かげぼうし

オダ マキ

第1話

「それ」を一番最初に察知したのはやはり「ききみみ」たちだった。あるものはそれを噂話として、またあるものは不快な音として。別のある者は確かな吉兆のように、「それ」を聞き取る。

お幸はそれを、店の前で粟粒をつつく雀の声として聞いた。

「こわい」「つよい」「くる」彼らは石ころと粟をとりまぜてごつごつとつつくあいまにせわしなくちいちいとつぶやき、ときどきお幸に聞こえる言葉でささやきかけるのだ。

「ううん」彼女は水桶を手にしたまま、お日様のほうを仰ぐふりをした。お店を開けるまでにはまだ刻がある。ちょっとばかし手を止めていても旦那様もおかみさんも咎めることはないだろう。

それよりその、「こわい」「くる」ものは何か、だ。

「くろいね」「くろい」「そして」「そしてうらめしいね」懐から出した手ぬぐいを首のあたりにやったお幸の耳に、次に聞こえてきたのはそんなささやきだった。

「こわ」くて「くろ」くて「つよい」「うらめしい」ものが「くる」。ああ、聞けるだけじゃなくてあたしも雀のことばを話せればよかった。そうしたら彼らに話しかけて、もっと詳しいことを聞けたかもしれないのに。

だがそれがお幸の持つ「ほし」の限度なのだ。考えたって詮無いことなのはわかっている。

だとしたら、だ。

「幸! ちょっと水汲みに行っとくれ」

廚の小窓が開いて、旦那様が顔を出す。その大きな声であっという間に雀たちは散っていってしまった。


怖くて強くて黒いものが来る。うらめしい。


「はあい、ただいま」

ちゃんと覚えておこう、誰にどう話すか考えよう。

だって、お幸にそんな声が聞こえたってことは、それは絶対に「くる」のだ。


**


同じ頃、荒物屋のおかみであるお千代の気がかりは、息子のことだった。

腕白なのはおそらくあたし譲りだろう、との自覚はある。だから父母がお千代にしてきたように、悪いことをすれば雷を落とし、いけないことをすれば一緒にご迷惑をかけた先に謝りに行き、と小さい頃からやってきて、ほとほと困りながらも、あたしも親にかけた苦労だからねえ、とあきれつつ見守ってきたのだ。

その息子がここしばらく、ひどくふさいでいる。いやその言い方は正しくない気がする。

おびえている、のかもしれないと時々思う。自分にしか見えないお天道様の暗いかげりとか、見知った押入の奥に暗い穴をみつけてしまったとか、あれはそういう感じのことなんじゃないかと、聞く種類の「ほし」を持たないお千代は想像する。

息子、治には「ききみみ」の兆候がある。この町にこの「ほし」を持っているひとは何人かいて、彼女の家で働いている住み込みの丁稚のひとりにも、治がつるんでいる友達にも「ききみみ」やそのきざしを持つひとがいる。

が、彼らは治とおなじでないのだ。いつもとかわらず遊び、仕事をし、すこやかに眠る。自分の子供だけがそうではない。

あの子は何を聞いてしまっているのだろう。真っ昼間だというのに布団をかぶって出てこない治に思いを馳せる。とくに額や手があついわけでも、せきやくしゃみが出るでもない。だが食は細り、友達の誘いも断り、ずっと布団の中で饅頭のように丸くなっているのだ。

