Ⅲ-5 You seem to choose unsuitable way.

 碧雪へきせつ祭を目前に控えた、日曜日の朝。

 休日練の集合時刻にはまだかなり早いが、今日の部室は既に開いていた。

 陽向ひなたがドアを開けた音に、びくっと肩を跳ねさせこちらを振り向いたのは、やはり。

「おはようございます、やっぱり詩葉うたはさんでしたか」

「良かった、ヒナちゃんか……おはよう、早いね」

「詩葉さんこそ」


 自主練していたらしい詩葉に倣い、楽譜と鉛筆を出してキーボードに歩み寄る。

「みんな集まるまで、一緒に練習させてもらってもいいですか」

「もちろん。そうだ、ヒナちゃんに聴いてほしいところあって……いいかな?」

「アドバイスをもらうのは私の方だと思いますけど……いいですよ、どうぞ」


 詩葉は安心したように顔を綻ばせてから、これから歌うパートを示して。一転して真剣な面持ちになり、キーボードで出だしの音程を確認。ひと呼吸置いてから、陽向がカウントを取る。

「さん、はい」


 ハミング、五度上ハモ、主旋律、スキャット、掛け声。

 聴き馴染んだ「ドレミの歌」を大胆にアレンジし、小節ごとに細かくパートを変えながらめまぐるしく歌いつないでいくのが、今回のコンセプトだった。去年の「You Are Good」も方向性は同じだが、今回はアレンジの幅も深さも段違い、らしく。部員ひとりひとりに課されるハードルは、特に上級生については、かなり大きいものになっている。


「だからこそ、詩葉ちゃんは一年のみんなを引っ張ってあげられるくらいになってほしい」

 ソプラノリーダーである由那ゆなからのリクエストに応えるべく、詩葉はかなり気を張っていた。

 

 詩葉が担当パートを歌い出した。練習で見つけたこと、言われたことを一つ一つなぞっていきながら、自分の身体の中の響きと、耳から聴こえる音を確かめていく。

 ひたむきな表情、澄んで響く声、響かせるためにみなぎり緩む全身。

 大好きな人を構成するそれらを、大好きな人が構築するそれらを、誰にも邪魔されずに、一番近くで感じられるのは。それは、なんとも魅惑的な感覚であり、心が甘く熱く昂る瞬間であった。


 聴いてほしいというのは、つまりは巧拙を判断しての意見がほしいということだ。意識しないと、ひたすら詩葉をで愉しむだけになってしまうので、むしろ積極的に粗探しをする位の意気で歌を聴いていく。

 ……けど、やっぱり。

 歌っているあなたに惹きつけられた私は、やっぱり間違ってなかった。


「……っと、どうかな」

 歌い終えた詩葉の問いかけで、陽向の意識が戻る。アドバイスしなきゃ、アドバイス。

「そうですね、まずこの前よりは確実に良くなっていると思います、全体的に。私の耳なんで厳密な判断はできないですけど、音程とか縦がブレたりはすごく少なかったはずです」

「そっか良かった、ありがとう!」

「ただ、発音はっきりしようってのがもうひと頑張りじゃないでしょうか。後、頑張ってる感がかなり滲んじゃってます」

 楽しんでる感を押し出そう、というのが今回の目標の一つだった。難しそうな顔や声色だと、このステージの魅力は大幅に損なわれてしまう。

「うう、そうでした……」

「とはいえ、大幅に改善したのは確かですし……」

 悔しげな詩葉を前に、しばし励ます言葉に迷う。

 ぎゅっと抱きしめて一言、というのが陽向にとっては最適解なのだが。そういう、一時凌ぎの気の紛らわしじゃなくて、もっと建設的な何かが要る気がする。


「気を付けて歌おうって思うと、どうしても気にしいな顔になっちゃうからさ。やっぱり格好悪いよね」

「……そういう表情も、詩葉さんは素敵です。けど」

「え?」

 あー、もう理屈は今は置いとこう。

 目の前で悩んでる君をあったかくするのが、今の私の最優先だ。


 キーボード越しに、詩葉に歩み寄り、額を合わせる。

 視界いっぱいに、驚く詩葉の顔。

「楽しんで歌ってる詩葉さんの方が……笑顔の詩葉さんが、私は好きですから」

「ヒナちゃん……」

「笑ってください」

 そう言って、見つめ返してくる詩葉の頬を、ていっと摘まむ。

「もーう、ヒナちゃんったら」

 摘まみ返してくる、柔らかくて細い、温かい詩葉の指。

 お互い同時に吹き出した。いつもの、眩しい笑顔に戻ったことに安心して。

 

