第2話
伺った先は大きな味噌屋さんだ。末のひとり娘さんに三味線の稽古を付けて欲しいのだということだった。
直々に大旦那様がご挨拶に出てきたのはさすがに恐縮した。その少し後ろには奥様らしい人と、色の白い少女が静かに座っている。
「本来ならこちらから教えを乞いにあがらなけりゃいけないとはわかってるんですが、なにぶん内気な子で」
名前はお苑さん。年は13というからお雪ちゃんよりすこし上くらいだろう。習い事をさせても恥ずかしがって、先生と会うのをいやがって、長続きしないのだという。
「いえ大丈夫です、あたしのところにもそういうお弟子さんは他に何人かいらっしゃいますし」
あんまりじっと見るのも申し訳ない、お苑さんに視線を送っていることがばれないように彼女を観察する。桜色の袷に燕脂の帯、結った髪はべっこうの櫛でまとめられていた。
膝の上で組まれた指は細く、弦を押さえられるのかちょっと不安になったほどだった。
恥ずかしそうに伏せられた目元の様子は伺えないけど、まつげが長い。もうちょっとふくよかだったらさぞや美人さんだろう、そして、もうちょっと外に向ける光がきらきらしていれば。
「私も子供の頃、お登世さんのお母様に教わっていたんです。娘さんがうちの娘みたいなのでも、お稽古をつけてらっしゃるってお話を伺って……」
奥様までそう言いながら丁寧に頭を下げる。併せるようにしてお苑さんもこちらに礼をしてくれた。
「母と腕をくらべるなんて無茶な話ですが、こちらこそよろしくお願いいたします。」
頭を下げる。目を上げたときにはじめてお苑さんと目があった。
男の子みたいな顔だな。とそのときちょっとだけ思った。
この日はほぼこれだけで終わりだった。お苑さんが奥様から譲り受けたという三味線の様子を見て、お稽古は3日あとから、という話がまとまり、一刻ほどでお屋敷を辞去してきた。
「来る者は火なのか」
ずだ袋を提げたお雪がぽつりと言った。
「どうなんだろうなあ」
「治は『ききみみ』だとお千代さんも右近さんも仰っていた」
縄でぶら下げた壷をぶらぶら振りながら、良兼は応じる。
右近の診療を終え、ともに帰る途中のことだ。
「お雪はどう思うよ」
「わからない。聞こえないし見えない『ほし』だ」
「うーん。まあ俺もそうだしな」
「みる」「きく」「さわる」「かぐ」「あじわう」の五つのうちのひとつが「ほし」のご加護を受けている人はいくらでもいると聞くし、実際多くも見た。しかし良兼とお雪のそれは、その性質を持っていない。お登世ちゃんも違うんだよな、そんなことを考えていると、お雪がまた急にぽつりと言った。
「源さんが手が空いたら番所に来てくれと言っていた」
は、と手と足を止め、その反動で膝小僧に壷ががつんと痛い感じにぶつかる。
「……お前ね、それはまっ先に俺に言う御用じゃないのか」
あたた、とわざとらしく膝をさすりながらうらめしげに言っても、お雪は相変わらず読めない表情で返してくる。
「先生は忙しい」
「ああ解った、おれはそしたら次の次の辻を右に行くからすまん、壷を持って先に帰っていてくれ」
げんなりとした顔で壷の口をくくっていた縄をお雪に差し出すと、無表情に受け取られた。ああ本当に、おれは育て方をまちがえた。
「焦げた大きな骨が川で見つかったと言っていた」
来るのは火、そう言ったお雪はこの事実を踏まえていたのか。
しかし仕事の師匠としては、先に小言をくれなければならないようだ。
「とにかくそういったことは先に言え、な?」
「そういったこととは」
「ああもう、用件とかだよ! 誰がどういう御用がどれくらい火急におれにあるか、だ!」
「それが」
綾の話を聞き終え、目を伏せていた隆盛は腕を組んだ姿勢を崩さないまま言った。
「貴女の視えている、ものなのですか」
隆盛に、自分が「今」視えているものを話さなければと思って出向いたのだ。それが自分に、いや隆盛に多くの苦痛をもたらすだろうことを判った上で。
しかし綾には話してしまったのちにも、頷くこともためらわれた。
「……解りましたよ、どうかそんな顔しないでくださいな」
ややあって隆盛は言うと、穏やかに綾に笑みかける。
「例えばね綾さん、こうして」
言うと彼は左の袂をごそごそと漁り出した。しばらくして目当てのものを見つけたのか、右手で掴んだ何かを、腰だけ浮かせて綾の膝に投げ置く。ほぼ間をあけず開いた障子戸から、茶を携えたお康を追い越すように暮丸が「それ」目掛けてふっ飛んできた。鼻先を綾の膝の間あたりに押し当てて、こりこりと小気味よい音をたててそれをかじり始める。
「みぃ」
暮丸は、綾を見上げて満足げに鼻のあたまを舐めた。
「あら暮丸、綾さんがいいものをくれたの?」
良かったわね。綾の前に湯呑みを置いたお康は猫ののどのしたあたりを指先で撫でている、そのかたわら猫は、視線もくれずに綾の膝をてしてしと叩いた。
「あ、あの」
隆盛は今何をしたんだろう、自分の膝の上の、鈍い銀色の細かいかすを見れば、「それ」が煮干しであることには想像がつくが、何のために。
今度は立ち上がって、綾の手にさらに煮干しを押し付けた。
「……暮丸にはわたしは、時々こうして媚びを売っておかなきゃならんのですよ」
やってごらん。綾は言われるままにおっかなびっくり、手渡された煮干しを灰色の猫の前に差し出す。ぎょっとしたように一度お康の方を見、あさってに視線をそらし。
そうしてからものすごい速さでそいつを掠めとると、暮丸は少し開いた障子のすきから、縁台の方に飛び出した。
かげぼうし オダ マキ @colum_bine
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