陽だまりに色があるなら

 妹島せじまミナト。彼女は高校の同級生だった。一言で表現するなら変わった子。模範的な生徒だった私からすると、少し羨ましい気持ちで遠巻きに眺めていた相手だった。テストの成績はたいてい一番なのに、授業はたまに欠席する。明るく人当たりよく、常に友人に囲まれている。特に休み時間には集まった子たちが彼女の手元を覗き込んで、何やら騒いでいることが多かった。太陽のような存在感に似つかわしく彼女は鮮やかな黄色を好んだ。ひまわり色のヘアピンをよくつけていたのを覚えている。


 同じ教室の空気を吸いながら彼女と私はろくに言葉を交わしたことがなかった。欠席さえ黙認されている彼女はとても遠く思えたから。私たちが初めて向き合って話したのは卒業式の後だった。西日の射し込む教室で、前方のディスプレイはもう暗く落とされていた。つい先ほどまで担任お手製のお祝いメッセージが表示されていたのに。窓辺に立った彼女は微動だにせず、じっと外を見つめていた。荷物をまとめながら声をかけてみたのは、ほんの気まぐれとちょっとした名残惜しさから。


「帰らないの」

「ん、ちょっと感慨に浸ってた」

「何それ」

「……学生最後の日だからね」

「進学、しないんだ」


 意外だった。彼女ほどの成績ならいくらだって選択肢はあったろうに。必要以上に驚いた顔をしてしまったのか、彼女は苦笑した。


「まあね。色々あるもので」

「もしかして、総代も断ったの」


 普通なら成績順に決められるクラス総代が私に回ってきたのは疑問だったのだ。壇上に立って証書を受け取るのはきっと彼女だと思っていた。たぶんクラスメイトもみんな。


「それは違うよ。私は欠席が多かったから、最初から除外されてたと思う」

「関係あるの」

「うん、わざわざ先生に呼び出されて教えてくれた。そんなこと聞かされなくても不満なんてなかったのにね。今はほら、欠席つく人なんてほとんどいないじゃない。みんな健康だし、学業に打ち込んでいたかどうかなんて調べれば誰にだってすぐわかっちゃう。でも昔は、遅刻とか欠席は評価に大きく響いたんだって。制度はその時代をまだ引きずってるんだね。変だけど」

「じゃあやっぱり、妹島さんの方が」

「ううん、違うよ。全部ひっくるめて君がこのクラスでいちばんだったってこと。まだ納得いかないの」


 小首をかしげた彼女は手のひらを私にむけて差し出した。柔らかな微笑とともに。


「ね、この手を取ってくれたら私の秘密を教えてあげる。そのかわり、時間をすこしちょうだい。きっと損はさせないよ」


 結果として私は、彼女に手を取られて街に出た。見知らぬ路地を何度も抜けてたどり着いたのは白くて四角い建物だった。さして大きくはないそれが広い庭にぽつりと建っているのは奇妙だった。


「ついたよ。話は中でしよう」


 彼女が指し示す先には掠れた【MUSEUM】の文字。


「博物館……」

「そう」

「小学校の遠足以来だ。なんの博物館なの、ずいぶん小さいけれど」

「なら驚くね、たぶん。入ってみてのお楽しみ」


 入り口のドアを開けると、すぐに黒いスカートを身につけた女性が迎えてくれた。中も外観と同じ真っ白な部屋だった。


「いらっしゃいませ。本日はどうなさいますか」

「美術館。終わったら水族館もお願いします」

「ご一緒のかたは同じ学校の方ですか」

「そうですよ」

「念のため参照させていただきますね。ご了承いただけますか」


 詳細を省いた説明から、彼女がここの常連であることがわかる。私に向けられた最後の問いにうなずくと、受付の女性は丁重に頭を下げ、続いて手元の機械を操作した。彼女が奥の扉へ誘導してくれた。


 中はやはり眩しいばかりの白い空間だった。けれど、壁には無数の四角が掛けられている。それが絵画であることくらいは知っていたけれど、目にした事は数えるほどだった。いくつもの画面、あふれんばかりの色彩、そしてまっさらな空間に圧倒されていると、彼女が一枚の絵の前で足を止めた。ひときわ大きな、また明るい色のキャンバスだった。銀色に輝く額縁が壁との境を強調していた。


「美術鑑賞がもっと一般的な娯楽だった最後の時代、美術館はこんなふうにまっさらな白い空間だったんだって。今はもっと優しくて自然な空間にしているところが多いよね」

「そう、なんだ。行ったの昔すぎてあんまり覚えてなくて」

「まぁ私もほとんど受け売りなんだけど。で、こういう展示空間のことをホワイトキューブって呼んでいたんだ。白い立方体。まんまだね。作品への影響を抑えるためにこうした空間は生まれたそうだけど、実際こうやって見ると威圧的でしょ。皮肉なことに、ホワイトキューブはすごく特殊な空間。日用品ですら、ここに持ち込めば見えてしまう。そこでひとつ質問。目の前にあるこちらの絵、どう思う」


