第9話

9.


 柚ヶ丘ニュータウンは殺伐とした雰囲気に支配されていた。九崎伸二が殴られ血液を抜かれた事は案の定住民の耳に入り、厳戒体制がとられた。報道こそ規制されたものの、午前中にはニュータウン中が一報に広がり、住民は戦慄した。警察が外出を控えるように呼びかけ、パトカーが狭い住宅地を這うように巡回していた。どの家も厳重に鍵を掛け、この暑いのに窓を閉め切り、隣人とすら顔を合わせないようにしている。互いが互いを監視し合うような、疑わしきは片っ端から潰しにかかるような、まるで冷戦みたいな空気が充満していた。

『人間なんてそんなもんさ』

 俺とコウは霧島先輩と別れ、急ぎ足で三丁目の花村家に向かっていた。ほんの五分の間に二度パトカーに捕まった。

 霧島先輩が発した素朴な疑問、即ち犯人が血液を何に利用しているか、保存しているのか或いは処分しているのかは、三人が頭を突き合わせても謎のままだった。というか、そんなおぞましい事は考えたくもなかった。俺は少し、恐怖していたかもしれない。怒りは勿論あったし九崎の件で更に倍増していたが、ふと冷静に事態を見詰め直してみると、これが如何に通常から逸脱した事件か再認する羽目になった。

 血液、一匹の猫と二人の人間の血液、そんなもの一体何に使うんだ?

 中央病院でのせいたんと、冷蔵庫の中の九崎の姿を思い出して、怒りに戦慄きながらも事実を確認する。つまり、猫の血を抜きせいたんを殴って血を抜き九崎を殴って血を抜き、本人達のみならずその家族や友人をやり場のない怒りと絶望の底に突き落としながら、どこかで笑っている奴が居るという事実を。

『期待するなって事だ』

『自分から傷口を晒し出すような真似するなよ』

 花村姉弟は幸い無事だった。竜太郎はまだ嫌がらせを気にしているようにも見えたが、涼香さんは初めて会った時と何一つ変化が無い。勿論嫌がらせは継続している。でも、二人ともこの異常事態に少しずつ慣れていっているのかもしれない。人間の適応能力に改めて感服する。かく言う俺も、憤怒を抱えながらもまともに動けるようになっている気がするし。

 日に日に片付いていく花村家のリヴィングで、俺とコウは霧島先輩の疑問を二人に話した。

「確かに注射針の売買は薬事法に触れるわね。でも私が見る限り、医療現場から注射器や針が少しくらい盗まれても気付く人はあまり居ないんじゃないかしら。科にもよるけど、慌ただしい所なら出入りも激しいし……」

「成る程。竜太郎さん、ネットオークションなんかで針の売買を見た事はありますか?」

「ん~どうだろう、僕はフィギュア関連でしかやらないからな……。でもオクも最近検閲が厳しくなってきてて、違法な商品の売買は昔と比べるとかなり減ったって聞くよ」

「そう考えるとやっぱり医療関係者の線が濃厚……ですかね」

 四人で話していると、定時でもないのに町内放送のチャイム音が鳴り始めた。

「何だ?」

「もしかして、犯人が見付かったとか?」

 涼香さんが庭に面した窓のシャッターを開けると、放送はクリアに聞こえた。

「こちらは、柚ヶ丘警察です」

 男の声はエコーがかかって何度も聞こえた。

「本日十一時頃から、柚ヶ丘七丁目の男性の行方が分からなくなっています。男性は七十代後半、服装は白いタンクトップにベージュのズボン、白いタンクトップにベージュのズボンです。お気付きの方は速やかに柚ヶ丘警察までご連絡をお願いします。繰り返します。本日十一時頃から……」

 アナウンスが同じ内容を繰り返す中、俺ら四人は最悪の事態を恐れていた。

「まさか、また……?」

 竜太郎が声を震わせながら言う。恐らく放送を聞いたニュータウン住民全員が同じ事を思っているだろう。ただ一人、真犯人を除いて。

「そういえば須賀君は県警に知り合いが居るって言ってたけど、警察は今どう動いてるの?」

 落ち着き払った口調で涼香さんが尋ねると、コウは首を横に振った。

「ダメです。九崎の事件以降、全く連絡が取れません。僕の推測ですが、せいたんの事件と同一犯と見なして捜査本部が設置されている可能性もあるかと。僕らもまたいつ呼ばれるか分からない状態です」