「治」

布団に声をかけても返事は返らない。

「そんなにじっとうずくまってばっかりじゃ、体をこわしちまうじゃないか」

ふい、と饅頭の口が開いた。最初にお千代に見えたのはうすぐろい闇。

……ああ違う、なかにいるのは治だというのに。落ち着いてよく見れば、それは治のぼさぼさした頭だってわかるのに。なぜ、こんな「よくないもの」に刹那、見えたのか。

何事か、布団の中から声が聞こえる。よくよく耳をそばだてて聞いてみると、何かぶつぶつと治が言っているのがわかった。

「何だい。聞いてやるからちゃんと言ってごらんよ」

布団をめくりながら言うと、あわてて治はそれを引っ張り返した。

「きこえないの? 母さんはあれが、きこえないの」

「……悪いねえ、母さんはあんたみたいに耳がいいわけじゃないんだ」

聞いてやれたら良かったのに、とは思う。自分の子供だというのに持つ「ほし」の違いが、なにか息子と自分を遠くに分かつもののような気がしてならなくなった。

「そう、か」

ふう、饅頭の口がため息の音とともに閉じかかる。駄目だ、そうさせてはこの子は。お千代は慌ててかいまきの襟元を引っ張った。

「あたしは怒らないし笑わない。あんたがこわいものがひとつでも減ればいいって思ってる。 なにを聞いたんだい、治。 母さんに話しておくれよ」

かいまきの内側に手を伸ばす。その襟をひっつかんでさらに丸まろうとしていた治の手を、指をようやくつかんだ。

たぐるようにしてその手をぎゅっと握ってやる。いっちょまえに大きくなったのに、まだまだ力の足りない手。


もぞ、と饅頭の中身が動いた。かいまきのえりもとから顔を出した治の顔色は、なんて悪かったことだろう。

血の気の薄い唇が動く。すがるみたいにお千代を見上げながら、ゆっくり治は話し出した。

「石と頭がぶつかるみたいな音と、鈴みたいな音。強い風。魚を料理するときにする音の、もっと大きいの。それがどんどん近づいてくるんだ」


「ああ」

お千代は言って、黙った。この子は小さい頃、廚の三和土で頭を打ったことがある。あの鈍い音が、お千代にとっても怖い音が、それも近づいてくる、と治は言うのだ。

亭主に言うべきだろうか。でも彼は仕事で忙しすぎる。

逡巡は一瞬。ひとつだけさいしょから決めていることは告げよう。

「母さんが守ろう。あんたをなにがあっても守ってやる」

そうだ、まずあたしがこの子をなんとかしないと。しようと思わないと。この子はこわいこわいと思ったまま死んでしまうかもしれないんだ。

それだけはさせてたまるか。お千代は布団の上からだけれど、治をみっしりからだで包み込む。

「ほんとに?」くぐもった声が布団の中から聞こえた。

「ああ」

なんとしてでも。

お千代はうそつきになりたくはなかった。だとしたら考えることからはじめないと。


**


息子を乳母に預け、綾が向かったのは奉行の邸だった。いつものように勝手口に声をかけると、奥方のお康が迎えてくれる。

「久しぶりだね綾ちゃん。今日はどうしたの。」

奉行の邸宅とは思えない質素な作りだ。亭主が広いところだと落ち着かない為だという。夫婦ふたりその小さな家(庭だけは豪勢に広いのだが)で、幸せそうに暮らしている。

「見える物があるのですが、とお奉行様にお伝えしたくて」

「おや、そんなかたっくるしい言い方しないでくださいよ綾さん。どうしました、そんなに酷いのですか」

お康のうしろからひょいと顔をのぞかせたのはそのお奉行様こと、藤岡筑前守隆盛だった。軽い身なりにぼさぼさの頭、とてもじゃないがお白州で裁きを下すような人物には到底見えないのが、この人物でのここでの常態だ。そのいつもっぷりに安堵しながら綾は通されるまま、板間に足を踏み入れる。

卓の横にあった灰色の毛玉がぴょっと耳を上げるや否や、綾の足下をすり抜けて縁台を飛び降りた。

「……暮丸が相変わらずで済まないね」

隆盛が済まなさそうに眉を下げる。しかしそれは綾にとって、お奉行にそんな顔をさせるような件ではない。

「もう慣れましたわ、そんなどうかお気になさらず。  ……それで、あの」

それより自分が「見通しているものごと」、その事態が自分の見えている状態で固着してしまうのは嫌だった。だから綾は、いつものようにここに一石を投じにやってきたのだが。

