第二話:雛輪飛行③

「ねぇ、大丈夫?」


ひっくひっくと声に出して肩を震わせながらも再び立ち上がって服についた砂埃を払っていた小さな女の子。そんな彼女に僕は駆け寄って、彼女の背丈の高さまでしゃがんで声をかけた。


「う、うん」


どうやら目を合わせるのが恥ずかしいらしく、下を向いて、またスカートをパンパンとはたきだした。


「お兄さん、あの!」


少女はがばっとこっちを向いた。ぴったりと目が合った。彼女の瞳は涙で潤んでいる。じっと見ていると、その瞳の中のまたその奥まで見えるような気が・・・。


「ん?」


僕は思わず声を出してしまった。


「あ、えっとその・・・」


そう言って彼女はまた下をうつむいて足下を見つめながらもじもじとし始めた。

これはしまった。彼女が言いたかったことをどうやら遮ってしまったようだ。そうなると年上の人に話しかけるのは勇気がいるだろう。これは僕の責任だ。僕からいくしかないよな。


「良かったら、手伝おうか?自転車に乗れるようになるの」


彼女はピタッと足を止めた。そして突然勢いよく顔を上げてこちらを笑顔で見てきた。


「ほ、ほんとに?ほんとのほんとに?」


彼女の目はきらきらと輝いていた。先ほどまでの涙で、というわけではなさそうだ。


「ほんとのほんと。でも危ないから暗くなるまでだけよ。いい?」


「うん、うん!」


うん、という言葉と一緒に彼女の上半身も前後に揺れていた。


「よし、じゃあいっちょやってみますか!えっと、名前はなんだっけ?」


僕は制服のブレザーを脱いで、長袖のカッターをまくりながら彼女に尋ねた。


「んとね、ひなぎく!ひなぎく まい!」


「そっか。ひなぎくまい、か。よし!じゃあまいちゃん。やるぞ!」


手をグーにして僕は舞ちゃんの前に差し出した。


「おー!」


元気よく舞ちゃんは僕の拳にしっかりとグーパンチを当ててきた。三つ編みは彼女が動くたびにゆらっと揺れて、彼女の今の気分を表現するかのように楽しそうだった。


-『雛菊ひなぎくまい』。多分漢字を当てはめるとこうなるのだろう。そうであるのならば、なんて皮肉なことなんだ。だって彼女は・・・。


彼女が自転車を起き上がらせているのを見ながら僕はなんとなく虚しい気持ちになった。


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がしゃん!と大きな音を立てて自転車がまた地面に打ち付けられた。さっきまでまだ青空が広がっていたはずが西の空がオレンジ色に染まり始めていた。


「大丈夫?まいちゃん」


「う、うん」


手を離して押し出して、彼女が転ぶのを見て、さぁもう一回、というこの繰り返しはもう何回目か分からない。しかし何回転んでも、


「お兄ちゃん!もう一回!」


どれだけ派手に転んでも、どれだけ顔から涙がこぼれそうでも、決して『もういいや』などと言うことはなかった。


それからも何回も、何回も・・・。


「まいちゃん、僕が手を離したら前だけを向くんだよ。下が気になると思うけど前だけを見るんだ」


「うん、頑張る!」


僕はサドルを後ろからそっと掴む。そして勢いよく自転車を押しながら走り出した。そしてぱっと手を離した瞬間、


「わぁ、わぁ!乗れた、乗れたよ!」


彼女はバランスを崩すことなく、とうとう一人で自転車を漕いだ。漕いだのだ。

ふぅと僕は額の汗をぬぐう。なんとかうまくいったかな。舞ちゃんが自転車に乗れるようになったという意味で『なんとかうまくいった』というのもある。あるのだが。


公園の中をぐるぐると円軌道に走る彼女の体がぱあっと光り出した。そして彼女は円を描きながら空へ空へと自転車を漕いでいった。


「ありがとうお兄ちゃん。これで・・・お母さんのところに・・・いけるよ・・・。ありがとう、ありがとう」


今さっきまで乗るのも一苦労、いや何苦労もした舞ちゃんがこちらを見ながら手を振る。


「まいちゃん!自転車乗れるようになって良かったね!ばいばい!」


僕は空に向かってそう叫んで両手を大きく振る。彼女は僕のほうを見ながら、三つ編みを揺らし、満面の笑みを浮かべ、自転車とともにその姿は空の中へ溶け込んでいった。それはまるで、雛が巣立って飛び行くかのように。


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完全に光が見えなくなって僕はようやく手を下ろした。空には既に一番星が輝いて見える。


「いやー立派立派。良くできました」


舞ちゃんがいなくなった空の方向をずっと見ていた僕の後ろ、公園の入り口から聞き慣れた声がした。


「まゆらか、買い物?」


「そうそう。帰り道に商店街の人たちがへろへろになって自転車を押してる出雲を見たって言ってたからもしかしたらこの公園にまだいるんじゃないかなって。そしたら、ね」


まゆらも僕が向いていた空の方をじっと見つめる。


「うん。無事送り届けたと思うよ」


僕は舞ちゃんの目をじっと見たときのことを思い出した。人間じゃないもの、つまりは幽霊というものは目の奥を見れば普通の人間とは少し違うのだ。幽霊の目の奥には青い炎がゆらめいているのだ。もちろん一般人にはそんなものは見えない。神社に住む僕だからこそ見えてしまった、というわけだ。最初は泣いている女の子を純粋に助けてあげようと思っていたが、その真実はそう簡単には説明できないものだった。


「中学生になってまた一つ成長したかもね」


「ははっ、そうかも」


「まぁ、これからは不審者に見間違えられないように気をつけるのよ。たまたま今回は違ったけども」


「おいちょっと待てよ。誰が不審者に間違えられるって?」


「あら、口が滑っちゃった。怒られる前に先に帰るね。家で待ってるよ出雲」


そう言って買い物袋を両手に提げてまゆらはささっと公園から逃げていった。


「おい待てよまゆら!あー!自転車と荷物・・・。くっそぉ、あいつ分かってたな。仕方ない、ゆっくり帰るか」


まゆらに追いつく術もなく、僕は晩ご飯を楽しみにしながら、自転車を押して公園を出て行った。




出雲が出て行った、その公園の隅には、夕日に照らされてオレンジ色に映えた、白色の花が一輪咲いていたのだった。

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