上月の想い - 第207話

「あたしも、透矢にお願いしたいことがあるの」


 上月が喉の奥から声を引っ張り出すように言った。


「な、なんだ?」

「うん」


 上月がうつむいたまま言葉をつまらせる。


 俺にお願いしたいことって、なんだ?


 学校でもっと話してほしいとか? それとも、毎日の連絡が面倒だから嫌だとか、そんなことを言いたいのか?


 付き合う前の上月だったら、何を考えているのかが大体読めたけど、今の上月は以前と百八十度も態度が変わってしまったから、気持ちがまったく読めない。


 上月はうつむいたまま、手をずっともじもじさせている。その弱々しい姿がすごく女の子っぽくて、俺の気持ちが釘付けになってしまうっ。


 俺は顔が赤くなっていることも忘れて上月を見守った。


「その、ね……ふたりでいるときだけでいいから、名前で呼んでほしいの」


 えっ、名前で呼ぶ……?


 上月がずっと言い出しづらかった要求は、そんな簡単なことだったのか。


 言われてみれば、俺は上月を名前で呼んだことがない。以前は付き合っていなかったのだから、名前で呼ぶのは馴れ馴れしいと思っていたのだ。


 でも今はもう違う。だから、むしろ名前で呼んだ方がいいんだよな。こんな当たり前のことに気がついてやれなかったなんて。


「そのくらいだったら、全然かまわないぞ。付き合ってるのに苗字で呼ぶのは、なんだかよそよそしいもんな」


 上月も俺を彼氏として意識してくれているんだな。気持ちがわかって安心した。


 弓坂の忠告は的を正確に射抜いていたんだな。懸命に説得してくれたあいつには、これから頭が上がらない。


 それにしても、名前で呼ぶ、か。


 そんなのお安いご用だと啖呵を切っちまったけど、いざ名前で呼ぼうと思うとかなりハードル高いぞっ。


 だって名前で呼ぶって、もろに恋人じゃないかっ。付き合ってるんだから、もろに恋人なのだが。


 上月の名前は麻友だから、これからは麻友と呼ぶのか……。できっかな。


「そういえば、ま……こう、ま、まゆ、は、その、俺のことを――」


 すると突然、上月が口に手をあてて吹き出した。


「なにそれっ。名前意識しすぎっ」


 俺の恥ずかしいところをまんまと指摘されてしまったっ。


「う、うるせえなっ。しょうがねえだろ。名前で呼んだことなんて、ねえんだから」


 上月はよほど面白かったのか、しばらく楽しそうに笑っていた。こんな無邪気に笑っている姿を見たのは、かなり久しぶりだ。


 去年のクリスマスの前から、怒ったり泣いたりしている姿しか見れなかったから、笑われているのに嬉しくなってしまった。


「ううん。あたしのために合わせてくれてるんだもんね。笑ったりしてごめんね」


 上月はやっと俺の目を見てくれた。顔は赤いけど、居心地がよさそうに微笑んでくれる。


「ぎこちなくて、すまねえな。すぐに慣れるようにするから、しばらく大目に見てくれ」

「うんっ。お願いね」


 お互いに友達というか幼なじみでいた期間が長かったから、気持ちが通じても恋人として付き合っていけるのか、かなり不安だった。


 上月もきっと同じ悩みを抱えていたんだろうけど、上月の笑顔を見て、なんだかうまくやっていけそうな気がした。


 第一関門はなんとか突破できた。そうすると次に超えなければならないのは、手をつなぐことか。


 上月に見つからないように、上月の手元にそっと視線を落としてみる。上月の左手がちょうど俺の右手のそばにあった。


 俺は生唾を呑み込んだ。


 手は、つないでみたい。だけど上月がその気じゃなかったら、手をつかんだ瞬間に大惨事になってしまう。


 ――ええいっ、何を戸惑う必要がある。今の雰囲気だったら絶対にいけるっ。俺の男を見せろ!


 俺は意を決して上月の左手をつかんだ。


 上月の身体がびくっと小さく反応する。笑顔が瞬時に強張って、冷たい空気でこの場の雰囲気が凍りついたような気がした。


 手をつなぐのは早計だったか。――そう思って手をはなそうとしたときに、上月が手の甲を裏返して俺の手をにぎり返してくれた!


