第1話

 1.


 人間誰しも自分の価値観が揺らぐと不安になるし恐くなる。信じていた物がなくなったり崩壊したり、或いは裏切られたり、生きていればそういう局面には何度も遭遇する。その度に俺ら人間は認識を改めアップデートし、修正する。その作業は時に苦痛にもなるし、困難な事もある。パラダイム・シフト。意識の変革は、そんなに楽なもんじゃない。でもそれにいつまでも拘泥していたら、この人間社会では当然生きてはいけない。古くなった定義、誤った認識は淘汰される。時には人為的に。だから俺達は、いつでも内容を書き換えられるよう柔軟な考えでサヴァイブしていかなきゃならない。

 頭の中の声。常に脳内で誰かの話し声がして、それは自力で止められるもんじゃなくて、壊れたラジオみたいに音声が溢れ続ける。

 というのが、小学二年生までの、俺の認識。

 あれは秋だったか、いつものようにコウとせいたんとモトノとで下校していたら、また、声がした。

『三つの眼を持った犬の尻尾が二本になった』

『次週! 英雄の無念の死を見逃すな!』

『あ、布団が吹っ飛んだ』

 最後のダジャレに不覚にも吹き出して笑ってしまった俺に、三人の視線が刺さる。

「なに笑ってんの?」

「思い出し笑い? 何がおかしいの?」

 繰り返すが、その時まで俺は、声は皆それぞれ聞いているものだと思っていた。敢えて口には出さないけど、人間だったら誰でも声を聞いてる、それが俺の中の固定観念だった。だから俺は素直に答える。

「声だよ。変な事言うから笑っちゃった」

 コウは怪訝な顔をし、せいたんとモトノが顔を見合わせた。

「声って誰の?」

 線路沿いの道に、他に人は居なかった。コウが辺りを見回して確認する。

「声だよ声、頭の中の」

 笑いながら俺が言うと、三人はますます訳が分からない、といった顔。その表情、人間そっくりの宇宙人を一生懸命見分けるみたいな顔つきは、ちょっと俺を不安にさせた。何か変な事を言っただろうか? 普通の事なのに?

 俺は慌てて続ける。

「声だってば。おまえらも聞いてるだろ? 頭ん中でいつもうるさい声」

「俺には、聞こえない」

 とコウが眉を寄せたまま、静かに断言した。

「イツキ何言ってんの?」

 モトノが苦笑いしながら首を傾げる。

「声なんかしないよ」

 せいたんがいつものふわふわした声で言う。

 聞こえない?

『さあさあ、北半球最高のエンターテイメントが始まるよ!』

『昇降口で待ってるから』

『猫は必死になって鼠を追いかけました』

 俺の隣の家に住むコウは、そのまま一緒にウチに来た。

「お母さんに言った方が良い」

 分厚いメガネを押し上げながら言うコウは、少しばかり深刻な顔をしていた。

 俺といえば、短い人生で築き上げてきた価値観と認識の脇腹に強烈なキックを食らったような、または自分が突然ヒトでない物に変身してしまったような、要するに戸惑いを隠せない間抜けヅラを晒していた。

 出迎えた母親は様子がおかしい事に気付いたらしく、いつもの三割増くらいの笑顔を浮かべて俺らを家にあげた。

「声?」

 リヴィングのソファに座ったコウが、俺の代わりに事情を説明してくれた。不思議そうにしてこっちを見遣る母親に、俺はすがりついた。

「声だよ! 母さんも聞こえるでしょ? ずっとうるさい声だよ!」

 俺の必死さが、逆に母親の不信感を煽ったようだった。

 母親は礼を言ってコウを家に帰し、俺の隣に座って頭を撫でながら事情聴取を開始した。

 声はいつから聞こえるのか、男の声か女の声か、知ってる声か、どんな事を言ってるのか、今も聞こえるのか、等々。

 俺は半泣きになりながら答えていった。

 小さい頃から声は聞こえる。声の種類は多種多様で、知ってる声もする。内容は滅茶苦茶で一貫しない。そして、今も聞こえている、と。

 その日は珍しく親父が早く帰ってきた。両親は食卓で何やら真剣な面持ちで話し合いを始め、俺と妹の晴奈は仕方なく二人で遊んだ。両親が、病院がどうとか言い合ってる様子に、気付かないふりをする。その内遊び疲れて眠ってしまう。

