White Cube

夏野けい

たとえば海の青

 駅のゲートを出ればすぐに巨大な建造物が視界に入る。スケールの割には威圧感のない滑らかな白いかたまり。曲線で構成されたフォルムはヒトにとって心地よいものであるようデザインされており、へそ曲がりの私としては極めて嘘臭い優しさと感じざるを得ない。


 入口の場所はコンタクトレンズに仕込まれたAR拡張現実が教えてくれる。半透明の自動扉が音もなく開いて、建物の割にささやかな玄関ホールにいざなわれた。あたたかな生成色の空間、どこか懐かしさを感じるなめらかな壁面。来客対応用の端末が柔らかな声で、私の名を呼ぶ。


「お待ちしておりました。中へどうぞ。ご案内いたしますので、足元のサインをご覧になってお進みください」


 奥側の扉が開放された。そこは爽やかな青に満たされた長い廊下で、思わず息を呑む。足元のサイン、というのはすぐにわかった。つま先をかすめるように床を泳ぐ紺色の魚影だ。私が視線を向けると、すいと動き出す。迷路めいた青い通路を魚に先導されて進む。どうやらこれは海を模しているようだ。ときおり行き交う人は水の揺らぎに遮られて顔が見えない。顔も名前もわからない他者がすぐそばに居るのは落ち着かない気持ちになる。


 何度目かの角を曲がり、魚は不意に姿を消した。反射的に顔を上げる。ちょうど視線の先に、まばゆい向日葵模様のワンピースを揺らして旧友が立っていた。人の悪そうな笑みを浮かべている。昔と全然変わらない。


「久しぶりだね。まずはお茶でもしようじゃない」


 言うなり指差す先にはレストランがあって、引きずられるように入り口をくぐる。中は半球状の空間だった。やはり壁面や床には海中の景色が投影されている。まばらに席についている人たちがぼんやりと視界に入る。


 テーブルに通されて、メニューを眺める。彼女はろくに見もしないでこちらに目を向けている。


「選ばないの」

「うん、任せちゃう。どのみち大した選択肢なんてないし、何食べたってそんなに味もわからないし」


 軽やかに投げやりな口調は高校時代と同じ。だけど今は、その背景にあるものを妙に意識してしまう。


「あのさ、こう言うの、良くないことかもしれないけど」

「なぁに。何でもどうぞ」

「知ってたはずなんだけど。病気だったの、本当なんだね。入院したって聞いて、それで」


 死んじゃうの、なんて訊けない。私と彼女が発したいくつかのフレーズはすでに存分に死の香りをまとっていて、日常から病や死を喪って久しい世の中にあってはありえないほど陰鬱に思えた。


「面倒な話はあとにしようか。まず注文を決めてしまいなよ」


 仕方なく、メニューの一番上を指差す。内容は見なかった。彼女がテーブル上のベルに手を伸ばす。りん、と澄んだ音が響いて店員がすぐにやってくる。注文を伝えるとよどみない動きで去っていく。


「さて、何から話そう。頼んだものが来るまでは当たり障りのないのがいいか。じゃあね、質問。君は病院ここのこと、どう思う」

「そうだね、意外かな。外より優雅で」

「あぁ、いい所に気づくね。ここは外より装飾的なんだよ。私達は大多数に約束されているはずの長い寿命を全うできない、可哀想な人で、だからはいつもすごく優しい。真綿にくるむみたいに接してくれる。見えるものは美しく、聞こえるものは耳に快く、個人に合わせて調整してくれる」

「個人にあわせて……」

「うん。その人の好みに合わせて環境を変えられるんだよ」

「へぇ」

「気に入らないみたいね。私の言い方、それとも内容かな」


 わざとらしくゆっくりと発音する彼女に、思わず眉をひそめる。


「どっちも。なんか鳥肌立った」

「それでこそ君だよ。あの頃みたいに忌憚なく意見して」

「あの頃かぁ」

「うん。君は覚えてる、初めて二人で出かけた日のこと」


 短く息を吸った。レストランを満たす青が過去に重なる。


「忘れないよ。あの日初めてミナトを知ったって言っても大げさじゃないもの」


 彼女の名を口にして、答える。満足そうに頷く彼女の後ろで、鯨の影がゆったりと通り過ぎていった。得体のしれない偽物の海にも、不思議と違和感はなくなっていた。

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