……善い方向に確実に転換するという保証はない。けれどこの「今のさき」を受け入れるわけにはいかないと思った。

だから、隆盛に自分の視たものを告げるのだ。それが何かを変えられることを祈りながら。奉行は視線で綾の先を促した。

「この町に人が為す災厄が起こります。幾人かが死に、怪我をします。ただ、それを為すものが」

……言葉が、口の中で空回りした。


「どうかしましたかな」

それを隆盛は、聞きのがしてはくれなかった。

「……わからない、のです」

そう言った綾の顔を覗き込んで、隆盛は困ったように微笑する。

「ふむ。まあそういうこともあるでしょう。ただね綾さん」


「自分の『ほし』の目的を見誤るのも、身の丈がお互い、今の半分もない時からあなたをよく知っているわたしの度量を、あんまし試すようなこともしないで下さいよ」

綾は何かを言いかけ、そしてそっと口を閉じる。



「……。 わかりました、わたしに視えていることを、包み隠さずお話いたします。」

それでも、その言葉をつぎに口にできるまでには、長すぎる沈黙があった。


**


川縁になんか行かなきゃ良かった。


早く帰らないと母ちゃんにどやされる。芳ばあちゃんのとこにお使いに出て、頼まれた蝋燭を届けてきたところまではよかったが。

まっすぐ帰ってきなさい、言われていたのに桶屋の秀と、丁稚の男の子と店の前で会ってしまったのがいけなかった。あんまり会える機会のない子で、お使いを済ませた解放感も手伝ってついつい店先に長居してしまう。

秀のおばさんから「もう暮れだよ、良太あんた帰らなくて大丈夫かい?」と尋ねられるまですっかり遊びほうけていた。

あわてて辞去して家に向かって駆けだした、近道をしようとふだんは通らない、細い古い「幽霊橋」をまわって帰ろうとして、川の中州から、煙が上がっているのを見た。葦の茂った向こうから上がっているその根元には、なにか黒いものが隙間から見え隠れしている。


――何だろう、あれ?

煙が出ている、ということは付け火かもしれない。付け火を見たらすぐ大人に教えなくちゃだめなんだ。しかし暮れの刻限、さらにどういうわけだかいつもはまばらでも必ずある、大人の姿が、そこにはひとりも見当たらなかった。

黒いものがあるのは、ちょうどこちらの岸からは葦で見えにくい場所だ。幽霊橋をわたって対岸に行こう、そう思って走り出そうとしたとき。

橋のたもとに女の人がいた。白い着物、藍でなにかの花の模様が染め抜いてある。赤くてぴかぴかした丸い玉のついた簪。白い首筋。そして。

なぜかとても怖い顔で、その女の人はおれのことを見た。

絵双紙で見た化け物の蛇みたいだった。目はすこしも動かさないで、朱色のくちびるだけが気味悪く開く。

「……いっちゃだめだ」

かすかに聞こえた声はびっくりするくらい低く、怖い。背中を冷たい手でなでられたような心持ちがして、数歩あとずさりをした。

じゅぼ。

「……うわあっ!」

急に痛みと熱さを覚えた左手が。

着物の袖が、燃えていた。

なにが起こったのかわからないまま、大声を上げて家に逃げ帰った。


**


お雪ちゃんはほんとの親を知らない。良兼先生がものごころつくまえに引き取ったんだって聞いた。

それ以来彼女は、ずっと先生の手伝いをしている。湯を沸かし、汚れたさらしを洗い、薬を包む紙を切り、薬研で薬になる実や木の皮を粉にし。

ちっちゃい手で、もくもくと雪ちゃんは仕事をこなす。お医者先生のとこのお雪ちゃんは愛嬌が足らない、といわれているのも知っているだろうに、彼女はめったに口を開くことはなかった。