 やべえっ。俺、上月と手をつないでるよ! マジで恋人みたいじゃんかっ。


 興奮で胸がはち切れそうになっていたときに、右の肩と頬に何かが触れた。


 上月が俺の肩に顔を乗せたのだ! 手をつなぐどころか、身体が完全にくっついているじゃないかっ! やべえっ。これはマジでやばすぎる!


 いや、落ち着けっ。俺たちは付き合ってるんだから、身体をくっつけるのは当たり前じゃないか。だからこれはっ、セクハラとかじゃな――。


「その、ね。付き合ってるっていうの、急に出したりしたら……調子に乗ってるって思われるのかな、とか、いっしょにいたいって言ったら、気持ち悪いのかな、とか……思ってたから、どうしたらいいのか、わからなくて」


 上月が手を強くにぎり返しながら、心の奥底にしまわれていた気持ちを吐露してくれる。レベルの低い考えで舞い上がってる場合じゃないぞ。


 お前は、硬い表情の裏でそんなことを考えていたんだな。


「だけど、あたしがそんなことばっかり考えてるから、透矢を不安にさせてたんだもんね。だから、しっかりしなきゃ」


 いやお前を不安にさせていたのは俺だ。俺も自信がなかったから、思い切って行動にうつせなかったんだ。


「これで、いいんだよね。あたしといても、気持ち悪くないんだよね」


 結局はお互いで同じことを悩んでいたんだ。そんなものはただの取り越し苦労だと言い切りたいけど、俺もまったく同じことでずっと悩んでいたから、今になって思い返すと滑稽に思えてしまう。


「俺は今、こうしていられるのが嬉しい。っていうか、めっちゃ緊張してるし。だから、これでいいんだっ」


 今の状況が客観的にいいのかどうかは、わからない。でも、そんなことをいちいち考える必要なんてないんだ。


 恋愛なんて人それぞれだ。客観的だとか、こうあるべきというマニュアルは存在しない。


 俺は上月とずっとこうしていたい。だから、これでいいんだっ。


 上月の首が俺の頬の近くで少しだけ動いて、


「あたしといると緊張するの?」


 そんなことを聞いてきた。


「緊張するに決まってるだろ。心臓なんて、もうえらいことになってるしっ」

「そうなんだ」


 上月が顔を寄せながら笑った。


「ま、麻友、は、自分の魅力に気づいていないだけだ。クラスの連中からもめっちゃ好かれてるんだから、もっと自信をもっていいと思うし」


 あんまり自信をもたれて他の男へ気持ちがうつってしまうのは悲しいけど、それは心の奥底へ封印する。


「文化祭のときだって、すげえ人気だったじゃないか。他のクラスからも、お前を見たくていっぱい来てたろ。だから、そういうことなんだよっ」


 言ってて恥ずかしくなってきたので、最後の言葉は投げやりになってしまった。


 上月の髪が頬に当たって、少しくすぐったい。顔を少し寄せて、上月の頭に頬をくっつけた。


「透矢だって、魅力的だよ」


 そんな言葉で俺の胸が完全に射抜かれたときだった。腹部を突然触られて、俺は耐え切れずに声をあげてしまった。


「おい、上月っ。やめろっ!」


 上月が急に俺の腹をくすぐり出したのだ。


「あれ、ふたりでいるときは、名前で呼んでくれるんじゃなかったの?」

「お前が急にくすぐるからだろっ。いいからやめ――」

「名前で呼んでくれないんだったら、お仕置き!」


 上月がさらに身を乗り出して俺の弱いところをくすぐる。


 一方的にやられっぱなしなのは嫌だ。俺も後ろから抱きつくように反撃すると、上月がすぐに笑い出した。


「ちょ、ちょっとっ、やめ――」

「言うことを聞かないやつにはお仕置きだっ。くらえっ」


 上月と子どもみたいにはしゃぐのは、これが初めてかもしれない。以前の上月は弱いところを見せないように、常に気を張っていたから。


 いつも不機嫌そうに俺をにらんで、顔を合わせるたびに悪口ばかり言っていたのに、こんな子どもっぽく笑ったりするんだな。もう二年以上の付き合いになるのに、知らなかったよ。


 上月がくすぐる手を止めて、俺の肩をつかんだ。俺の首元に顔を寄せて正面から抱きつく。


 俺は上月の腰と背中に手をまわして抱きしめた。

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