番外編

あいつの素顔

あいつの素顔 - 第72話

 しとしとと小粒の雨を降らす梅雨前線はまだ北海道まで北上する気配を見せないが、俺たちの日常はなんの物音も立てずに舞い戻ってきた。


 中間試験を明けた頃から中越に散々と振り回されたが、結果的には一週間の停学を受けるだけで済んだのだから、割かしラッキーだったのかもしれない。


 いや、一週間の停学って、大学に進学することを考えたら充分にダメージ大きいだろ。俺の地味な――いや無難な内申点に傷がついちまったんだぞ。


 中学校まで喧嘩などの問題は一切も起こさずに模範的な生徒として学校生活を送ってきたのに、それがすべて水の泡となってしまったのか。


 今日からきっと心の闇を秘めた問題児として、世間に認知されることになるのだ。


 今ごろマンションの近くの公園で「普通の子が今は一番怖いのよね」と近所のおばちゃんたちがこそこそと俺の噂話をしているのだろう。そしてやがて――こんな非生産的な被害妄想はさておき。


「っていうか、なんであんたがついてくるのよ」


 学校の校門から伸びる帰路を普通に歩いているだけなのに、横からなぜかクレームが飛んでくる。


 俺のとなりを歩きながら悪態をついているのは、上月だ。もはや顔を傾けてその容姿を確認するまでもない。


 言っておくが、俺が上月の後を気持ち悪くつけていたわけじゃないぞ。何も考えずに校門を通過したとなりに、たまたまこいつが存在していただけだ。


「知らねえよ。っていうか、ついてきてるわけじゃねえし」

「嘘ばっか。この間からいっしょに帰るときがあったから、いい気になってるんでしょ」


 いい気になんてなってねえよ。そもそもどこにいい気になれる要素があるんだ。


「あたしとの関係がそこそこ知られちゃったからって、あたしがあんたなんかに心を許したりしないんだからね。調子に乗ってデレデレしてこないでよ」

「ああ、はいはい」

「ちょっと聞いてるの!?」


 真面目に聞いているのが面倒になってきたのでかまわずに先を歩くと、上月がムキになってついてくる。


 この間は放課後でしっとりと女子らしい姿を拝見できたのに、結局はこれか。こいつの精神的な不細工さは相変わらずだ。


 あれから少しは反省して、多少はマシになるのを期待してたっていうのに。


 ……いや期待なんて、これっぽっちもしていないぞ。どさくさに紛れてなんという暴言を吐いているんだ俺は。


 俺が好意を寄せているのは妹原であって、こんな悪女ではない。断じて。天地神明に誓って宣言するぞ。


 仮に上月がお淑やかになったとしても、俺が上月を好きになる確率なんて、夏の某宝くじで一等賞が当たる確率より低いのだ。


 そうだ。惑わされるな、八神透矢。


 となりに気配を感じたので振り向くと、そこに上月が歩いていた。不覚にも一瞬だけドキッとしてしまった。


「なによ」

「別に」


 若干気まずい空気を感じたので、俺はすかさず顔を背けた。


 それにしても、見た目だけは悪くないんだよな。改めて思うけど。


 初夏を迎えて夏服に衣替えした上月は、白のおしゃれなサマーセーターを身につけている。ブランド通じゃない俺の目では、どこのブランドのセーターなのかまったくわからない。


 柄は無地に見えるけど、目を凝らすと花の細かい模様が規則的かつ丁寧に描かれている。


 左の胸もとにも白い花とうすいピンク色のハートマークを合わせた小さな柄が刺繍されている。クラスの女子が着ているセーターやカーディガンの刺繍と違うところを見ると、きっとマニアにしかわからない小洒落たブランドのセーターなのだろう。


 髪は左右で括って何気にツインテールにしているし。くっ、幼さが倍増されたロリフェイスも意外と可愛いじゃんかよ。


 絶賛の言葉が喉から出たがっているが、俺がそんなことを口にしたら確実に引かれるので、間違えても口に出してはいけない。


 言ってしまったら最期、上月は傲岸と腕組みしながら俺を見下して、きっとこんな感じに責め立ててくるはずだ。


『はあ? あんたみたいなきもいオタクが、なんで生意気に発情なんてしてるのよ。あんたなんかね、いつもつかってるくっさいパソコンの前で、ひとりでハアハアと発情していればいいのよ。それから、このことは雫にもちゃんと報告しておくからね。あんたが浮気性で節操のな――』