 安心して、微笑みを象る唇を、そのまま塞いでしまいたくなる。


 けど、まだ、まだ。

 着々と距離を縮められているとはいえ、今の陽向は詩葉の後輩に過ぎないし、あちらが自分を恋の対象として見ているかというのも、未確定なのだが……まあ少なくとも、自覚してはいないだけで、詩葉も「女の子が好きな女の子」だろうという確信は陽向にはあった。


 詩葉が気づくのを待つか、誘導するか、ルートは悩みどころだが。

 ゴールの、あるいはスタートの位置は決まっている。


 私は、君の恋人になる。


 そんな内心に蓋をしながら、陽向は一歩引いて、楽譜に目を落とす。

「けどやっぱり、詩葉さんはこういう明るい曲が似合うと思うんです」

「ありがとう、嬉しいな。そうそう、まれくんも似たことで褒めてくれたんだよ」

 まれくん、希和まれかず。詩葉に並々ならぬ感情を抱いていそうな彼のことは、詩葉も悪しからず思っているようだった。もっとも、詩葉はあくまでも「友達」として接していそうではあったが。

飯田いいだ先輩ですか。確かにあの方、たまに気の利いたこと言いそうですよね」

「うん。周りが気づかないことにも感性向けてるし、そうやって気づいたこと伝えてくれる優しさも持ってるし……昔から男の子と話すの苦手だったんだけど、まれくんと過ごしてるときって、そういうこと感じないからさ」

「あー確かに、飯田先輩は男っぽさ薄いですからね」

「えっとヒナちゃん、それ褒めてるのかな」

「貶してはないですよ、私も話しやすいですし?」


 陽向の、希和への第一印象は「冴えない、頼りない」だったし、その印象は日を経るに連れて濃くなっていった。色々と考えてはいて、しかし行動がついていかなくて、自信に欠けておどおどとするのが目立っていて。威張り散らしたり、人に合わせることをハナから放棄しているようなタイプよりは良いし、決して悪い人ではないとは分かっているのだが……どうにも、陽向には好きになれない。

 練習においても、男声全体の足を引っ張っているのが陽向にも察知できていた。明らかにレベルの違う真田さなだを基準にするのは酷なのだろうが、高校で合唱を始めたらしい他の部員と比較しても、もう少し学年相応というか、経験相応の力が伴っているべきなのでは……と思えてならない。

 そんな希和が、詩葉に片想いを、それも相当に重くて深い実らないタイプの想いをこじららせているというのは。陽向にとっては、なかなか苛立つ現状ではあった。

 そもそも、詩葉の恋の形はあなたには向かない。それを抜きにしても、彼女の心を守り抜けるような強さが、あなたには見いだせない。


 詩葉はきっと。自分の想いに応えられない「友達」を――結樹ゆきを責めることは決してしないのに。

「友達」の――希和の想いに応えられない自分を、ひどく責めてしまうだろうから。

 希和にはひっそりと諦めてもらうのが、詩葉にとっては一番傷つかない道であるように思えるのだ。

 