「まあ、ちっと子育てを間違っちまったんだ。それでも仲良くしてくれんのは俺としちゃ確かにありがたいんだが。」

そう言って先生はあきれたように笑う。

あたしは雪ちゃんに興味しんしんで、近寄ってちょっかいをかけては、ぷい、と顔をそむけられることを繰り返しているんだけど。

「……だいたい登世ちゃん、あんたのお雪の構い方もいい加減、どうかと思うぞ?」

「いいんです、ぜったいに雪ちゃんに嫌われてない自信、あたしあるもん。」

「ああ、そう。 ……おいお雪、おまえお登世ちゃんは好きか?」

目をほんのすこしだけ上げ、ちらりとあたしたち二人を見てまたすぐ紙を切る作業に戻る。

「ほら。首は振らないでしょう?」

「振らなかったってだけで好きともなんとも言わねえだろうよ。まったくあんたは脳天気だなぁ。」

先生はあきれてるけど大丈夫だ、だってあたしにはそっちの「ほし」がある。


「ほらほら、あんまり暇そうなお嬢さんを構ってる暇はわたしにもお雪にもないんだよ。良太、登世ちゃんのことは気にせず入っといで。」




あたしの死んだ母親は、三味線の師匠だった。母がとっていたお弟子さんたちを引き継ぐかたちで彼女と同じ仕事をしている。

……まあ、母とあたしを比べると腕は雲泥の差だってのはよーくわかってるんだけど、それでもなんとか生計をつないでるって訳だ。

良兼先生とお雪ちゃんは、あたしの暮らしてる長屋の隣の部屋を診療所と住まいにしていた。町に診療所は少なく、お人好しで腕もいい先生を訪ねてくる人は多く。いっつも何人かが先生の治療を外の縁台で待っているようなようすだった。


「もうよくなったかい、良太。」

あたしが声をかけると、良太はちょっと照れたみたいな顔して笑った。

「うん、もうだいぶんいいんだ、皮がむけちまったとこにちゃんと新しい皮ができてるって。」

良太は近所の蝋燭屋の子供で、左手の火傷の治療でここに通っていた。

「……おまえが火傷って聞いたから、てっきり家の蝋燭いたずらしたのかと思ったよ。」

良兼先生が良太の傷に当てていたさらしを取ると、痛かったのか顔をしかめている。お雪ちゃんが無言で棚にある壷を下ろし、あたしはその剥がしたさらしをくず入れに入れた。

「そんなことしない。」

ちょっと不快だったように、良太はその言葉にむくれる。

「……悪ぃ悪ぃ。良太を疑ってるわけじゃないんだよ。なんたって平吉さんはおっかねえおとっつあんだもんなあ。」

蝋燭屋の平吉さんとこの良太が、火遊びで火傷をした、と思っている大人もまだこの界隈には多い。でもあそこの良太が、わざわざ火遊びなんてするかい? と見る人もまた多いのもありがたいことにほんとみたいだった。

良太のことを信じられるし、先生だって口ではそういいながら疑ってないのは知ってる。

「でさ、見つかったの? 良太が見た女の人ってのは。」

先生が、薬を塗った新しいさらしを良太の傷口に当てるのを見ながら、あたしは口を開いた。

「まだなんだ。きのうも耕造さんがおれに会いに来てくれたんだけど、見つかったって話はしてなかった。」

良太の「急に腕に火が点いた」という言葉は、良太の狂言であるという説と、

誰かが「ほし」を使って良太に火傷を負わせたのだというふたつの見方でお調べがされている。


良兼先生は、さらしの上を手ぬぐいで黙って縛っている。

良太が見たっていう「蛇みたいな女の人」を下っ引きの人たちが何人かで調べているんだけど、陽が落ちる寸前の河原には人が少なく。その刻限に女の人どころか、良太を川縁で見たという人すらいない有様だった。

