなセンチメンタルに浸っている場合じゃない。

 メモはなかなか見つからなかった。俺は苛立つ。高校時代の落書きや文房具や写真やらを全部引っ張り出したが、あのA5サイズの紙切れは見当たらなかった。一番上の広い引き出しを開けると、中学時代たまに書いていた日記帳が出て来た。俺は直感的にページをめくる。ビンゴ。最後のページにメモが挟んであった。

 携帯を取り出し、慎重に番号をプッシュする。呼び出し音が鳴る間、俺は動悸を覚えていた。

「はい、柊病院第六病棟です」

 応対したのは若い女性だった。

「もしもし、あの」

 俺は一瞬逡巡した後、

「そちらに入院している村雨カズヤさんと面会したいんですが」

 とだけ言った。

「ご家族の方ですか?」

「ええと、親類です。仁科逸紀と申します」

「仁科さんですね、今確認しますので少々お待ち下さい」

 オルゴールの音が流れる。モーツァルトだ。好きな曲だったが、この状態ではそこまで楽しめない。

 本来閉鎖病棟に入ってるような患者とは、家族以外面会出来る事は珍しいらしい。だが俺は、カズヤ本人の意志で、いつでも面会に行けるようになっている。とはいえ、最後にカズヤに会ったのは大学に入る前だ。二年も経っている。今のカズヤの病状は分からないし、まともに話を出来るかも危うい。でも、今の俺には他に手段が無かった。

 あれこれ考えていると、オルゴール音が消え、先程の女性の声がした。

「村雨さんは昨夜から保護室に入っています。申し訳ありませんが急な面会はちょっと……」

 やっぱり保護室か。覚悟はしてたから、俺は負けじと食い下がった。

「明日でも構いません、出来るだけ早く面会に行きたいんです」

 一瞬の沈黙の後、相手は続けた。

「仁科逸紀さんですよね? 村雨さんのご家族の方にも話は通っているようですので、主治医の許可が取れ次第連絡させて頂きます」

「ありがとうございます!」

 俺は携帯の番号を告げて電話を切った。



 せいたんの意識はまだ戻らない。

 夕方になって、九崎伸二と面会出来るとモトノから聞いた俺とコウは、中央病院まで行った。せいたんの居る集中治療室の前にはウチの母親と晴奈が居た。

「山崎さん、ほとんど寝てないのよ……」

 母親はそう言って首を振る。

「せいたんの親父さんは?」

「連絡は取れたみたいだけど、帰ってくるかは分からないって」

 晴奈が言う。やっぱりあのおっさんはおかしい。実の息子が殴られて血液を抜かれて意識が戻らない状態で、なんでそれを放置出来る? 俺はまたあの熱さを覚えるけど、何とか抑える事が出来た。

「仁科君」

 聞き慣れない声に驚いて振り返ると、そこには九崎伸二の兄、京介さんが立っていた。Yシャツのボタンを一番上まできっちり止めて、ちょっと野暮ったいズボンを履いている。顔は無表情で、どこか抜け殻のような印象を受けた。

「この前は落ち着いて話せなかったけど、珀人と知り合いらしいね」

「珀人?」

「霧島珀人だよ。大学で同じサークルなんだろ?」

「あ、はい。音楽同好会の後輩です」

「ダメ音、だよね」

 京介さんが初めて少し笑った。俺もちょっとほっとする。

「アイツとは高校時代から妙に馬があってね。今回の件も色々相談に乗ってくれてるんだ。アイツ、色々とダメな所が多いけど、悪い奴じゃないから仲良くしてやってくれよ」

「勿論です。京介さん、伸二君とは今話せますか?」

「ああ、見付けてくれた君達に礼を言いたいと言ってる。来て貰っていいかい?」

 俺とコウは頷いて、京介さんに伸二の居る病室まで案内して貰った。もう意識もちゃんとしているし、血圧も安定しているから集中治療室からは出られたのだ。

 伸二の部屋は立派な個室だった。そういえばモトノから九崎家は結構金持ちだと聞いた覚えがある。

 部屋に入るとベッドに青白い顔の九崎伸二が半身を起こしていて、その脇の椅子にモトノが座っていた。大きめの窓からはニュータウンが一望出来る。九崎の首と腕には包帯が巻いてあって、俺は冷蔵庫の中のあの姿を思い出してしまう。

 モトノは俺とコウの顔を見るとほっとした顔をした。

 伸二はどこかばつの悪そうな顔をしていたが、少しためらった後、深く頭を下げた。

「仁科さん、須賀さん、俺の事見付けてくれてありがとうございました。お二人が助けてくれなかったら、俺、死んでたかもしれません。本当にありがとうございます」

「俺からも改めて礼を言わせて貰うよ、ありがとう」

 京介さんが伸二の肩に手を置きながら言う。

「あの、ご両親は?」

 コウが聞くと京介さんはやんわりと、

「食事中だよ。コイツが安定して、二人とも緊張の糸が切れたみたいだ」

 と言った。

「伸二君、警察とも話してて疲れてるかもしれないけど、あの時の事、思い出せるかな?」

 落ち着いた口調でコウが尋ねると、伸二はビクリと身体を震わせた。やはり相当な恐怖があったんだろう。

「警察の人と基乃先輩にも言ったんですけど……、笑い声が、しました」

「笑い声?」

 俺とコウは思わず顔を見合わせる。モトノは俯いた。

「はい……。俺、後ろから殴られてそいつの足下に倒れたんですけどまだ意識はあって、そいつが笑ってるのが聞こえたんです。大笑いとかじゃなくて、引きつったような、喉の奥で押さえてるような変な声で、笑ってるんだって気付いたら、横から更に殴られて気絶しちゃって……」

「九崎、もういいよ」

 口元を押さえる伸二にモトノが声をかける。

「それから仁科さん達に助けて貰うまで、記憶は無いんです。でもあれは大人だと思います。暗くてよく見えなかったけど、声の感じで。少なくとも高校生とかではないです」

 沈黙が落ちる。大人、成人男性。そいつがせいたんと伸二をこんな目に。しかも笑ってやがっただと? 楽しんでやってたってのか?