 眼前にそびえる大きな画面。具体的な形はなくて、大胆に構成された色がひたす目に鮮やかだった。抽象画ってやつか、とおぼろな記憶を呼び出す。


「私に絵はわからないよ。綺麗な色とは感じるけど」

「ありがとう。では解説キャプションを見て」


 確かに絵のそばには白い板に書かれた説明が添えられていた。タイトル・素材・作者名・制作年。その中に見慣れた文字列を見つけた。


「『陽だまりに色があるなら』、妹島ミナト……」

「お察しの通り、この絵は私の作品。材料借りて、キャンバスに絵の具で描いたもの。見ているのは画像だけどね。どう、それっぽく見えるでしょ。でも私はそれだけじゃ嫌なの。ねぇ画家になりたいなんて言ったら君は笑うかな」

「画家って絵を描く人のこと、だっけ。それって仕事になるの」

「今は難しいかもね、特にこの国では。欧米では保護活動がさかんだと聞くけれど」

「じゃあ留学でもするつもり」

「いいえ」


 彼女はくっきりと笑って否定した。


「なら何故私にそんな話をするの」

「宣言したかったんだ。私はなりたいものになる。この死んだ空間に頼らない作品を描く」


 一拍、間があった。息を継いだ彼女が再び声を発した。


「私には時間がないの。病気、なんだって。君らより早く死ぬんだって」

「なんでそんな。さっき初めて話したような私に、なんで」

「きっかけとするなら、あのとき君が話しかけてくれたからだよ。でも誰でも良かったわけじゃないなぁ。ほら、総合教養演習。あれで小説を書いたことがあったでしょ。あの時のお話がすごく好きで、気になってたから」


 それは意外な言葉で、思わず声を失った。彼女はなおも畳み掛ける。


「君って実は、いい子ちゃんじゃない気がする。絵も本当はそうなんだよ。癒しヒーリングになるなんてまやかしだよ。表現ってもっと自己中心的で切実だったんだと思うんだ。今は、人を傷つけかねない表現は規制されて見ることもできないけれど、かつては恐怖も血も性も戦争も、絵画の大事な主題だったんだって。絵ってそんな人に優しいものじゃなかったはずだよ」

「だから、何」


 滔々と喋る彼女に苛立ちはじめていた。話の着地点が見えない。


「私の宣言を証明して。独りじゃ揺らいでしまいそうな時もあると思うから。覚えていてくれるだけでいいの」


 変なもの押し付けてごめんね、と呟いて彼女はうつむく。そのまま私の手を握って部屋を出た。エントランスではさっきの女性が涼やかに立っていた。


「おまけでいいもの見せてあげる。こっちはすぐに気にいると思うよ」


 再び同じドアを通った。広がったのは薄暗い、何もない四角い空間だった。正面の壁だけがほのかに青い。他は闇と見分けのつかない黒だ。彼女が歩みを進めた。足元は絨毯のように柔らかい。そして壁の青が一様ではないことに気づいた。上は明るく、下は暗い。隅には暗がりができていて、時折ゆらりと大きな影がよぎった。彼女がざらつく低い声で、何かを諳んじた。


「『海の底には街があって、いたって普通の人たちが暮らしています』『魚はするりとキッチンを抜けて、どこかへ去ってゆきました』」

「それって私の」

「そう、覚えてるんだ。好きって言ったの、本当だよ」


 それきり彼女は何も発言せず、じっと壁面に視線を投げたままだった。そこには海中が再現されていて、危機感の薄そうな魚がゆらゆらと漂っていた。


「これって、海の中でしょ」

「正確には違うかな。水族館って言って、水中の生物の保存と展示を同時にしていた施設があったんだって。これは映像で再現したに過ぎないにしても、昔のものにかなり近いらしいよ」

「詳しいんだね」

「うん。ここに通いつめてたからね、色々教わった。あっ」

「どうかした」

「今ようやく気づいたけど、これって私が特殊だからだよね。毎日学校に通うことも、真っ当な大人になることも求められてないもの。時間があるのも、一長一短ってわけか。やっぱりごめんね、忘れてもいいよ。私は責任を負えない人間なのに、覚えていてなんて我がままだったかも」


 私は彼女と目を合わせずに、ゆっくりと唇を開いた。


「連絡先、教えて。時々会おう。それで優しくない絵を見せて」

「え、」

「たぶん私、良い子じゃないから」


 蒼い光に照らされて、私たちはしばらくじっと黙っていた。

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