おまけにこの子が見たっていう中州で上がっていた煙も、見た人もいなければ中州でものが燃えていた痕もなく。良太にとってはまだまだ分が悪い状態が続いているみたいだ。


それに仮に、その女の人がほんとにそういうことのできる「ほし」持ちで、良太の腕に火を点けたんだとしたら。

どういう理由で、そんなことをしたって言うんだろう。それは町の皆が疑問に思っていることだった。

「あしたもう一回薬を取り替えにおいで。そしたらきっとあさってには家の手伝いくらい軽く出来るだろ」

ぽんぽん、と先生は良太の頭を撫でる。ありがとうございますぅ、と答えてお辞儀をし、良太は引き戸を開けて外に出ていった。


「火の「ほし」」

壷を棚に戻しながら、お雪ちゃんがぽつりと言う。幸い良太より後には、まだ患者さんは来てないみたいだった。

「なんだお雪、心当たりでもあんのか?」

良軒先生が帳面に良太の状態を書き込みながら言う。

「ない」

「先生は、良太が嘘をついてるんだと思う?」

あたしが一応尋ねると、先生は目を上げ、ちょっとだけむつかしい顔を作ってみせる。

「わたしは良太は普段の評判通りのちゃんとした子だともちろん思ってるよ。それに嘘ついたってあの子はひとつも得をしないだろう?」

「そうだよね」

蝋燭屋の子供が火遊びで火傷だなんて、あっちゃならないことだって良太くらいの子が解らない訳はない。

「ただ、良太が煙を見た場所に何も残ってなかったってのが分が悪い。大人が疑うのもわかるし、なんだか元気なふりしてるあいつがかわいそうだ」


「ほんとに何もないのかな」

お雪ちゃんがまた小声で言った。

「どこに?」

「川には」

「川? 中州じゃなくてかい?」

「うん」

「雪、まとめてから喋れ」

「……」

「先生、そう言っちゃうからお雪ちゃん黙っちゃうんだよ!」


「良太は、中州のほうに煙を見たって言った」しばらく間を空けてから、お雪ちゃんは言う。

「うんうん」

「ちゃんと、中州から上がった煙を見たわけじゃない」

だってそうだ、良太はどこから煙が上がっているのか、しかとは確かめられないうちに腕に火がついたんだって言ってた。

でも続いてお雪ちゃんの口から出てきた言葉は突拍子もないもので。

「水の中でも火は」

ちょっと、いくら何でもそりゃあ。

「……お雪ちゃん、そりゃ無理だよ、油でともした火だって水に浸かりゃ消えちまう」

「……」

「登世ちゃんだって黙らせてんじゃねぇかよ」

「それは」


「じゃあお雪、これでどうだ。川の中でなにかが燃えていれば、中州の葦には火が移らない、そう言いたいんだろ?」

雪ちゃんは頷いた。

「そんなことってあるのかしら」

結論を見る暇もなく、引き戸が乱暴に開けられた。

「先生! 旦那様が大変なんだ、動かせない、ひとっ走り来てくんねえか?」

息せききって駆け込んできたのはちょっと離れたところにある荒物屋の小僧さんだった。

「わかった、行こう、彦根屋さんだね?」

「はい! とにかく早く!」

「雪、往診中の札を下げといてくれ、わたしはちょっと行ってくる」

いつも往診のときに使うずだ袋をひっつかむと、小僧さんより先に走り出している。お雪ちゃんはそんな先生の背中を見ながら「往診」と書かれた木札をつかんで引き戸の横に下げようとしていた。

「あ」

その手が、こわばった高い位置で止まる。外から来たひょろっと背の高い人型の影が、勢いで半端に閉まった戸を引き開けたからだった。

「あれ、先生はお出かけかい?」

来たのは下っ引きの源さんだ。お雪ちゃんは彼の鼻先に手に持っていた木札を突き出す。

「……はいはい、わかったわかった。じゃあさっき、往路をものすごい勢いで駆けていったうちのひとりは先生だったか」

雪ちゃんが頷く。

「そりゃ惜しいことをしたな。……ところで登世ちゃん、あんたもここの手伝いをしているから聞いておくよ、ここ数日、いやここ一、二週間くらいでもいいや、良太のほかに火傷で来た人はいないかい?」