 ……いや、分かりますよ飯田先輩。

 詩葉さんとびきり可愛いですし、守りたくなりますし。一緒のコミュニティにいたら恋に落ちるの、分かりますけど。

 彼女の一番近くに、あなたの居場所はないんです。同じがわにいる、私の直感。


 そうやって、陽向が疎ましく思うのに反して、詩葉を含めた他の部員たちは、彼のことを評価している気がした。

「詩葉さん、随分と飯田先輩のこと買ってません?」

「……そうかな?」

「少なくとも私には、欠点の方が多く思いつきます」

「うん、それは否定できないけど……そうだ、ヒナちゃんあれ知らないでしょ」

 何か思い出したらしい詩葉は、部室の棚を探る。


「ほら、これ」

「学校新聞ですか……あれ、合唱部の特集」

 発行は去年の今頃らしい。碧雪祭とコンクールに向けた練習に取り組む合唱部の様子と意気込みが、学校新聞とは思えないお洒落なデザインと、熱いながらも洗練された文面が伝えている。

「はい、担当者を見てみましょう」

「……飯田先輩ですか、これ書いたの」

 そういえば。彼が合唱部に入ったきっかけは、報道編集委員としての取材だったと聞いた気がする。

「そうだよ。すごいでしょ、文を書いてるまれくんも、デザインやった阿達あだち先輩って方も、後このイラスト描いたの由那さんだよ」

「へえ……」


 同じ部だという贔屓目を抜きにしても、目を瞠る記事だった。もし陽向が直に演奏を聴いていなかったとしても、この記事を読んでいれば合唱部に心惹かれていたかもしれない。

「私がね。合唱部がすごく楽しいよって話をずっとしていたら、まれくんがそれを記事にしたいって言い出して。それから部活に取材に来るようになって、記事ができていって……先輩たちが、結樹たちがじゃなくて、【わたしたち】が特別な仲間なんだって、そう思えたのが嬉しかった、誇らしかった。

 それに中学の頃もね。変にこだわったり、張り切りすぎたりして……ウザがられてた私のこと、まれくんは認めてくれたし、励ましてくれたんだ。

 私は、自分のこと好きになるのが苦手な人間なんだけど。そんな私でも、人にはない取り得があるんだって感じさせてくれるから……ほんとに、いい友達だなって思います」


 気づく力、記す力、伝える優しさ。

 希和のその資質は、ありふれているようで誰にでもある訳ではない特質だろう。

 しかし、今の合唱部に、そして詩葉に、どれだけそれが必要かというのは別の話で。

「……ちょっと見直しましたよ、飯田先輩のこと」


 けど、先輩。

 居るべき場所も、好きになるべき相手も、あなたは正解を選べていないんじゃないですか。


 そう感じながら詩葉を見つめていると、部室に近づく足音。

 入ってきたのは陽子ようこと由那だった。

「おっす、おはよ……何さ、朝から二人でイチャイチャしてたの?」

 冗談交じりの陽子の問いかけに、陽向はすっと立ち上がり。弁解しようとした詩葉の左腕に自分の右腕を絡める。

「そうですよ陽子先輩、羨ましいんですか?」

「べ、別に羨ましくなんか! オレには由那という嫁がいるし、なあ由那」

「……陽子のことは大好きだけど、同じ家に住むのは疲れるかも」

「嘘だろぉ!?」

「おはようございます、朝からキマシタワーですか最高ですね! 清水しみずは空気になります」


 続々と集まってきた部員たちの賑やかな空気に、内心で形を変えつつあった棘の気配が薄くなっていく。ほどなくして希和が入ってきたのを見かけると、陽向は彼に歩み寄り声をかける。


「おはようございます飯田先輩。昨年の今頃、面白そうなことやってらしたようで」

「月野さんおはよう……ああ、取材記事のことかな。読んでくれたの?」

「ええ。先輩がこの部にいる理由がまた一つ分かった気がします。

 私にだって、先輩といるからこそ気づけることがあるんじゃって予感がします……それ、楽しみにしてますね」

「……それはありがとう、けど妙なプレッシャーを感じるよ?」

 些か慄くように希和が答えたところで、陽子が練習開始を告げる。

 返事をして準備運動の隊形に並びながら、再び希和に目をやる。


 あなたがここにいることを選んだ、あなたが詩葉を好きになった。

 その意味が私にはまだ見えていないのなら。私にはまだ見えていない、【わたしたち】の色があるのなら。


 気づかせてみせてよ、先輩。

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