第六回 毎日、扉を開ける。(theme:扉)

 見慣れたドアノブを、全力で引っ張った。ガタン、と言って開かない。

 困って隣を見上げれば、鍵を開けてくれた。

――どうやって、開くんだろう。

 そして促されるから、もう一度引けば、かちゃ、と軽くドアが開く。家の中は電気がついていないから、もう暗い。

 砂遊びのおもちゃの入った袋を定位置にひっかけて、靴を脱いで、揃える。買い物して重い荷物を持ったママの代わりに、家の電気のスイッチに走るのが、彼の係。


 ランドセルを背負って、靴を履く。今日は国語も算数も生活も、全部あるせいでランドセルが重い。

「いってきます!」

 背後で、お母さんが彼を見送るためにばたばたと玄関に急ぐのを聞きながら、ドアを押した。がちゃん、と音を立ててストッパーにあたってドアが止まる。

 そこで手を離して、閉まってしまう前にと外に飛び出せば、冷気が顔に突き刺さった。

 寒い。走ろう。

 途中で待ち合わせをしている友達も、一緒に走ってくれるはずだ。


 ドアのねじがゆがみそうな、不穏な音を立てて扉がストッパーにあたる。そのうちドアが外れそうな気もするけれど、そのときはきっとお父さんが直してくれる、と無責任なことを考えた。

「ただいま!」

 靴を脱ぎ散らかして、部屋にランドセルを放り投げて、サッカーボールをつかんで、再び勢い良くドアを開ける。

「こら! そっと開けなさいって言ってるでしょ!」

 お母さんの怒鳴り声が聞こえるが、そんなのは関係ない。彼は、ボールを蹴飛ばしてネットごと振り回しながら駆けだした。


 できるだけ静かに鍵をまわして、できるだけ静かにドアをあける。それでも小さく、かちゃ、と音が鳴った。

 家に入って、靴も脱がずに考える。

 何と言い訳をしようか。宿題をやっていた、友達の家で昼寝して寝過ごした、それとも。

 そのうち、母親が父親と話す声が聞こえて、それが至って普通の声音であるように聞こえて、無性に腹立たしかった。

 何を怖がっているんだ、いい歳して、親に怒られるのが怖いのか? 自問自答して、彼は平然と「腹減った」と言いながら玄関を離れた。


 一度開けたドアを、そのまままた閉める。

「行きたくねぇ……」

 ぼやきはするものの、様子がおかしいと母親に心配かけるのが嫌で、もう一度ドアを開ける。

 まだ大丈夫。何があっても味方でいると宣言してくれた腐れ縁の友人はまだ自分の味方だ。きっと両親も、めんどくさいほど心配してくれるだろう。

 あと数か月だけなのだ、これは、きっと。

 気力で負けてはいけないと、無い元気を振り絞って、力強く踏み出した。


 出かける目的が楽しいことだというだけで、ドアの重さすら軽く感じる。

 新しい友人ができて、恋人ができて、去年とは大違いだと半ば笑いながら外へ踏み出す。もう少ししたら、彼らをこの家に連れてきて、夜中までだらだらと駄弁って遊びたい。

 ずいぶんと明るくなった自分の姿を見れば、きっと両親も歓迎してくれるだろうと思えた。

「いってきまーす」


 ドアノブを引いた手が震えた。

 何を緊張しているのだろうか、母親には友達を連れてくると言ったから、何も心配することはないというのに。

「ただいま」

「お邪魔します!」

 横からあがった威勢のいい挨拶がなんとなく憎たらしかったし、玄関にきっちり揃えて靴を脱いでいるのが、どうにも猫かぶりのようで面白かった。


 まだ明るいうちにこの玄関に帰ってくるのは、未だ慣れない。

 授業が早々に終わってしまうのは嬉しいものの、このときばかりは、何か悪いことをしているかのような気分になって困る。

 靴を脱いでいて、一足足りないことに気付いた。

「母さん、買い物かな」

 ぼそっと呟き、母親の不在はそれ以上気にしなかった。


「いってきます」

 家に誰もいなくても、習慣というものは勝手に口に挨拶をさせる。

 今日は、恋人と、昔の友人と飲みだ。恋人はその頃からの付き合いだし、友人とは卒業以来会ってないので、実質、同窓会である。

 今日は日付の変わる前に帰って来れるのだろうか、いや、きっと帰りは明日の朝だ。

 一人暮らしの同級生とさほど変わらない生活は気楽でもあり、なんとなく不満でもあった。そんなことはどうでもいい、今日は楽しもう、とポケットの財布を確認した。


 がちゃり、とドアが開く音が、妙に感慨深い。

「ただいま」

 明日この家を出ると考えると、今日のこれが最後の、この家への帰宅である。

 自分のお気に入りの靴は、もう全て新居、と言ってもワンルームだが、そこの下駄箱に移してある。今履いているこれしかない。

 部屋のベッドや机はそのままで、たまの実家帰りに備えてある。

 このでかい家に親を残して行くのは心配でもあるが、就職先はここから少し遠いし、恋人と同棲もしたい。

 脱いだ靴を丁寧にそろえて、料理を作って待ってくれているらしいリビングへ向かった。


「ありがとうございました」

 玄関のドアに、小声で礼を言ってみた。

 どこかへ踏み出すときも、安心できる場所に帰るときも、いつもこの扉が象徴だった。

 最後の荷物を持った彼を見送るため、わざわざ父親も玄関まで来ていた。

「今までありがとな、ときどき帰ってくるようにするよ」

「おう」

 相変わらず言葉少なな父親は、それでも彼を大切に思っているのは伝わる。

 さてと。

 がちゃ、とドアを開けて、外へ踏み出す。何百回も何千回も繰り返した一歩だ。その先には、恋人が荷物を持って待っていた。

 恋人と父親の、会釈をするだけの簡単な挨拶を待って、振り向いて、言う。


「行ってきます」

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