火傷で来た人。あたしも診療所を毎日手伝っている訳じゃないから、ここに誰が来たか全部わかっている訳じゃない。

「火傷の人は良太以外いない」

お雪ちゃんは棚を見上げてから言った。

「その時分なら、あたしも火傷のひとが来た記憶はないねえ」

そっか、ここでも駄目か。源さんはそう言って少し肩を落とした。

「でもどうして源さん、そんなことをここに聞きに見えたんです?」

「……そこの川の、もうちょっと下流でさ」源さんはすこしだけ声を潜め、あたしとお雪ちゃんを手招きして呼び寄せる。

「真っ黒に焦げた骨が中州の砂地に打ち上げられてたんだ。それもどう見てもそれは、獣の骨じゃない」


「人の骨」お雪ちゃんがぽつりと言った。

「なんだお雪ちゃん、そんなとこからでもちゃんと聞いてたのか」

招き寄せたのに、ちょっと離れたところで小さく頷いている。源さんはもう慣れっこでかまわず話を続ける。

「そう、たぶんここんとこの」そう言って源さんは自分の腰のあたりを指した。どんな形かはよくわかんないけど、そこに大きな骨が自分にもあることだけはわかる。

「だから先生にも見てもらおうってつもりもあったんだがな。仕方ねえ、ちっと刻をあけて出直してくらあ」

「先生に伝える」

え、と走り出しかけた源さんが固まった。

「……めっずらしいなあ、お雪ちゃんが口きいてくれるなんて。ありがとよ、手が空いたら番所に顔出してくれって伝えてくれると助かる」

ぽん、とうれしそうにお雪ちゃんの肩をたたいて出ていく。無表情に彼女は今度こそほんとに「往診」の木札を表に掛けた。

「あたしもそろそろ出かけないと。お雪ちゃん、お留守番お疲れさま」

八つ前に、新しくお稽古をつけて欲しいというお嬢さんのいるお宅に行く約束になっていた。そろそろ支度をしないと。

「大丈夫、いつもだから」

戸のそばに立てかけてあったたらいを手に取ると、隅に積まれていた汚れたさらしを入れた。お洗濯だろう。

「お雪ちゃんにもお三味線、教えてやろうか?」

「いらない」

たらいを抱えて外に出ようとするお雪ちゃんが、もう一度だけ棚を見上げたのが少しだけ気になった。


**


小僧が大変だと駆け込んできた気持ちは分かった。確かに火傷の塩梅は重い。

しかし、荒物屋の座敷に通された良兼は、どこか呪詛の言葉でも吐きたくなった。

「……彦根屋さん、いくらなんでも煙管はどうかと。」

荒物屋の主人、右近の髪はちりちりと焦げ、腕や肩のあたりには破れた水膨れが見える。だというのに右手には火のついた煙管が握られており、それを口に持っていって、旨そうに一服していた。

「おお済まねえな、口も喉も焼けちゃいねえことを確かめたくてよ。」

からからと笑うこの店の店主は、若い頃から剛毅の者として鳴らした人物ではある。だがそう嘯きながらもその表情に、僅かの陰りがあることを良兼は見落とせなかった。

「……右近さん、やせ我慢にもほどがある。どうせ井戸水で冷やしたっきりで痛むんでしょう?」

ずだ袋に入っている軟膏の量では足りない広さの火傷だ。伝令ですれ違った丁稚に、火傷と聞いた時点でお雪を迎えに行って貰ったのは良かったのかもしれない。

そんな良兼の心配をよそに、右近はからからと笑う。

「おうよ。ただな、倅や若い衆の手前、あんましいてえいてえと騒ぐのも癪にさわってな」

ふっと吐いた息に甘い匂いがまざる。

「酒……」

「ちっと、気付けに」

「馬鹿かあんた、お千代さんも少しは止めてやって下さいよ」

枕元に控えているお千代に声をかけるが、「ああ、済まないねえ」どこか上の空な返事が返ってきた。

「……お千代さん、さらしか手拭いをもうちっと持ってきてくれるかい?」

とにかく酒はわたしがいいというまではいけない、そう釘をさし、枕元にあった桶の水と手ぬぐいで、痛みそうなあたりを冷やしてやる。お千代はしばし呆としたあと、はじかれたように立ち上がった。

