文化祭、ボイコットするか - 第136話

 たくさんの波乱が起きた文化祭の一日目はかろうじて夜が明けた。


 上月をリビングのソファで寝かせて、俺は母さんの仏壇が置いてある和室に布団を敷いた。布団も母さんが当時に使っていたものだ。


 クラスの友達を泊めることがあるから、母さんが使っていた布団は押入れに残してあるのだ。あまり干していないから、かび臭い感じがするけど、非常時にあると助かるんだよな。


 しかし母さんの仏壇のとなりで寝たのが悪かったのか、夜はかなりうなされた。くそ親父が夢にあらわれて、俺といっしょに暮らそうと言い放ちやがったのだ。


 夢に出てきただけでも胸くそが悪いのに、いっしょに暮らすだと? 笑えない冗談を夢の中にまで持ち込むな。


 お陰で早朝に目が覚めてしまった。スマートフォンの時計を見たら五時四十分だった。


 起きるにはだいぶ早いから、用を足して二度寝しよう。部屋の扉を開けて廊下に出るとダイニングで音がした。


「あっ、ヤガミン」


 冷蔵庫を開けて中を覗いていたのは弓坂だった。上月がわたした白のTシャツを着てショートパンツのジャージを穿いている。


「起きてたのか」

「うん。おはよう」

「ああ、おはよう」


 素早く用を足してダイニングへと戻る。弓坂は冷蔵庫の前をうろうろしていた。


 きっと飲み物が飲みたいんだろうけど、勝手に飲んじゃいけないと思ってるんだろうな。俺は寝ぼけまなこでコップを差し出した。


「ジュースが飲みたかったら、勝手に飲んでいいぞ。それとも麦茶の方がいいか?」

「あ、うん」


 弓坂がコップを受け取る。どうしたらいいのか、対処に困っているようだ。


 面倒だったので弓坂にコップを置かせて、適当に取り出した麦茶を注ぐ。俺のコップにも麦茶を入れて一気に飲み干した。


 弓坂はじっと俺を観察していたが、やがてコップをつかんで麦茶を飲んだ。


「昨日は、ごめんなさい。勝手にお部屋、つかっちゃって」


 申し訳なさそうに弓坂が告げる。


「いいよ別に。寝るところなんてどこにもあるし。暑くなかったか?」

「うん。それは、だいじょうぶだったよぅ」


 そうはよかった。うちは弓坂家の豪邸と違って通気性があまりよくないからな。


 弓坂と会話していると、眠気がだんだんと覚めてしまった。寝不足だけど仕方ない。観念して起きよう。


「ああっ」


 リビングに向かった弓坂の声が聞こえてきた。今度は何があったんだ?


 弓坂は幸せそうな顔でソファを眺めている。そして小声で「ヤガミン、来て来てっ」と俺を呼んだ。


 弓坂が見ているのは上月だ。上月はタオルケットに包まり、ソファの肘掛けを枕の替わりにして寝ている。


「麻友ちゃんの寝顔、可愛いねっ」


 こいつはいつもうるさくて底意地の悪い女だが、タオルケットに包まっていると、なんだかメルヘンチックな小動物みたいだ。


 丸いまぶたを閉じて静かに寝息を立てている。幼さを感じさせる寝顔は純真そのもので、口や性格の悪さは少しも感じられない。


 こんなことは断じて認めたくないが……可愛いな。


「ちょっかい出すなよ。起きたらうるさいからな」

「ふふっ。わかってるよぅ」


 弓坂がこぼれんばかりの笑顔で返事する。


 上月の瞼がぴくぴくとふるえて、小さく閉じられていた口がもごもごと動く。上月が重い瞼を開けて目を覚ました。


「あれ、未玖? もう朝になっちゃったの……?」



  * * *



 朝食は上月がご飯を炊いてくれた。買い置きのふりかけをご飯にかけて、味噌汁といっしょにいただいた。


 現代日本の朝食はパンをはじめとした欧米スタイルが主流になってきているが、俺はやはり米と味噌汁がいいと思う。


「麻友ちゃんの、炊いてくれたご飯、おいしい!」

「そう? ちゃんと噛んで食べてね」


 弓坂がにこにこしながら茶碗を大事そうに抱える。上月が優しく微笑んだ。


 七時三十分がすぎて、そろそろ学校へ行く準備をする時間帯になった。歯を磨いて制服に着替える。


 上月も同様に制服へと着替えていたが、弓坂はソファに腰を降ろしたまま動かなかった。


 ――一日が経っただけでは学校へ行く気持ちにはなれないか。無理もない。


「どうする? 今日は学校に行くか?」


 何気ない感じで訊ねてみる。弓坂はうつむいてテレビ台を見つめている。テレビ台は掃除していないから埃まみれだな。


 そして膝の上に置いた手を強くにぎりしめて、


「あたしは、行かない」


 強い語気で言った。


 この様子だと、今日も家に帰らないかもしれないな。そうなったら今夜もうちに泊めないといけないかもしれないけど、仕方ないか。


「そっか。じゃあ俺も行くのやめようかな」


 弓坂が驚いて俺を見上げた。


「俺はいなくても、うちのクラスはなんとかなる。松原や他のやつが切り盛りしてくれるからな」

「ええっ、でもぅ、ヤガミンは、行かなきゃダメだよぅ」


 こいつはどうやらひとりでボイコットするつもりらしいけど、こんなにも精神的に不安定なお嬢様をひとりにさせたら危ないだろ。


「クラスのみんなには悪いが、風邪でもこじらせたことにしておこう。その分、明後日の掃除をがんばればいいさ」

「ふうん。なら、あたしも行くのやめようかな」


 後ろのダイニングから声がしたので振り返る。セミオープンキッチンの向こうで上月が麦茶を飲んでいた。


 俺と弓坂は裏方の調理スタッフだから、替わりなんていくらでもいるが、あいつがいなかったらまずいだろ。あいつの魔王イェゾードの衣装がうちの模擬店のメインなんだから。


「いや待て。お前が行かなかったらまずいだろ。クラスの連中に怒られちまう」


 すると上月がコップを置いて、露骨に嫌そうな顔で返してきた。


「ええっ、だって、あんたらふたりがずる休みするのに、あたしひとりだけ行くのなんて嫌だもん。不平等よ。えこひいきよ」

「えこひいきって、あのなあ。お前はうちのクラスの主戦力なんだぞ。それなのにお前がいなかったら、うちのクラスの模擬店は客が来なくなっちまうだろっ」

「そんなの知らないもんっ」


 上月がぷいっと顔を背ける。


「だってあたし、そもそもコスプレなんてしたくなかったもん。でもあんたがどうしてもって言うから、仕方なく着てあげてたのよ。そのあんたが学校に行かないんだったら、あたしも行かないっ」


 上月はどうやら完全にへそを曲げてしまったようだ。今はそんな程度の低いわがままを行っている場合じゃないっていうのに。


 振り返って弓坂へ目を落とす。弓坂の瞳は、上月の太々しい膨れっ面を見て小刻みにふるえている。


 困り果てているけど、やっぱり学校へ無理やり引っ張り出すわけにはいかないだろ。


 かといって、ふたりを置いて俺だけ学校に行っても、あまり意味はない。するとこのまま三人で文化祭をボイコットするしかないのか?


 ……妹原、すまない。他にいい方法はない。あとはなんとかうまくやってくれ。

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