「九崎君は意識を取り戻したんだろ? 何も有益な発言は得られなかったのかな?」

「モトノからメールが来たんすけど、昨日の夜八時頃に瀬浦川の大橋に着いて、自転車から降りてモトノを待っていた事しか覚えてないみたいです。後頭部とこめかみを殴られてたし、記憶が混乱してるっぽくて」

 その時、インターホンが鳴った。俺とコウより花村姉弟の方が驚いていた。

「いたずらかしら」

「もしかして警察が……?」

「俺らが様子を見ます」

 俺とコウは立ち上がり、玄関まで行ってドアの覗き穴を見た。先に覗いたコウは首をひねり、続いて見た俺は意外な人物の来訪に心底驚いていた。

『千客万来だな。でも最後まで残るのは誰だ?』

 コウがドアを少し開けて、顔だけ出して声をかける。

「何の用だ? おまえ一人か?」

「ひ、一人だよ!」

 せいたんが土井橋で見付かった後、他ならぬ花村竜太郎が怪しいと言っていたあの目のでかいガキが、あの時の余裕ぶった態度とは一変して恐怖に震えながら叫んだ。

「お願いだ、助けて欲しいんだ! 中に入れてくれよ!」

「ちょっと待ってろ」

 俺はその場に残ってガキを見張り、コウが家主に事の相談に行った。すぐに戻ったコウは苦虫を噛み潰して間違って飲み込んだような顔をしていた。

「入れ」

「涼香さんが許可したのか?」

「ああ。俺には理解出来ないけどな」

「ありがとう、ございます……!」

 目のでかいガキはチャリを門扉の脇に置いて花村邸に足を踏み入れた。



 その頃、俺の知る由のない話だが、七丁目の老人が瀬浦川大橋から近い水辺で発見される。

 見付けたのはこっそり家を抜け出した小学四年生の悪ガキ二人で、認知症の老人がズボンと下着を脱いで川に入って行く所を見て土手から降りた。そして老人の尻が便で汚れている事を笑い、罵倒した。

 最初は何の反応も見せなかった老人だったが、ガキ共が石を投げつけたり木の枝で突いたりすると猛烈に激怒し、そばに浮いていたゴミを投げ返した。しかし体力の無いご老体は物を投げつけても見当違いの方向に落ちるばかりで、悪ガキ二人は笑い転げながら更にいたずらを繰り返した。

 しかし、老人が投げつけたある物がガキの一人にヒットした瞬間、事態は一変する。

 これは後に噂にもなったし、俺も県警に居るコウの先輩から又聞きした程度だが、恐らくほとんど事実だろう。

 老人が投げたのは500ミリリットルのペットボトルだった。商品名などが書かれたラベルは剥がれており、中に赤黒い物が入っていたという。キャップはきちんと閉まっておらず、ガキの肩に当たると中身が漏れた。

 その臭いと、ぶちまけられた中身の質感に、ガキは一瞬声を失う。

 それは冷蔵庫に保存された冷たいプリンのような物体で、一部は透明に近い液体だった。ガキはその生臭さに驚き、どろりと滴ったそれに悲鳴をあげた。もう一人は最初その様子を見て笑ったが、近付いてその物体を触ると黙り込んで、今度は二人同時に泣き出した。

