上月と透矢の母の思い出 - 第135話
「でもさ。海外に留学って、嫌だよね」
上月が悲しげな顔でせせら笑った。
「あんた、嫌いなんじゃない。そういうの」
どうして上月がそんなことを言い出したのか、俺にはよくわからなかった。
「なんだよそれ。まあ、正直な気持ちを言うと、山野には踏ん切りをつけてほしいと――」
「そうじゃなくて、大事な人に海外に行かれるのが嫌でしょって聞いてるのよっ」
上月が苛立って俺に捲し立てる。なんでそんなことを言うのか、俺にはやはりわからないが。
「だって、あんたのお母さんは、独りであんたを育てて、すごく苦労してたのよ。それを子どものときから見つづけて、あんただってつらかったんじゃないの」
上月がさっきから言っているのは、山野のことでも弓坂のことでもなかった。俺自身のことを気にかけていたのか。
俺の母さんは、俺が中学二年のときに死んだ。過労が
俺の父親は海外で仕事している。別居していたが、正式に離婚しなかったので、戸籍上、俺と親父はまだ家族ということになっている。
――そうだ。あのくそ野郎が海外で愛人なんかつくっているから、母さんは日本で過労死したんだ。
俺が小さいころ、母さんは独りで泣いていた。俺が寝静まったときに、ダイニングのテーブルに肘をついて、声を立てずに。
そのときは、母さんがどうして泣いているのかわからなかった。俺が幼稚だったから。
でも今ならわかる。母さんはきっと寂しかったのだ。独りでいるのが、独りで生活しないといけないことが。
けれど傍らには俺みたいに手のかかるやつがいるから、寂しくても生計を立てないといけない。
母さんはどんな思いで俺を育てていたのだろうか。そんなことを思い返すと、胸が張り裂けそうになった。
「あんた、エロメガネの彼女がヨーロッパに行ったって聞いて、何も感じなかったの? あたしは、吐き気がするくらいに嫌だと思ったわよ」
山野から聞いたときは、気づかなかったな。山野と弓坂のことがただ気がかりだったから。
――いや違う。そうじゃない。そういう対外的な理由ではなくて、感覚がきっと麻痺しているんだと思う。
母さんが死んで、くそ親父が日本にいない。それがうちでは普通になっているから、俺は気づくことができなかったんだ。
上月や他のやつらは親がいるから――それが普通だから、上月は嫌だとすぐに気づいたんだ。
「あたしは、あんたのお母さんが好きだった。優しくて、明るくて、サッカーの試合にいつも応援に来てくれた」
上月がショートパンツの生地をにぎりしめる。
「小学校に通ってたときは、あんたと話なんて全然しなかったけど、お母さんとはいっぱい話をしたわ。ほとんどあたしが一方的に話してるだけだったけど、あんたのお母さんは、いつも楽しそうに聞いてくれた。試合を観に来てくれたときはお弁当までつくってくれて、ピクニックみたいだったな」
上月の口から当時の思い出がぽつりぽつりと思い返されていく。
「お母さんが初めて倒れたのは、中一の冬だったよね」
「ああ。よく覚えてるな」
「忘れないわよ。うちのお母さんから聞いて、頭が真っ白になったんだから」
そういえばこいつは、母さんの見舞いによく来ていた。制服姿のままで、毎日のように、花までちゃんと買ってきて。
中学一年というと、こいつは中学校で死ぬほど苦労していた時期だ。それなのに、つらそうな姿は一度も見せていなかった。
「病院でね、あんたのお母さん、いつも寂しそうにしてたのよ。……きっと、あなたのお父さんが……見舞いに来てくれないから、だから、それで……」
小さくなっていた上月の身体が、ふるふるとふるえていた。赤くなった目にはたくさんの涙が溜まっている。
「あんたのことも、きっと、独りに……」
「なんでお前が泣いてるんだよ」
「知らないわよ! あんたが泣かないから、悪いのよっ!」
上月が涙を流しながら叫んだ。