「仁科君、須賀君、基乃さんをおうちまで送って行ってくれるか?」

 京介さんが言うと伸二が少し落胆したような様子を見せる。

「崎村さん、迷惑をかけて本当に申し訳ない。山崎君の事もあるし、今日はもう家で休んだ方が良いよ」

 モトノは無言で頷きゆらりと立ち上がった。

「先輩」

 俺とコウがモトノと共に辞そうとすると、伸二が声をかけてきた。

「やっぱり先輩は俺の女神です。色々とありがとうございました。また、来て下さいね」

 モトノは薄く笑って頷き、病室のドアを閉めた。



「私、何かしたかなぁ……」

 モトノは自宅のリヴィングに入るなり古いソファに倒れ込んだ。俺とコウは勝手に冷蔵庫を空け麦茶を頂いていた。モトノのご両親は共働きで、遅くまで帰ってこない事が多い。

「せいたんも九崎も、なんか私に関わる人があんな目に遭うと、私が悪いのかなって思っちゃう。実際警察の人にそれっぽい事言われたし。誰かが私を恨んでて、それでこんな事してるんだったら、私どうすればいいのか……」

「考えすぎだろ」

 コウがばっさり言う。コイツはいつもそうだ。モトノに甘える隙を与えない。モトノもそれを分かってて言う。

「九崎は分からないけど、せいたんは通り魔的にやられたんだ、おまえは関係無いと思うよ。気にするなって」

 俺が言うとモトノは身を起こして目を擦った。隈が出来ている。コイツもせいたんの事があってからほとんど休んでない。

「せいたんと九崎があんな事になって、私、身近な人達を大事にしなきゃなってつくづく思う。イツキもコウも、犯人探しとか危ない事はもうやめない? 私、恐いよ。この上二人まで犠牲になったら、私おかしくなる」

「俺らがそんなにやわに見えるか?」

 少し茶化して言ってみたが、モトノは眉を寄せた。

「心配だよ、恐いよ。これが夢だったらいいのに。こんな事をする人間が居て、ニュータウンがこんな風になって、まるで戦争じゃん? 警察も動いてるみたいだけど犯人が今どうしてるかなんて分からないし、もしかしたらまた犠牲者が出るかもしれないし……」

 そこまで言うと、モトノの目に涙が浮かんだ。

「もう嫌だ。これ以上誰かが傷付くのなんかもう見たくないよ……」

 泣き出すモトノを見て、俺はお馴染みの熱を体内に覚える。怒り。憤怒。クソ野郎が。今もどこかで笑ってやがるのか?

『キスして、キスして、キスして』

『流れ星見た事ある?』

『あー、俺そっち系の女は苦手なんだよな』

「モトノ、部屋に戻ってゆっくり休め。おまえも疲れてるんだ。余計な事は考えずに寝ろ」

 コウがそう言ってモトノの手を引いた。俺は見逃さない。コウの眼が、絶対零度より冷たい光を放っているのを。

 崎村邸を後にして自宅に戻る道すがら、コウが呟いた。

「絶対殺してやる」

 その声音に俺はぎょっとして、思わずコウの顔を見る。完全な無表情。

「……許せるかよ。見付けだして警察に突き出す程度で許せるかよ。イツキ、おまえはこんな事する奴をのうのうと生かしておけるか?」

 目線を下げたまま言うその迫力に、俺は少なからず驚く。

「冷静で居ろって言ったのはおまえだろ。おまえがそんなキレてどうすんだよ。逆だろ逆。俺がキレるのを止めるのがおまえだろ」

 俺は努めて明るく言ったが、コウは無言だった。俺らはそのまま家まで歩き続けた。日は完全に落ちていて、電灯の心許ない光が俺らの足下に長い影を作っていた。

「……京介さん」

 ぽつりとコウが漏らした。

「何?」

「いや、京介さんの態度が気になったんだ。実の弟があんな目に遭って、戸惑いは見えたけど、それにしては落ち着き過ぎてるというか、どこか達観してるように感じてね」

 言われてみれば確かにそうかもしれない。俺には抜け殻のように見えたけど、普通家族があんな目に遭えば怒り狂ったりもっと取り乱したりするんじゃないだろうか。事実、俺はせいたんの件で怒り狂ったし。

「京介さんって学生だっけ?」

「ああ、ここから都内の大学に通ってる。医学部だってよ」

 俺は思わずコウを見る。でもコウはやっぱり無表情だった。

「医学部って、注射器扱ったりするのか?」

 俺がそう言った瞬間、携帯が鳴った。知らない番号からだった。

「誰からだ?」

「いや、分からない。とりあえず出てみる」

 通話ボタンを押す。

「もしもし」

 聞こえてきたのは間違いなく涼香さんの声だった。落ち着いたその声音は出会った時と何一つ、何一つ変わらなかった。しかしその次に紡がれた言葉に、俺は二重の意味で驚愕する。

「今、林の奥。竜太郎が犠牲になったわ。両肘の裏と両手首に針で刺した後がある」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る