 その声を聞いた町内会の雄志パトロール隊が駆けつけ、事態が明らかになる。

 後の警察の鑑定でも証明された事実。

 ペットボトルに入っていたのは、九崎伸二の凝固した血液だった。



「誰も俺の言う事を信じてくれないんです」

 目のでかいガキは柴田陸夫(りくお)と名乗り、竜太郎を犯人視した事を深く謝罪した後、そう切り出した。

「俺、柚ヶ丘中の三年なんですけど、ある教師が、えっと……」

「陸夫君、落ち着いて」

 大きな目に涙を浮かべる陸夫に、竜太郎が声をかける。

「石橋多江っていう教師が居るんです、理科の。俺の学年のB組の担任で、生物部の顧問もやってます。明るくて人気だから他の連中は『多江ちゃん先生』とか呼んでて。実際石橋は悪い奴じゃないと、俺も思ってました。不登校の奴の家に毎日行ったり、熱心な教師で。俺、授業フケたり他の生徒殴ったりする事とかあるんで教師の目の敵にされてるんですけど、石橋は俺が授業サボっても他の教師みたいに怒鳴りつけたりしなくて、俺も、良い奴かもって、思ってて……」

 陸夫はそこまで言うと震えだした。この脅え方は尋常じゃない。

「その石橋って奴がどうしたんだ? 何があった?」

 コウが尋ねると陸夫は大きな目をこちらに向けた。今にも涙がこぼれ落ちそうだ。

「さっき、ちょっと学校に行ったんです。そしたら友達の彼女が理科室に入ってくのが見えたんです。その子は生物部の二年なんですけど、俺、その、何となく様子を見たんです」

「要は覗いたのね」

 涼香さんがばっさり言うと陸夫は軽く頭を掻いた。

「でも中を見たらビックリしました……。部屋の奥に居た石橋がその女子の後ろから襲いかかったんです。口元に布を押し付けたら、その子はあっけなく気絶しちゃって……」

「クロロホルムか何かかな? 中学の授業でも使うだろうね」

 竜太郎が低い声で言う。確かにそういった薬品も、理科教師なら自由に使えるだろう。

「それで、どうしたんだ?」

「えっと……、石橋がその女子を抱きかかえて座ったと思ったら、いきなり注射器を取り出したんです」

「注射器だって?」

 思わず俺が聞き返すと、陸夫はぶんぶんと頭を縦に振った。

「実験の授業で見た事あるから間違いないです。あれは注射器でした」

 俺とコウはそっと視線を合わせる。

「石橋がその女子に注射器を刺そうとしたから、俺慌てて止めに入ったんです。したら石橋が、見た事無いくらいキレて襲ってきて……。別人みたいでした、完全に眼がイってて。石橋は体格が良いんです。俺より背も高くて運動とかもやってたらしくて、結局俺は追い出されちゃったんで、慌てて職員室に行きました」

『オオカミ少年の舌を抜く』

『目抜き通りはこの先だよ』

「……でも、さっき言った通り、他の教師は俺の言う事なんか全然信じてくれなくて、一応俺の担任の鈴木が理科室まで来てくれたんですけど、石橋は平然と『この子が急に倒れたから今人を呼びに行こうとしてたんです』とか誤魔化して……」

「まあ、普通の教師なら学年の問題児よりは同僚の方を信じるでしょうね」

「そうなんです……。確かに俺は去年まではカツアゲ的な事やったりもしてたけど、今はやってないし反省してるし……。なのに鈴木は俺の事嘘つき呼ばわりしやがって、嫌がらせの犯人もおまえだろうとか言ってきて……」

「嫌がらせ?」

「あ、はい。最近B組の連中とかが変な嫌がらせを受けてるんです」

「具体的には?」

 コウが聞くと、陸夫は少し顔を上に向けて思い出そうとした。

「えっと、机に落書きされたりゴミを入れられたり、ロッカー壊されたり靴を焼かれたり、色々です。石橋も生徒からその悩み相談とか受けてるみたいで。他の生徒や教師は俺がやってるとか言ってますけど違います、俺はそんな事してません」