「……俺のことより、あれをどうにかしてやった方がいいんじゃないかねえ。」

座敷の襖が千代を連れ去って閉まる。煙管を盆に置いた後、右近はすこしだけ、眉根を寄せて苦笑した。

「……そうみたいだ、と言いたいことですがまずはあんたの火傷でしょうが。これからお雪が軟膏の壷を持ってくる。あれは塗られるといてえぞ。」

おおこわい、と焦げた髪を振りながら、右近は笑った。



右近の火傷は広範囲だったが、深いところは少なかった。「庭に出たら急に左肩がびりっと痛くなってな」そう言った右近は言葉通り左の肩を中心に、左腕全部、左の首と顔のあたりがざっと焦げている。

頭にまで火が及んだのはおそらくびんつけ油のせいだ。焦げた髪を切り落とされ、お雪が壷ごと持ってきたしみる軟膏を塗布され。さらしでぐるぐる巻きにされると、やっと右近は少し病人らしくなった。

「いんや確かに痛ぇな。左目のまわりえぐりだしてもらったほうが幸せかも知んねえ。」

そう言わず。どうしてもさらしがかぶってしまう左目を覆われ、片目と口だけのぬっぺっぽうになってしまって気弱げにこぼすのに、良兼は大丈夫だ、と言うように右近の傷んでいない方の右手を取る。

「急に火がついてびっくりしちまったようですが、めっけてくれた番頭の処置がよかったんだ。かなり火傷の具合は浅いよ。しばらくわたしかお雪が往診をしましょう。そしたら店の差配だって、10日もしたら出来るようになります。」

お雪は良兼のとなりで、お千代は亭主の枕元で、共に黙って控えていた。ただお千代だけは、しきりに座敷のむこうのほうを気にしているのが、良兼には少々気がかりだ。

「おうよ、そんなら俺はしばらく隠居を決め込むさ。」

ほうとため息をつき、右近は周囲を見回した。

そうして「しかし、」と右近は改めてお千代だけを見ながら言い足す。

「……こればっかりは惣吉にも任せらんねえ。なあ先生、すまんが治も診てやっておくれでないか。」


「そんな、あんた」

「煩いな、朝餉の席にまともにつけないなんざ、立派に病気だろうがよ。」

おまえだって引きずられてそんなになっちまってるんだ、それが病以外のなんだ? 乱暴だが右近の言い方は的を射ている。

それでもお千代はくちごもった。 

「だってそんな先生様や……、他所様にお話出来るようなことじゃありません」

「治なら」

急に口を切ったのはお雪だった。

「さっき変な格好で廊下にいた」

がた、と廊下で何かが動く音がする。全員がいちど音の方に向き直り、そして、黙った。


「……お千代さん、なにも切った貼っただ、にげえ薬を飲ませるだばっかしが、医者の仕事ってわけでもないんです。もしよければ、治がどんなことになっているかお話ししてはくれないか」

良兼の言葉にも、お千代はいい顔をしない。

「だってそれは、『ほし』の」

「だとしたらそれは余計に、腹や足がいたいこととなんの変わりもない。『ほし』のちからでなにかつらいことがあるなら、それは人によって形は違うが、誰にでもあっておかしくないことだろう?」

「……」

誰もが何かを言いたげな、なのに気づまりな沈黙がつづく。

ややあって、それをうっかり、という感じで破ってしまったのは、襖の開く音だった。

がたりとそれが開く、かいまきのお化けがそこに立っていて、良兼はすこしだけ息を呑む。

「先生、こわいものが、おれん家に、きた。」

かいまきの中から聞こえてきたのは、覗いた足先みたいにひょろひょろと細い、治の声だった。

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