 これ以上は心臓の負担になるから、考えるのはもう止そう。


「あっ」


 上月がいきなり声をあげたので、俺の肩がびくっと反応する。ど、どうした。


 青い葉を茂らせる桜の木々が並立する通学路。学生鞄を下げてとぼとぼと帰宅するうちの高校の生徒たちでごった返している。


 そんな帰宅部ラッシュの通学路の隅に、うちの高校の制服と明らかに異なるものを着た女子生徒がたたずんでいた。


 その制服は紺色の地味なベストとミニスカートで、インナーのブラウスが白という実に無難でファッションの一欠片も見当たらないものだ。


 あとは首もとにリボンをつけているはずだが、その子はリボンをつけずにブラウスの第一ボタンを開けていた。はだけた首もとから垣間見えるのは、日に焼けた褐色の肌だった。


「せんぱいっ!」


 上月の帰りを待っていたのは、後輩の宮代栞だ。


「栞? なんで栞が――きゃっ」


 挨拶もそこそこに宮代に抱きつかれて、上月が悲鳴をあげる。


「せんぱい、今日もいい匂いがしますね~」

「こ、こらっ、抱きつくのはやめてって言ってるでしょ」


 人前で困惑する上月を他所に、宮代が頬をくっつけてすりすりする。


 宮代は上月とともに中越の暴力事件に巻き込まれたから、部活動の停止が危ぶまれていた。


 来月には中学で最後の夏の大会が控えているから、試合に出られなくなってしまったらすごくかわいそうだ。


 でも、それはどうやら無事に免れたらしい。


 あのとき彼女だけが手を出さなかったから、事件に巻き込まれただけだとして停学処分を受けなかったのだ。替わりに教育指導の先生から一時間もみっちりと指導されたらしいが、それだけで済んだのだからむしろラッキーだろう。


 それはさておき、


「お前ら、知らない間にずいぶん仲良しになったんだな」


 公衆のど真ん中で女子ふたりが抱き合っていたら、俺はもう呆然と言葉をなくすしかない。


 中学校のときのいじめの問題などか原因で、この前まで碌に口も利けていなかったんだぞ。宮代なんか、そのせいで散々に思い悩んで、雨の降る公園で涙まで流していたのに。


 だが当の宮代はけろっとした様子で、


「はい。だって、小学校のときからずっと仲良しでしたから」


 少しも恥ずかしがらずに言い捨てやがった。


 仲良しって、これがただの仲良しのレベルなのか? 放っておいたら二週間後にはガールズラブ的な何かに発展しちまいそうだが。


 人の好みや価値観にケチをつけたくはないが、おネエと同性愛だけは容認しかねるぞ。


「もう、そろそろはなれてっ」

「あうっ」


 上月が止むなく引き離すと、宮代は嬉しそうに身体をのけ反らせる。それはもう満面の笑顔で。


 お前、絶対に上月のことが好きだろ。尊敬以上の恋情がひしひしと伝わってくるぞ。


 宮代は上月の手を大事そうににぎると、上月と俺の顔を交互に見比べだした。


「せんぱい、あのっ、ひとつお聞きしたいんですけど」

「うん。何?」

「そ、その、八神さんと、いつもいっしょに帰ってるんですか!?」

「えっ!? ち、ちがっ」


 上月が顔を急に赤くして首をぶんぶんと横に振る。


「あ、あたしが、こんなやつといっしょに帰ってるわけないでしょ! きょ、今日は、偶然よっ」

「あっ、ですよね~」


 ですよね~?


「八神さんといっしょにいたから、付き合ってるのかと思って心配しちゃいましたよ。ああ、よかったぁ」


 ほら、やっぱりそうだ。俺には関係ないからいいけど。


 上月にべたべたくっついているところを見ると、宮代はこのまま上月と帰る気で満々のようだ。


 そもそも大会が近いのに、こんなところで油を売っていてもいいのか? しかもこいつはたしか女子サッカー部の部長だったはずだが。


「あたしは栞といっしょに帰るけど、あんたはどうする?」


 上月が見かねて俺に提案してきたが、お前たちの間に俺はとても入れないだろ。


「俺はいいよ。ひとりで帰るから」

「そう」


 宮代の頭をなでながら上月が苦笑する。


 突っ込みを入れたいところは他にも色々とあるけど、ふたりの仲が戻ったのは、まあよかったんじゃないか?


 上月はいつもひとりで澄ましているけど、心に受けていた傷はまだ癒えていないんだろうからな。宮代みたいな後輩が近くにいてくれた方がいいのかもしれない。


「それじゃあ、せんぱい、行きましょー!」

「ああ、ちょっと、手を引っ張らないでっ」


 快活な宮代に手を引かれて、上月が通学路を走り去っていく。その背中はいつもとあんまり変わらないけど、寂しげな感じが少し薄れているような気がする。


「あれぇ、そこにいんの、ライトっちゃんじゃね?」


 なんてな。俺みたいなやつが知ったような口を叩いちゃいけないけどな。


 振り返ると、木田と桂がこちらに向かって歩いていた。桂はいつもの間抜け面を向けて、一方の木田はかっこつけて腕組みをしている。


「ああっ、やっぱしライトっちゃんじゃん」

「ライトくん。きみはわれわれのヘルプの要請を無視して先に帰宅したんじゃなかったのかね?」


 意味のない軽口を叩いてくるのもいつも通りか。


「ヘルプの要請ってなんだよ。お前らがトイレ掃除をさぼってたから、やり直しをさせられてただけだろ?」

「そうとも言うな」


 木田がニヒルな笑みを浮かべる。


 桂が木田の肩をがしっとつかんで右手を振り上げた。


「んじゃ、三人でまたゲーセンにでも行っこうぜいっ!」

「へいへい」


 俺も肩をつかまれて、だらだらと学校を後にした。

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