「嫌がらせを受けてるのは、その石橋のクラスの生徒だけか?」

 再びコウが聞く。右手を顎にそえて、何かを考えてる顔だ。

「そうです。あ、でも一回生物部の連中も何かされたんだっけな? 俺クラス違うんでちょっと分かりませんけど……」

 陸夫が黙ると室内に沈黙が落ちた。

『大丈夫大丈夫って、自分に言い聞かせて効果ある?』

『烙印、断罪、贖罪、さあ歌え』

「違ったら申し訳ないんだけど」

 竜太郎が唐突に切り出した。

「陸夫君って、一丁目の柴田さんちの子?」

 瞬間、陸夫がビクリと身体を震わせる。そして更に不安げな表情を作った。

「知って、るんですか……。ウチの親の事……」

「どういう事すか?」

 俺が聞くと、コウが思い出したように言った。

「聞いた事があります、確か一丁目に何年か服役してる人が居るって」

「服役?」

「イツキ覚えてないか? 当時軽く噂になったけど」

 俺は記憶の糸を辿ったが、何も思い出せなかった。

「ああ、私も聞いた事あるわ。確か傷害事件か何かで逮捕された人が居たって」

「それ、俺の親父です……」

 消え入るような声で陸夫はそう言って俯いた。再び沈黙が落ちる。

 父親が犯罪者という事実。その所為で陸夫がこれまで周囲からどんな扱いを受けてきたかは想像に難くなかった。

「嫌な事聞いちゃったね、ごめん」

 竜太郎が謝ると陸夫は少し驚いたような顔をする。

「そんな、とんでもないです。俺の方こそ……」

「その話はもう良いわ。それで、続きは?」

 今度は俺が驚く番だった。涼香さんも気にしてないのか。この酷い嫌がらせを発生させたきっかけの一人である人間を、こうも簡単に許せるものか?

「石橋の注射器を見て、吸血鬼事件の事を思い出したんです。もしかして石橋は、注射器でその女子の血を抜こうとしたんじゃないかって。そしたら俺マジで恐くなりました。でも他の大人は俺の言う事なんか聞いてくれないし、母親はアル中で男の所に入り浸ってて俺なんか放置だし……。須賀さんと仁科さんがここに出入りしてるのは知ってたんで、他に頼れる人が居なかったから……」

 今度こそ、陸夫の目から涙がこぼれた。いくら粋がっててもコイツはまだ十四のガキだ。他人、特に大人から拒絶されれば恐怖も絶望も抱くだろう。こぼれる涙を拭こうともせずに、陸夫は震え続けていた。