「逸紀、今も声はするか?」

 翌朝ベッドで目覚めた俺を、心配そうに見つめながら親父が聞いてきた。俺は寝ぼけ眼をこする。

『豚肉はよく火を通さなきゃダメよ?』

『言い訳ばっかりしやがって』

「うん、聞こえる」

「そうか」

 親父は少し考え、その後厳しい口調で言った。

「その声の事は、人に言っちゃ駄目だぞ。何か聞こえても無視するんだ。聞こえないふり、出来るだろ?」

 俺はまだ茫洋としたままの頭で頷いた。



 今だったら頭か心に問題があるとかって心療内科にでも放り込まれそうな話だが、当時はまだそういった事柄には偏見が残っていた。ましてこんな田舎に出来たばかりのニュータウンでは、親が世間体を気にしたとしても無理はない。時代を感じるね。

 とにかく、親父に『聞こえないふり』を命じられた俺は、学校生活を送りながらそのスキルを身につけた。

『風船の中身は何だ?』

『先日伺った投資の件ですが』

『犯人はいまだ逃走中』

 聞こえない聞こえない。

『空っぽの金魚鉢』

『えー、アイツ性格悪いよ絶対』

『設計図がなきゃ無理だ』

 それにしても、これは未だにそうなんだけど、声は俺の知らない事も結構言う。たかが小学生には理解出来ない事も多々聞いた。中には何の事か気になって、親に聞いたり調べたりして、それでも分からない言葉やフレーズもあった。

 難しい事や知る由も無い事を聞かされる日々の中で、俺はガキなりの短絡的な結論を出す。

 この声はきっと、俺が特別だから聞こえるに違いない。

 さすがに正義の味方、とまでは考えなかったが、自分は選ばれた存在で、何か特別な力を持っているんだとに考えるようになった。スペシャルな存在価値。普通じゃないモノ。

 中学に上がってもそんな根拠の無い選民意識は抜けなかった。

 二年の夏、初めて付き合った女子に、こっそりと声の事をカミングアウトした。

 受け入れて賞賛してくれると確信していたのに、彼女は目の色を変えて言った。

「それ、ご家族には話してる? 幻聴は立派な病気だよ。しかもそんな昔からずっとだなんて。パパの知り合いに精神科の先生が居るから、良かったら紹介しようか?」

 目の前が真っ暗になるとはまさにああいう時に使う言葉だろう。

 選ばれし者のはずが、一瞬で病人扱い。俺の困惑とショックはでかかった。その女子とは程なくして別れたが、俺はこの声を軽々しく他人に告白すべきでないと学ぶと同時に、鬱期に突入した。

 俺はおかしいのか? 異常なのか? これは病気なのか?

『なんかカエルの卵みたい』

『シーチキンおにぎり食いてえ』

『つまりオイゲン・ブロイラーが提唱したのは』

 声は変わらず響き続けた。

 日に日に口数が減り、家族は勿論コウやせいたんやモトノ、他の友人達も俺を心配し、いたわり、何でも話してみろと手を差し伸べてくれた。でも、俺はその手を取る事が出来なかった。そんな資格が自分にあるかどうかも怪しかった。

 彼らに隠れて幻聴について調べてみたが、さしたる収穫も無ければ解決策も見付からなかった。俺は幻聴幻覚を引き起こすような薬はやってなかったし、幼少期のトラウマとやらも無い。そもそも幼少期から声はしてた。精神疾患があるか否か自己判断は出来なかったけど、自覚する限り、声以外に何か問題があるとは思えなかった。

 それでも俺は恐くなる。

 小二のあの日、自分が普通だと思っていた事がそうではないのだという事実を突き付けられた時から、俺は自分の感覚・意識を信じられなくなっていたからだ。

 自分には赤に見えるけど、本当は青いかもしれない。俺には甘く感じられるけど、他の人は苦いと言うかもしれない。俺は楽しんでるけど他はそうじゃないかもしれない。俺は友達だと思ってるけど相手は違うかもしれない。俺は正しいと思ってるけど本当は悪かもしれない。俺は生きてるつもりだけど、実は違うかもしれない。

