あらわれたのは執事の松尾さん - 第101話

 扉のノックは何回かしてすぐに止んだ。


「八神様。山野様。おられますか」


 この声は、執事の松尾さんか……?


「どなたか、起きていらっしゃいますか。ドアを開けてください」


 やっぱりだ。扉の向こうから聞こえてくる声の主は松尾さんで間違いない。


 ほっと胸を撫で下ろして、俺は山野と上月を見合わせる。ふたりはこくりとうなずいた。


 玄関にそっと近づいて、ドアの覗き穴から向こうを覗き込む。ドアの前に立っている人は松尾さんで間違いなかった。


 ドアの鍵を開錠してドアを押し開ける。松尾さんは深い皺の入った眦で俺の顔を見やる。そして右手を胸に当てて会釈した。


「八神様。早朝にお騒がせしてしまい、申し訳ありません。起こしてしまいましたか」

「あ、いえ。みんな起きてたので」

「そうでしたか。昨夜もわれわれの不手際のせいで、皆様に大変なご迷惑をおかけしていると思います。誠に申し訳ございません」


 松尾さんといっしょに弓坂を捜索していた他の執事の人たちも帰ってきたみたいだ。


 それにしても、殺人事件の凶悪犯が近くに潜んでいるかもしれないこの状況下で、呑気に立ち話なんてしている場合じゃないな。松尾さんも弓坂の捜索で疲れていそうだから、とりあえず別荘の中に入ってもらおう。


「あの、立ち話するのも微妙ですから、中に入ってください」

「はい。ありがとうございます」


 松尾さんや他の執事の人たちがいれば、事件の犯人が襲ってきても難なく撃退できそうだな。そう思うと、さっきまでの不安が嘘のように消えていった。


 しかし安心するのも束の間だ。弓坂の捜索の成果について、松尾さんに尋ねなければならない。


 松尾さんをダイニングに案内して聞いてみることにしよう。


「松尾さん。それで、弓坂は見つかったんですか?」


 ねちねちと様子を伺うのが面倒だったので、単刀直入に切り出してみる。俺のとなりの椅子に座る上月が息を呑んだ。


 松尾さんはダンディズム溢れる渋い顔をわずかに変えて、


「いえ。総力をあげてお嬢様を捜索しているのですが、お嬢様は未だに見つけられておりません」


 悔しそうに状況を報告してくれた。


 松尾さんの左手がテーブルの上に乗っかっているが、その左手がわずかにふるえている。よっぽど悔しいんだな。


「皆様は、朝食はもう済まされたのですか?」

「あ、いえ」


 そういえば朝食はまだ採っていなかったな。


 すると俺の腹が、電源スイッチを押したパソコンのように急稼動しだした。ぎゅるると大きな音が響いて、妹原にくすりと笑われてしまった。


「ちょっと。こんなときに変な音出さないでよ」

「うるせえ」


 上月はすかさず俺をダメ出ししてきたが、上月の腹もつられるように鳴りやがった。


「お前だって変な音出してるじゃねえか」

「う、うるさいわねっ」


 上月は耳たぶまで真っ赤にしてうつむいた。


 松尾さんが漫画に出てくる温厚なじいさんのような顔で笑った。


「朝食はまだ採られていないようですね。すぐに用意させますから、できるまでお寛ぎください」



  * * *



 朝食の後は、満腹感から来る眠気が睡眠不足を煽って、俺たちはダイニングのテーブルに突っ伏すように寝入った。


 寝室に戻って熟睡すればいいのだが、松尾さんや執事の人たちが寝ずに働いているのを見ていると、なんだか悪い気がした。


 お昼をすぎてからもすることはとくになく、テレビのチャンネルを適当にまわしたり、スマートフォンで携帯ゲームをしてみたが、弓坂のことが気になってゲームどころではない。


 本来なら今すぐにでも別荘を飛び出して、あいつを捜しに行きたい。けれど、殺人事件の指名手配犯が近くに潜伏しているかもしれないから、二次災害が怖くて外に飛び出せない。


 午後のニュース番組に例の殺人事件がたびたび報道されるけど、犯人は未だに捕まっていないようだし。軽井沢の警察は何やってるんだよ。


 弓坂は無事なのだろうか。


 他の執事の人たちや使用人の方々が捜索してくれているみたいだけど、弓坂は未だに見つかっていない。


 あいつが指名手配犯に捕まって、もし最悪の事態にでもなってしまったら……いや、この先はつらくてとても考えられない。


 弓坂は俺たちの大事な友達なんだ。無事でいる姿が一刻も早く見たい。


 なんだか落ち着かなくなってきたので、そそくさとトイレに駆け込む。便意なんてもよおしていないのに、無駄に便座を下げて便器に座り込む。


 何かしたくても何もできない状態っていうのは、歯がゆいものだな。心の奥底から何かがざわざわと騒ぎ立てるから、じっとしていられなくなる。


 俺たちにできることは本当に何もないのか。もう少し考えたら、できることが思いつくんじゃないのか?


 気づけばトイレの中で十分以上も考え込んでいたから、便器の水洗ボタンを押して部屋を出る。トイレで長居するものじゃないな。


 そのままダイニングに戻ろうとすると、左手の袖を何かにぐいっとつかまれた。心臓が飛び出そうになる。


 な、なんだ? そう思って目を向けると、上月がそこに立っていた。


「なんだよ、びっくりするじゃねえか」

「いいからっ」


 いいからって、なんだよ。急に言われたって、何がいいのかわからねえよ。


 だが上月は俺の思いを完全にスルーして、ダイニングや玄関を見やる。かなり真剣な面持ちだが。


 ダイニングには、妹原と山野が離れた椅子に座っている。妹原は持参してきた文庫――恋愛小説か何かかな? を読んでいる。山野はテレビを茫然と眺めているようだ。


 松尾さんも部屋の隅で立って、テレビに映ったニュース番組を見ている。椅子がたくさん空いているんだから、俺たちにかまわずに座ればいいのに。


 上月がまた俺の袖をつかんでくる。上月は無言で左手の親指を立てて、寝室へとつづく廊下を指す。ここで話せない内緒話でもするつもりなのか。


 俺は廊下へと歩いていく上月についていった。

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