「石橋は注射器の扱いには慣れてるのか?」

「あ、前に大学で生物専攻だったとか言ってたんで、実験とかでは使い慣れてるんじゃないかと思います。人間相手はどうか分かりませんけど」

「そうか。ニュータウンに住んでるのか?」

「確かそうだったと思います。本町だったかな」

「分かった。陸夫、ちょっと隣に行け。四人だけで話したい。涼香さん、隣良いですか?」

「構わないわ。散らかってるけど気にしないでね、陸夫君」

 陸夫は一礼した後コウの言う通りリヴィングを後にした。

「俺は陸夫が嘘をついてるようには思えません」

 コウが言うと、花村姉弟も同時に頷いた。

「陸夫君より背も高くてガタイも良いなら、これまでの犯行も不可能じゃないと思うな」

「そうね」

『ロウソクの火、消さないでね』

『不特定多数の仮想敵』

『ターゲット、ターゲット、ターゲットは誰だ?』

「調べてみる価値はあると思います。イツキ、どう思う?」

 俺は一瞬考えて、素朴な疑問を口にした。

「事件と関係あるかは分かりませんけど、陸夫が言ってた嫌がらせっていうのが気になります。被害者は石橋が受け持つ生徒だけみたいだし」

「それなら僕がネットで調べられるかもしれない。後でちょっと見てみるよ」

 竜太郎はここ何日かで見違えるほど頼もしくなったように思う。

 コウが和室の陸夫を呼び戻し、話を再開した。

「陸夫、今石橋がどこに居るか分かるか?」

 コウが言うと陸夫はぱっと顔を上げた。

「信じてくれるんですか……?」

「おまえは生意気なガキだが、俺には嘘を付いているようには見えない」

 俺が言うと陸夫はまた大粒の涙をこぼした。

「ありがとう、ありがとうございます……」

「で、石橋は?」

「えっと……、午後から生物部の活動があるって聞いたんで、多分林で昆虫採集とかしてるはずです」

「警察が外出は控えるように言ってるだろ」

「いや、なんか企画の為にどうしても必要な物があるとかで、引率が居るから大丈夫だろうって」

「そうか」

 俺とコウはほぼ同時に立ち上がった。

「竜太郎さん、涼香さん、俺らちょっと行ってきますね」

「うん、くれぐれも気を付けて」

「俺も行きます!」

 陸夫は勢いよく言ったが、コウはそれを制した。

「もし石橋が本当に危険な真似をする奴なら、それを見たおまえに危害を加えようとするかもしれない」

「じゃあ、俺はどうすれば……」

「ここに居ればいいわ」

 涼香さんが例によって涼しげに言った。

「え、でも俺、最初竜太郎さんの事……」

「陸夫君が噂を広めた訳じゃないのは分かってるよ。そりゃ少しは引っかかるけど、君だって被害者なんだ。他に頼れる人が居ないんだろ? 僕らは陸夫君を信じるよ」

 それを聞いた陸夫は泣きながら何度も頭を下げた。



 外は酷く暑かった。強烈な日光が俺とコウの肌を焼く。相変わらずニュータウンは閑散としていて、熱い空気はやはりぴりぴりとしていた。嫌な空気だ。日光に針が含まれているようだった。林の入り口に辿り着く頃には、俺らは汗だくになっていた。

 林はさほど広くはない。住宅地の切れ目にある墓場から瀬浦川までの区域だ。墓場は古くからの住民のものだったか、最近拡大して我が仁科家も祖母の骨を実家からこっち移した。俺もいつかきっとここに入る事になるんだろう。

 俺とコウは無言で林に足を踏み入れた。木の葉の間を縫って悪意たっぷりの日光が落ちてくる。

 生物部の連中はすぐに分かった。男子生徒二人と女子が一人、林を少し入った所で虫かごをぶらさげてうろついていた。俺は素早く視線を動かし石橋を探す。

「みんな、水分はちゃんと摂ってる?」

 背の高い、ちょっと小太りな女が姿を現した。年は三十代前半くらい、Tシャツにチノパンというラフな格好で、汗で輝く顔には慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