「あんたは、悲しくないの!? お母さんが死んじゃって、あんなに、いいお母さんだったのにっ。……お葬式のときでも、一回も泣かないしっ。どうして我慢できるのよ!」
母さんの葬式は、上月の両親が全部取り仕切ってくれた。喪主の俺が未成年だったことと、母さんの親族がいなかったから、他に取り仕切れる人がいなかったのだ。
それ以来、上月の両親の世話になりっぱなしだから、ふたりには頭が上がらない。
母さんの死ぬ前後は目がまわるような状況だったから、ほとんど覚えていない。葬式のことも記憶にないし、上月の言う通りに俺は一度も泣いていなかったんじゃないかと思う。
それでもひとつだけ鮮明に覚えていることがある。葬式に姿をあらわさない、くそ親父が殺したくなるほど憎かったことだ。
小学校六年のときに見て以来、俺は親父と顔を合わせていない。今さら顔を合わせる気もないけどな。
上月は近くにあったタオルで涙を拭っている。今日は何回涙を見たのだろうか。
「悲しんだって、仕方ねえだろ。泣いたって母さんが帰ってくるわけじゃねえ」
「そうだけど、どうして、そんな簡単に割り切れるのよっ。お父さんのことが今でも憎いんでしょ」
簡単に割り切ってなんていない。上月の言う通り、俺は今でも親父が憎い。俺の前にあらわれたりしたら、俺はあいつを殺してしまうかもしれない。
――ああ、そうか。俺が雪村旺花を好きになれないのは、あの人が海外に行ったからなんだ。
見た目がいまいちなこととか、弓坂の気持ちが原因だったんじゃない。大事な人が離れてしまった山野の寂しげな姿が、自分にきっと重なっていたのだ。
だから弓坂のつらそうな姿を見ても、山野を責める気になれない。あいつだって、だれもいない場所で悲しんでいるのだから。
朝は文化祭で盛り上がっていたのに、しんみりとしてしまった。だからと言って、こんなにも気分が落ち込んでいるのに明るい話題なんて思いつきやしない。
上月の嗚咽を静かに聞いていると、テーブルから突然物のふるえる音が聞こえた。
俺のスマートフォンがカラフルな照明をつけながらふるえていた。だれかからの着信を受けているみたいだが、画面に表示されているのは電話番号だけだった。
「電話が鳴ってるわよ。早くとりなさいよ」
もうそろそろ日付が変わるのに、こんな時間に電話してきたのはだれだ。仕方なくスマートフォンをとったが、表示されていた電話番号を見て思わず寒気がした。
何日か前からかかってきている謎の電話番号だ。電話されるのはこれで四回目だぞ。
マジでだれなんだよ。怖い業者に俺の電話番号が漏れちまったのか?
通話ボタンを押さないで放置していると着信は切れてくれた。上月が首をかしげる。
「電話切れちゃったけど、出なくていいの?」
「ああ。だって、前からかかってきてる謎の番号だぞ」
「えっ、またかかってきたの?」
強気な上月が気味を悪くした。
知らない電話番号から何度もかかってくると気味が悪いよな。怖いからそろそろ諦めて電話しないでほしいんだが。
「着信拒否でもしといた方がいいんじゃない? ほんとに怖い人だったら大変よ」
「そうだな」
上月の言う通りだ。この電話番号は着信拒否にしてしまおう。
でも今日は疲れているから、設定するのは面倒だな。俺はスマートフォンをテーブルに戻した。
「設定は明日にでもやるか。今日はかったるいし」
「そうね。今さら急いで設定しても意味ないしね」
その通りだ。だから今日は無視してさっさと寝よう。
「でも妙よね。悪徳業者って、つながらない相手に何度も電話してくるのかしら」
上月が顎に手を当ててつぶやく。
「さあな。そうなんじゃねえのか?」
「あんたがただ知らないだけで、本当は大事な相手だったりしなきゃいいけどね」
俺にそんな人はいねえよ。考えているのがだんだんバカバカしくなってきたので俺はトイレに向かった。
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