 控えめに表現しても地獄だった。

 誰でもいいから助けてくれ。

 村雨(むらさめ)カズヤが突然我が家に押しかけて来たのは、そんな時だった。



「おまえが異常か正常か、それを決めるのは他ならぬおまえ自身だよ。自分を異常者だ異端児だと定義して自己憐憫に浸ろうが、逆に自分は普通であるとして健常者の日常に埋没しようが、好きにすりゃいいじゃねえか。他人がどう言おうが、最終的なジャッジをするのはおまえなんだよ」

 あのぎょろぎょろとした眼で、あの渋くてよく通る声で、カズヤは言った。

 母方の遠縁にあたるこの男は、五日間の滞在で俺の所有物を物理的にも精神的にも破壊した挙げ句、巧みな誘導尋問で俺に声の事を暴露させたが、俺に後悔は無かった。

 家族や親友達には話せないと思っていた所に、奇跡的なタイミングで現れた年上の親戚。しかも『天才』と名高い存在は、俺にとってはまさに救いの船だった。まあ厳密に言えばカズヤは酷い騒動をも巻き起こしていたから、相対的に見ればプラマイゼロって所だったんだが、それはそれ。

 おまえ次第、と言われて何も言えなくなった俺に、カズヤは更に言った。

「でも、今のおまえを見るに、ちょっと同情や憐憫を求めてる感じは否めないな。そういうの、見てるとムカつくんだよ」

 ぱっと顔を上げると、カズヤはでかい眼で俺を正面から見た。

「正直、脳内で声がするっていう現象には非常に興味をそそられるよ。物心付いた時から、他に顕著な精神疾患が無い状態で幻聴だけ続くってのは珍しいからね」

 至極面白そうに、カズヤは言った。新たな実験材料を手に入れたマッド・サイエンティストのように。

「ま、日常生活に支障が無いなら『障害』じゃないと、俺は思うけどね。好きにしろよ、おまえ次第っつったろ? 自分の事は信じられなくても、今守りたい物、失いたくない物くらい分かるだろ。それをよく考えるんだな。おまえの判断次第で、それらは劇的に変わるんだから」

 俺は何も言えなかった。そう言われてから丸二日考え込み、そうこうしてる内にカズヤは実家に連れ戻され、日常が戻ってきた(カズヤはまさに『非日常』っていう単語を体現する人間だ)。

 朝起きて、飯食って、学校行って、帰って寝る。そんな一見単調で味気ない生活が、俺はとても愛おしかった。嫌いなクラスメイトもムカつく教師も親友も友人も知人も無関係な人間も、俺は失いたくなかった。

 結果として、俺は自分が少し人と違う面を持っているという事実を受け入れ、それでもそのまま生きていく、という道を選んだ。選民意識や自己顕示欲が異様に高まる十代の、しかも十四才という年齢にしては、この決断と後の努力はなかなかのもんだと、我ながら思う。

 何も聞こえないふりをして、枠からはみ出ないように尽力する事。

『折れ線グラフの便利な点はだね』

 聞こえない。

『何度でも言う、行かないでくれ』

 聞こえない。

『今のはサッカーで言うオフサイドだな』

 聞こえない。

 こうした努力の結果、俺は極めて平凡な人間に育った。

 高校時代から音楽にのめり込み、ろくに勉強せずにバイトして遊びまくって、それでも柚ヶ丘から出たかったから両親に頼み込んで都内のバカ大学に進学を決めた。

 元々成績優秀だったコウ(こいつもカズヤの被害者だ)は、国立大学の法学部にストレートで合格し、せいたんは進路に関して両親と折り合いが付かず結局パラサイトのフリーターとなり、モトノは県内の女子大に進んだ。

 三人とは普段からもちょくちょく連絡を取り、地元に帰れば必ず一緒に遊んだ。声の事を知りながらも変わらず接してくれる数少ない親友達。

 俺は守りたいものを守った。声は相変わらずうるさかったけど、割り切って生活する術を磨いた。事実、高校時代も今の大学でも、俺は極普通の人間として認知されている。声の事をこれ以上誰かにカミングアウトする気もなければ、その予定も無かった。

『終わりの始まり』

 そして、夏が来る。

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