「あれか」

 コウが声を押し殺して呟く。俺は頷き、そっと歩を進める。俺らに気付いた生徒三人は作業を中断してこちらを見遣った。石橋は不思議そうな顔をする。

「柚ヶ丘中学の石橋先生ですね?」

 得意の営業スマイルでコウが尋ねると、石橋はそれに負けない笑顔で肯定した。

「そうだけど、私に何か用かしら? これは部活動の一環で、終わったら生徒はすぐ帰宅させるから問題無いわよ?」

「そうでしたか。でも僕らは先生に用があって来たんですよ」

「あら」

 石橋は汗を拭きながら少し驚いたような顔をする。

「何かしら?」

「注射器」

 俺がひとこと言うと、石橋は一瞬小さな眼を細めた。おおらかな雰囲気に若干の敵意が滲んだのを、俺は見逃さなかった。反射的に警戒する。

「貴方達、ちょっと向こうのお墓で待っててくれる?」

「えーでも先生、俺まだ捕まえてないよー」

「大丈夫よ、すぐ終わるから」

 にこやかに石橋は言って、生徒三人が去るのを見ていた。沈黙の中、風が木の葉を揺らす音が響いた。

「先生は大学で生物学を専攻されていたと聞きました」

「ええ、応用生物学部よ」

 石橋はあくまでも笑顔だった。

「実験で麻酔などの際、注射器を扱われていましたか?」

「そうだけど、用件は何かしら? 率直に言って欲しいわね。あの子達をこの暑さの中待たせたくないし」

「先程学校で、女子生徒に注射器を刺そうとしたらしいですね」

 コウが笑顔のまま言うと、石橋は溜め息を吐いた。

「陸夫君ね? あの子はある事無い事何でも話すのよ。いちいち相手にしてたら身が持たないわ。他の先生方も手を焼いてるのよ。貴方達も振り回されない方が良いわ」

「俺らは陸夫が嘘を言ってるようには思えないんすけどね」

 また石橋が目を細める。

「証拠も何も無いじゃない、私がそんな凶暴に見えるかしら?」

「生憎、僕達は人を見た目で判断するような事はしませんので」

 コウがぴしゃりと言うと、石橋に苛立ちが見え始めた。

「貴方達、何なの? 人を犯罪者みたいに言って、一体何がしたいの?」

「昨日の夜どこで何をしていたか、教えて貰えないっすかね」

 俺が言うと石橋は更に顔をしかめた。

「もしかして吸血鬼事件の事? 私は関係無いわ」

 その時、俺の携帯にメールが来た。竜太郎だ。俺は一礼してから素早く本文に目を通す。


『陸夫君の言う通り、嫌がらせの被害に遭ってるのは石橋と関係のある生徒だけだったよ。不登校になった生徒は、ネット上でプロフを晒されたりBBSを荒らされた事がきっかけだったらしい。他の生徒も男女分け隔て無く陸夫君が言ったような酷い嫌がらせを受けてる。制服を燃やされた女子生徒も居るみたいだ。石橋の評判も調べてみたけど、皆が皆良い先生だとか教育熱心だとか言ってるよ。その分裏が恐いけどね。くれぐれも気を付けて』


 コウと石橋は言い合いを続けている。しかし俺は竜太郎のメールから、まるで携帯の液晶から何かが頭に流れ込んでくるような不快な感覚に囚われる。頭がガンガンする。

『憐憫を一身に悲劇のヒロイン。表彰モノだね』

『全部アイツの自作自演さ、幕が下りればどうなることやら』

『それは完全に精神疾患である』

『同情心は良い餌なんだよ、仮面を被ったモンスターのね』

 そうか、そういう事か。

「イツキ?」

 俺の様子に気付いたコウを無視し、俺は俯いたまま石橋の汗まみれの顔を睨んだ。

「先生のクラスには不登校の生徒がいるらしいっすね」

「ええ、私はほとんど毎日顔を出してるわ」

「その生徒が不登校になった理由は、ネット上でプロフィールを晒されたりしたのがきっかけらしいっすけど、ご存知でしたか?」

 石橋の鉄壁の笑顔に、ほんの少しヒビが入る。

「他にも先生のクラスの生徒が何らかの嫌がらせを受けている。生徒は先生に相談に行ってるみたいですね。制服焼くとか、かなりタチの悪い事も起こってる」

 石橋は黙り込んだまま俺を睨んだ。小さな瞳の奥に、何かが渦巻いているように感じた。

「普通のいじめならターゲットは一人に絞られるはずです。逆に不特定多数に対する嫌がらせなら学年や学校全体を巻き込むもんじゃないすかね? 先生は色々と相談に乗ったりして、きっと他の教師の方々からの信頼も厚いでしょう。或いは同情も受けているかもしれないっすね、『生徒があんな風で大変だ』とか。どうですか?」

「それが何なの? 私は生徒達の事を思ってるだけよ?」

「全部自分でやっといてっすか」

 俺が言うと、コウが目を見開いた。石橋は途端に顔を真っ赤にして叫んだ。

「言いがかりもいい加減にして! 何なの貴方達! 私が可愛い生徒にそんな事する訳ないでしょ! それ以上言うなら警察呼ぶわよ!」

 その声に驚いた頭上の小鳥達がばさばさと一斉に飛び立っていった。

 俺もコウも、石橋のその態度で確信を持つ。

 コイツは、周囲の関心を引く為にわざと生徒に嫌がらせをしている。

「……確か、代理ミュンヒハウゼン症候群、でしたか」

 コウが静かに言った。

「周りの気を引く為に近しい人物に危害を加え続けるという立派な病気です。石橋先生、すぐに自首して治療を受けるべきだと思いますよ」

 石橋は眉をハの字にして唇を震わせていた。一歩一歩ふらふらと後退し、樹木に体重を預ける。セミの鳴き声がする。木漏れ日が俺ら三人を照らしていた。

「多江ちゃん先生、大丈夫?」

「さっきの声、何?」

 墓場で待っていたはずの生徒三人が戻ってきた。その純真無垢な表情を見ると、石橋は両手で顔を覆って泣き始めた。

「来ないで、貴方達、こっちに来ないで……!」

 座り込んで、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるその姿は、さっきまでのおおらかさからは程遠いものだった。

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